4 お嬢様の正体(後)
「もしかして、心当たりがあるの?」
ユウが千春の顔を覗き込んだ。
千春は自分を見つめている三人を見渡して言った。「――うちのママって、雇われなんです」
三人はそれぞれ頷いた。千春が続ける。
「つい何年か前までは専業主婦で、旦那さんの経営する会社――内装業って言うてたかな。中小企業やけど、順調に行ってて、ママは一応社長夫人やったの。それが、何がきっかけかまでは知らないけど、経営が危なくなって――一家四人、路頭に迷いそうになったんやて。で、ママの実のお姉さんの旦那さんっていうのが、これまた実業家で。そっちはいろいろ手広くやってて、相当の成功者なんやて。それで、ママと旦那さんは、お姉さんを通してその人に資金援助を頼んだの。おかげで会社は窮地を脱して、何とか持ち直したそうよ」
「その、ママが――お嬢さんてこと?」
ユウが納得しきれていないという表情で言った。
「ううん、違う。ママはもう五十歳手前よ。そこそこ綺麗やし、そうは見えへんけど。まだ話の続きがあるの」千春は頭を振った。「それで、ママは資金援助の返済のために『ブルーローズ』で働き出したわけなんやけど、この店のオーナーっていうのが――」
「その義理のお兄さんなんだね」芹沢が言った。
「その娘。ママの姪っ子」千春は強い眼差しで芹沢を見た。「お父さんの事業を手伝ってる――と言えば聞こえがいいけど、パパの会社の傘下にある手ごろな規模の会社や店のオーナーに就いて、実質の経営は社員に任せて遊んでる、要するにゴリゴリの脛かじりのお嬢さんよ」
芹沢は鍋島に振り返った。鍋島は自分のアイスコーヒーのグラスを見つめて小さく頷いた。
「つまりそのお嬢さんが、信哉と関係があったかも知れんってこと?」ユウは首を捻った。「どこで知り合うたんやろ」
「森下さんはそのオーナーに会ったことは?」
「……何度もある。うちの店にもほぼ月一で顔を出すから」
「歳はいくつ?」
「たぶん三十歳ぐらい。すらっとしてて、アンニュイな感じ。ぱっと見そんなに派手じゃないけど、身に着けてるものはみんないい物ばかりよ」
「『ブルーローズ』の他にオーナーに就いてるのは、どういった会社や店か分かる?」
「えっとね、アパレルの会社を持ってるの。それと、その会社が経営するメンズブティックもよ。あと他に――」
「それだ」芹沢はパチンと指を鳴らした。
鍋島も頷いた。「どうやら皮肉にも、そこの従業員に岡本さんは熱を上げてたわけか」
「え、なにそれ、どういうこと?」とユウ。
「岡本さんは『金蔓』に貢がせた金で、お気に入りのブティック店員の気を引くために店で高価な服を買うてたんや。それがそのお嬢さんの店の可能性があるってこと」
「へえ……確かに皮肉やな」
「他に、まだあるの?」芹沢が千春に訊いた。
「あるわよ。ライヴハウス」
芹沢は眉を上げた。「……どこの?」
「えっと、どこだったかな――」
千春はストローを艶のある唇に近付け、天井のダウンライトを見上げながら言った。「キタやったと思うけど。梅田かなぁ……もうちょっと離れてたかな」
「ライヴハウスなら、岡本さんと知り合っててもおかしくないな」
鍋島がユウに言った。ユウも頷く。
「森下さん、思い出して。頼むよ」
芹沢が千春の顔を覗き込んだ。千春は嬉しそうに微笑んで、それから今度は俯いて残り少なくなったジュースを掻きまわすと、ぱっと顔を上げた。
「思い出した。中津よ」
千春は芹沢を見た。「信哉も頼まれてライヴに出たことあったと思う。知り合いのバンドのヘルプで」
芹沢はゆっくりと腕を組んで背もたれに身体を預けた。鍋島に振り返ると、彼は小さく頷きながら訊いてきた。
「いたか。それらしいの」
「いた。危うく騙されるとこだったぜ」
芹沢は頷いた。ライヴハウスを訪ねたときにいた、あのスレンダーな女性だ。スタッフだと思っていたが、オーナーだったか。自分は特に岡本に興味はないと言っていたのに、実は真逆だったということらしい。
そして芹沢は千春に訊いた。「そのお嬢さんの自宅は分かる? 会社でもいいよ」
「ええ、でもそれが――」
「どうしたの?」
「ママによると、二日ほど前から連絡が取れへんくなってるみたい。電話は繋がらへんし、一人暮らししてるマンションもいてへんらしいし。親も知らんとかで、何か用があるらしいママは困ってました。困ってるっていうか、焦ってる感じ?」
「そりゃまずいな」と芹沢は鍋島に言った。「早いとこ見つけねえと、また行方不明だ」
「もうええわ」鍋島は顔をしかめた。
「え? なに? 何やて? 話が急展開すぎて追いつけへんのやけど?」
やり取りを聞いていたユウは、三人を交互に振り返りながらただあたふたするばかりだった。
ジャズクラブを出た鍋島と芹沢は、その足で事件前日に岡本信哉と坂口郁代が口論し、険悪な雰囲気になっていたという証言をした『ブルーローズ』のママ・
玄関で二人を出迎えたとき、憲子はすっかり観念したようだった。任意同行を求め、問い詰めたところ、証言は虚偽だったとあっさり白状した。夫の事業の危機を救ってもらった姉夫婦の娘であり店のオーナーである
波奈はその日のうちに大阪に連れ戻され、西天満署で事情聴取が行われた。
岡本殺しを問い質されたとき、最初は髪を振り乱して否定していたが、叔母の憲子が偽証を白状したと告げられると急におとなしくなった。岡本とは二年ほど前からの関係で、まさに昨秋のあのライヴのあった頃から態度が冷たくなった彼を、何とか金で繋ぎとめておくのに必死だったという。そして今年の初め、彼が自分の経営するメンズブティックの店員に熱を上げているのを知り、問い詰めたところ、彼があっさり認めたので金を貢ぐのをやめたという。すると彼は『ブルーローズ』にやってきて、波奈を指して言っているような悪態をつき――事件の一週間ほど前に酔っぱらって千春たちに自慢気に吹いて回った、例の発言だ――そのときの様子を憲子から聞いた波奈は、東京にいる『NEW DAWN』の元メンバーに頼んでなりすましメッセージを送らせた。すると、それを郁代からではなく波奈の仕業だと見抜いた岡本がその日のうちに彼女を呼び出し、問い質してきた。波奈は岡本にまた金の無心をされるのだろうと予測していて、応じてやるつもりだったが、岡本は意外にも金の要求ではなく、郁代に謝罪することを求めてきた。岡本は郁代を大切な友達であり戦友だから、何もかも金の力で自分の言いなりにできると思っているおまえなんかとは違う、簡単に俺たちの仲は引き裂けないと言ったそうだ。波奈はそれを聞いて、岡本を殺す決心を固めたという。
そして、そもそもなぜ郁代になりすましたメッセージを送ったのかは、彼女が岡本と仲が良かったこと、自分と同じように彼に多額の金を渡していたこと、そして何より、岡本の言うように彼が一番信頼している相手だったからというのが、数多い岡本と関係のある女性たちの中からターゲットにされた要因だった。つまりそれらは、当時の捜査本部が郁代を容疑者とする根拠となった『状況証拠』とほぼ一致する。波奈はかねてから郁代に対して激しい嫉妬の念を燃やしていたのだ。そうなると郁代が岡本を説教をしたり踏み倒された借金をいともあっさり諦めたりする様子が、自分に対する優越感を見せつけているかのように思えてきたという。それでいつか彼女を陥れてやろうという意欲が湧き、岡本の殺害時には、彼への復讐心が目的なのか、それとも郁代の社会的抹殺が目的なのか、どちらともはっきり意識できなくなったと言うから、人間の嫉妬心とは恐ろしいものだ。不用心に侮っていると酷い目に遭うということを、岡本は身を挺して警告してくれたのだった。
さらにお粗末なことに、当時の捜査本部が、犯行当日、ミナミを一人で飲み歩いたあと自宅マンションで就寝していたという波奈のアリバイを、時間は憶えていないが確かに見たという曖昧な目撃証言の裏付けのみで信用していたことが判明した。検察の厳しい追及により、捜査本部長であった東梅田署長をはじめ、府警本部の刑事部長、捜査一課長は責任を問われて減給処分となった。実質的な捜査指揮を執った東梅田署の刑事課長と本部捜査一課の管理官も同様の処分を受けた。
そして、長年の『刑事の勘』とスマホへのメッセージだけを頼りに坂口郁代に対する強引な逮捕及び取り調べの事実を理由に、捜査一課の大牟田巡査部長は、大阪の果ても果て、
こうして、岡本信哉殺害事件は真犯人・野村波奈の逮捕で完全解決となり、坂口郁代は晴れて釈放されたのだった。
ちなみに、辻野仁美を襲った『フランケンシュタイン』の正体だが、これもまた先述の『NEW DAWN』の元メンバーである。坂口郁代の冤罪を疑って彼女と岡本の関係を取材するために『ブルーローズ』のオーナーである波奈を訪ねてきた佐伯葉子を脅すようにと彼女に指示され、ご丁寧にもはるばる東京から葉子のマンションを訪ねてセキュリティーを破って侵入し、仁美を待ち伏せして脅迫したのだ。ご苦労なことだ。
数日後、鍋島と芹沢は署長に呼ばれ、気持ち悪いほどの労いの言葉をもらった。そして早く警部補への昇進試験を受けるようにとも勧められ、その際には自分の強い推薦も添えさせてもらうと頼みもしない約束をしてくれたのだった。二人はありがたく、そしてひどく退屈な気分でその話を聞いた。
刑事部屋に戻る階段の踊り場で、芹沢は壁にはめ込まれた小さな窓の外を眺めている鍋島を見つけた。ゆっくりと階段を下り、ちょうどその後ろに立ったとき、鍋島が呟くように言った。
「……蛙の子は蛙やな」
「え?」と芹沢は眉をひそめた。「何だって?」
鍋島は俯いた。右手で作った拳をゆっくりと窓枠に打ち付け、足で床を蹴った。そして大きくため息を漏らしながら、何度も舌打ちした。
「おい、どうした」
芹沢は鍋島の肩越しに彼の顔を覗き込んだ。
鍋島は激しく頭を振った。そして今度は拳を左に代え、一度だけ激しく壁を殴ると、そのままその姿勢で固まってしまった。やがて彼は、小刻みに肩を震わせ、声もなく笑い始めた。
くっくっと引き笑いを続けながら、鍋島はそのうちゆっくりと左手を下ろし、そして今度は薄汚れた壁に額をくっつけた。何かが可笑しくて笑っているというより、何かに呆れて笑っているようだった。芹沢は腕を組んでただその様子を窺っていた。
ようやく鍋島は言った。
「……
「え?」
「親父と同じや。ああいう警官にはなりとうないと思ってた親父と同じことを、結局は俺もやったんや。しかも、同じ相手にな」
その意味を
「お釈迦様の手の上で走り回ってる
「……くっだらねえ。そういうのを結果論って言うんだ」
芹沢は吐き捨てると同時に、鍋島の後ろを掠めて階段を下りて行った。
芹沢の後をゆっくりと追いながら、鍋島は腹の底から搾り出すような嫌悪とともに呟いた。
「――手錠、はまったままや――」
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