4 訳あり風の男女


 松坂屋デパートの二階にあるスターバックスのカウンター席で、芹沢と川島智は各々の注文したドリンクを手に並んで座った。

「――驚いたよ。ここでキミに出会うとは」

 芹沢は嬉しそうな笑顔で言った。実際、かなり人恋しい状況下で声を掛けられ、素直に嬉しかったのだ。

「僕もちょっと、自信がなかったんやけど――おととい初めて会った人で、それもちょっとの時間やったし、見間違いかもって。でも、間違いやったら謝ればいいやって、勇気を出して声を掛けて正解でした」

 智もにこにこと笑って言った。眼鏡の奥でパタパタとなびく長い睫毛と小さな口が女の子のような印象を受ける可愛らしい顔立ちをしていたが、聞けば全校生徒約千人をまとめる生徒会長の要職にあると言う。家は高槻駅から徒歩で十五分ほどのところにある内科医院で、自分も今、国立大の医学部を目指して『鬼のような』受験勉強の真っただ中にあると言ってまた笑った。

「――今日も今から、予備校に行くところで」

「そうなんだ」芹沢はコーヒーを啜った。「え、じゃあゆっくりしてられないね」

「大丈夫です。授業は六時半からだし。いつも早めに行って、向こうで軽く何か食べるんです。その時間を見越してあるんで」

 芹沢は頷いた。「遅れないように、時間が来たら遠慮なく言ってね」

 はい、と智は頷き、ストローでアーモンドミルクラテをかき混ぜて一口飲んだ。

「――あの本屋さんね、中学のときの同級生のお父さんが経営してるんです」

「そうなんだ。割と大きな店だったね」

「ええ。だから結構いろいろ揃ってて。普段はネット購入なんですけど、急ぐときとか、ネットでも見つからなかったり送料が高かったりするときは、取り寄せてもらうんです」智は手提げ鞄から分厚い本を取り出した。「今日もこれを受け取りに」

 かなり難解そうな数学の参考書だった。国立の医学部を狙うには、そのレベルも当然なのだろう。

「勉強熱心なんだね」

「熱心と言うより、やるしかないって感じ」智は肩をすくめてため息をついた。「私欲は捨ててます」

「そうだね」

 芹沢は同情気味に言った。受験勉強のしんどさは、自分にも覚えがある。智のように親の期待が大きい場合や、自分のように自らハードルの高い志望校を選んだ場合などはなおさらだ。

「――ところで、本屋さんで店員さんにスマホの画像見せてたでしょ。お仕事ですか?」

 智は眼鏡の中の黒目をくるくると動かして訊いてきた。そう言えば、さっきの本屋でスタッフに訊き込みをしていたとき、レジの近くに人がいた。それが彼だったらしい。

「うん、そうだけど」芹沢はカップをソーサーに置いた。「目撃者探し。不毛な仕事さ」

「僕にも見せてもらえます?」

 芹沢はスマートフォンを取り出し、智に坂口、峰尾、内田の画像を順に見せた。

「――え?」智は画面を指差した。「――あ、二番目の人――」

「見たことあるの?」芹沢は顔を上げた。まさか。

「たぶん……百パーセントの自信はないけど」

「何時頃? どこで?」

「いつの話のことですか?」

「今年の一月三十日。午後七時半頃」

「あ、じゃあ違います。僕が見たのは去年の暮れやったから」

「去年の暮れ?」

「うん。冬休みに入ってすぐくらいやったと思います」

「……その話、詳しく聞かせてくれるかな」

 芹沢の深刻さが伝わったのか、智もすっと神妙な表情になり、ゆっくりと頷いた。「分かりました」

「何か食べるかい? 時間、無くなるといけないし」

「……じゃあ、そうしようかな」

 智は注文カウンターに振り返って首を伸ばした。

「奢るよ」芹沢は上着の内ポケットに手を入れた。

「まさか。そんなことできません」智は手を振った。

「でも、俺が引き留めたんだし」

「大丈夫です。開業医の親からたっぷりお小遣い貰ってるんで」

 そう言うと智はえへへと笑った。この子が言うと、自虐ですら爽やかだ。

 そして、彼が注文カウンターではきはきとオーダーし、支払いを済ませている声を背中で聞きながら、芹沢は彼がこの先ずっと琉斗のいい友達でいてくれるといいなと思った。

「――十二月の二十五、六日頃だったと思います」

 ニューヨークチーズケーキの乗った皿をテーブルに置き、腰を下ろすと智は言った。「予備校の帰りに入った駅前のショッピングモールにあるハンバーガーショップで見かけました」

「ハンバーガーショップ?」

「はい。予備校が終わるのが八時半で――新大阪にあるんですけど――そこからJRで帰って来て、高槻に着くのはいつも九時前後になります。その時間になると僕、めちゃくちゃお腹が減って、家に着くまでにたいてい何か食べてしまうんです。母にはいつも『自転車で五分も走れば家に着くんやから、寄り道はやめなさい』って叱られるんですけど、どうしても我慢できなくて。ほら、『育ち盛りの元気な子』なもんで」

 芹沢は笑って頷いた。これもまた自分にも覚えがあったし、何より智の屈託のない話し方は、聞いている者を愉しくさせる。

「で、まあそんな時間やから、僕みたいに見たらすぐに未成年って分かる人間が入れるとこっていうと、ファストフードの店しかないでしょ。その日も店に入ったのは確か九時過ぎだったと思います。お客は少なかったです。三、四人やったかな。その中にさっきの男の人がいました」

「一人で?」

「ううん、女の人と一緒でした」

 ――やっぱりな。峰尾が郁代のアリバイ主張を否定したのは、高槻に女絡みの事情があったからだ。

「どんな女性だったか憶えてる?」

「うーん……どう言うたらええのかな」と智は考え込んだ。

 芹沢はスマートフォンを操作し、さっきの坂口の画像と、辻野仁美から提供された佐伯葉子の画像を開いて智に見せた。

「念のために訊くけど、この二人のうちのどっちかだったってことはなかった?」

 智はしばらくのあいだ画像を見つめたあと、首を振った。「違います」

「じゃあ、どういう感じの人?」

「そうやな――歳はたぶん、その人たちとそう変わらへんと思うけど、もっとこう、何て言うか――」

 そこまで言って智は言い淀んだ。

「もっと、何?」

「……言うていいのかな、はっきり」

「いいよ。はっきり言ってもらった方がありがたいから」

「もっと美人でした」

「そう」と芹沢は真顔になって頷いた。村田江美子だ。

「あ、でも、この人たちが綺麗やないって言うのとは違うから。誤解しないでくださいね」

「分かってるよ」

 芹沢は笑顔になった。智は智で、女性に気を遣っているのだ。

「あのとき僕、こんな時間にこんなとこでええ大人の男女がハンバーガーかい、って、すごく不自然に思えて。だって、普通あんな年頃になったら、みんな高級ホテルのレストランかバーに行くんでしょ。そのあとの“お愉しみ”に備えて上階に部屋なんか予約して」智は意味深に目を細めた。「それがあんなお手軽なところで――よっぽどお金がないのかなぁって、そう思いながら何となく観察してたんです。僕と二人のあいだには空席のテーブルが一つあって、話の内容まではよく分からへんかったけど、表情はよく分かりました」

「どんな表情だった?」

「なんか、二人ともやたら深刻だったような記憶があります。それで僕、ピンと来たんです。ははん、この人ら不倫してるなって。それがあの男の人の奥さんにでもバレたんやなって。そう考えてみたら、二人の何となく人目をはばかる様子がよく分かってきて。あんなとこにいる謎も解けて」

「と言うと?」

「ほら、ああいう店の方が自分たちの知り合いに会いにくいでしょ」

「なるほどね」――智はやはり頭の良い少年だ。

「二人はどのくらいの時間その店にいた?」

「よく分かりません。僕が店に入ったときには既にいたし、十五分ほどで僕の方が先に出たから」智は首を振った。「早く帰りたかったんで。あ――そう、その日は兄が帰省してくる日だったから、急いでたんです。せやからあれは――十二月二十六日でした。間違いありません」

 芹沢は大きく頷いた。「川島くん。きみに会えて良かったぜ」




「――それじゃあ先生、失礼します」

 スマートフォンをデスクに置いて、芹沢は振り返った。「やっぱりそうだ。坂口と一緒に借りたマンションの契約書に同居人として記入した村田の偽の住所に住む実在の家族の筆頭者は田村明弘あきひろ。その長女が芙美江だ」

 口の端に火の点いていない煙草を挟み、烏龍茶のペットボトルを片手にデスクに肘を突いていた鍋島は黙って頷いた。

「これでちゃんと証明されたな。坂口郁代の同居人だった村田江美子の本名は田村芙美江。佐伯葉子の友人で、峰尾昭一の知り合いでもあったってわけさ」

「けど、何で偽名なんて使たんやろ」

「そこが今ひとつはっきりしねえとこだな」

「何かヤバいことに関わってたとも考えられるけど――それやったらほんまの住所を使うなんて不用心やしな。偽名の意味がなくなる」

「持田先生は拘置所に行ったら、坂口にそのへんの心当たりがないか訊いてみるってよ。例のイシカワケイコについても」

「高校生がハンバーガー屋で目撃した峰尾の相手の女は、田村と考えて間違いないやろうけど、ひょっとするとそのイシカワかも知れんしな」鍋島は煙草を箱に戻すと、両手を頭の後ろに当てて身体を椅子の背に預けた。「峰尾が高槻でいったい何をやってたかやな。部下を巻き込んで嘘の証言をせなあかんほどの何かや」

「係長がやつの名前と東栄商事に聞き覚えがあるって言ってたけど――今度もかもな」

「その手の事情?」

「社名とその重役の名前を一緒に覚えてるんだぜ」

 その意味が分かった鍋島は頷いた。「……なるほどな」

 芹沢の言ったその手の事情とは、企業犯罪のことだ。

「ざっと検索かけてみたけど、社名は引っかかってくるものの峰尾の名前は出て来ねえ」芹沢はスマートフォンを指で弾いた。「捜二に訊いてみるか?」

「……捜二ね」鍋島は俯いた。「気が進まんな」

「……親父さんの亡霊か」芹沢はため息をついた。

「いや、違う――」

「分かったよ。やめとこう」

「違うって、俺は――」

「いいって。そのうち係長が思い出してくれるさ」

 芹沢は立ち上がり、コーヒーを入れに行った。

「また本部に掛け合うのが嫌なんや。またあそこの連中に――」

「だからそれが、親父さんの亡霊に囚われてるって言うんだよ」

 芹沢は振り返った。苦々しい表情で鍋島を見つめ、苛立たし気に言った。「……とっくに退官してるんだぜ。おまえの親父は」

「分かってる」鍋島は顔を上げなかった。

「府警はおまえの職場だ」

「そうや」と鍋島は力なく頷いた。「けどな。親父の職場でもあったんや。四十年近くも」

 芹沢は首を振った。「……おいおい」

「分かってるよ。考えへんようにはしてるんや。けど、そしたら決まって誰かが思い出させるようなこと言うてきよるんや。今度かて、あの大牟田ってやつが、口を開いたら親父のことを――」

「おまえがそんな弱気だから、他のやつらに好き勝手言われちまうんじゃねえのか?」芹沢は口調を強めた。「もう七年もやってんだろうが。もっと自信持てよ。歯痒くってしょうがねえんだよ」

「……そうか」

「もっとはっきり言おうか? 一緒にいる俺までとばっちり受けて、迷惑なんだ」

 芹沢が本気で言っていないのを見透かして、鍋島は小さく笑った。

「笑ってんじゃねえ、むかつく」

 芹沢はこっちがいくら突っかかっても鍋島が怒ろうとしないのだと悟り、諦めのため息をつくと席に戻って呟いた。

「……なんで他の職業しごとに就かなかったんだよ」

 そのとき、鍋島のスマートフォンが電話の着信を知らせる画面に変わった。掛けて来たのは麗子だった。

 画面を見た芹沢は、顎をしゃくって鍋島に言った。

「美人の婚約者フィアンセだ。せいぜい慰めてもらえ」

 鍋島はここで初めて不機嫌な顔をした。


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