3 徒労の積み重ね


 バイクの修理を依頼した男性の経営するウェブデザイン会社は北区の茶屋町ちゃやまちにあった。芹沢が訪ねると、会議中ということでしばらく待たされた。さらにそのあとも大事な商談で外出の予定があるらしく、芹沢に与えられた時間は十五分だった。


 さほど広くはないが洗練されたインテリアで統一された社長室で、芝田良市りょういちはバタバタとデスクの上の書類を片付けたり小さなノートパソコンをカバンに入れながら、にこにこと愛想の良い笑顔で芹沢を迎えた。

「――あの人、殺されたんやってね。ニュースで見てびっくりしました」

 芝田は言った。四十三歳、張りの良い肌に柔和な瞳と情の厚そうな豊かな唇、短く刈り込んだ流行りの髪型がよく似合っていた。ベージュ系のチェックのテーラードジャケットに濃紺のパンツ、仕立ての良さそうなドレスシャツにすっきりとした色調のネクタイ、そして高級そうな腕時計。どこをとっても『成功者』の要素しか見つからない好人物だ。だからと言ってこの男がシロだとは微塵も思わない芹沢だったが、十五分で白黒を断定できる確証もはっきり言って持てなかった。それでもとにかく、有力な手がかりが無く事件の“筋”が見えてこない今は、朝に鍋島と話していたように可能性を一つ一つ潰していくしかない。

「――そうなんですよ。それで、被害者についていろいろと調査する必要が出てきまして。こうしてお伺いした次第です」

「なーるほど、分かりました」芝田は小刻みに頷いた。「え、でも確か犯人は――」

「ええ、容疑者は逮捕されました。まぁそれで、証拠固めと言いますか、いろいろと範囲を広げましてですね――」

 冤罪かも知れないので事件を掘り返して調べ直している、とは言えなかった。

「面倒なことをなさってるんですね」芝田は気の毒そうに苦笑いした。

「ええ。上の命令には逆らえません」芹沢は適当な嘘をついた。

「それで、何をお訊きになりたいと?」

「実は、芝田さんが岡本さんにバイクを壊された、という話を聞いたのですが」

「ええ。ねだられて貸したら、派手にコケちゃったみたいでね」芝田は笑った。「直してくれたのはいいけど、業者が悪かったみたいで。子供の工作みたいな修理でしたよ。あんなことになるなら、僕の方で修理に出して代金を請求すればよかったなって。彼にも悪いことしました」

「というのは?」

「だって、ちゃんとした業者を知らなかったみたいだし。せめて教えてあげれば、彼もあんな粗悪な修理に代金を払うことはなかったんです」

「ですね。ただ、まともな業者の修理代金だと払えたかどうか。高価なバイクですし、高くつきますよね。岡本さんは一応プロのミュージシャンですけど、決してそれだけで食べていけるような収入は得られてなかったようですから」

「そこは相談してくれたら、僕だって全額払えとは言わない。高額になることはあらかじめ分かっていましたから」

「そもそも、そんな高価なバイクを壊されたのに、腹は立たなかったんですか?」

「そりゃもちろん最初は怒りましたよ。でも、彼は僕の友人のバンド仲間でしたし」

 そう言うと芝田は困ったように首を傾げて笑った。「事を荒立てることで友人まで巻き込んでギクシャクしてしまうのは本意ではありませんでしたから」

「はあ」芹沢は曖昧な返事をした。

「年の離れた友人でね。僕にとっては貴重な存在で――最初、僕のバイクを見た岡本さんがえらく気に入ったみたいで、少しでいいから貸してくれと頼んできたんですけど、僕が渋っていると、とうとうその友人からも『貸してやってよ』って頼み込まれたんですよ。それで、少し乗るくらいならいいかと、まあ折れたわけです」

「断り切れなかったと」芹沢は言った。「挙げ句に壊されて、災難でしたね」

「いや、まあ――そうやっていささか強引にねだられたのは事実ですが、承諾したのは僕ですから、あまり責め立てるようなことはしたくなかったんです。歳も彼らより上だし、経済的にも僕の方が余裕があるのは分かっていましたから、粗悪な業者とは言え修理代金を払った彼にはそれ以上の要求をしませんでした。そんなことより彼に深刻な怪我がなくてよかったと、心底思いましたしね」

 ――なんていいヤツなんだこのおっさん。俺も友達になりてえよと芹沢は思った。

「で、そのバイクはもう手放されたとか」

「ええ。妻に怒られましてね。そんな道楽、やめてしまえって」芝田は今度はバツが悪そうに笑った。「僕の場合、妻の命令には逆らえません」

「なるほど」

 ライヴハウスで聞いた話とはずいぶん違うなと芹沢は心の中で首を傾げた。あそこのスタッフによると、この男は岡本と大喧嘩になり、確か友人との間にも亀裂が入ったとのことだった。結果、バンドのメンバーは岡本を排除し、さらに彼はライヴハウスから出禁も食らった。もめにもめている。


 ――どっちの言ってることが正解なのか。余計にこじれてきたぞ。


「――あの、つかぬことお伺いしますが、今年の一月三十日の夜は――」

「アリバイですね。岡本さんが殺された夜の」芝田は神妙な顔で頷いた。

「ええ、はい」

「待ってください――」

 芝田はデスクのシステム手帳を忙しくめくった。「えっと――その日の夜は接待で取引先と食事をしてました。七時からとなってます。場所は北新地の寿司屋で――ああそうや、確か二次会にも行きました。ただ、日付が変わる頃には解散したと記憶しています」

「行かれたお店と、同行者のお名前を教えていただけますか」

「分かりました」

 すると芝田は開いたシステム手帳を芹沢に向けて見せた。「これです」

 芹沢は寿司屋と二次会で行ったというバーの店名と、接待先の社名と社員の名前を手帳に控えた。

 芝田が腕時計を覗いたのを見て、芹沢は言った。「十五分経ちましたね」

「申し訳ない。急かしてしまって」

 芝田は頭を下げるとすぐに立ち上がった。「お役に立てたかどうか」

「いえ、突然お伺いしたのにお話しくださってありがとうございました」

「またいつでもいらしてください」

 芝田はドアの前まで行って扉を開き、にっこりと笑った。早く帰ってくれということらしかった。


 芝田の会社を出た芹沢は、彼に聞いた北新地の寿司屋に電話を掛けた。時刻は十一時で、新地にあるたいていの店の営業時間には程遠かったが、近頃はランチ営業しているところも中にはあるらしいので、ダメ元で掛けてみたのだ。しかしあいにく今日は定休日らしく、芹沢はその旨を伝える留守番電話の音声を聞いて電話を切った。続けて二次会のバーにも掛けたが、そこはコール音が鳴るばかりでメッセージすら流れてこなかった。芹沢はあっさり諦めた。

 次に、接待先の会社に電話して当事者の社員を呼び出した。しかし本人は今日は出張で不在らしく、戻るのは明日の夕方ということだった。そこで直接問い質そうと携帯電話の番号を聞いたが、個人情報を伝えるにはそれなりの手続きを踏んでくれと言われ、これまた引き下がるしかなかった。


 それで、ふと思いついて阪急梅田駅に向かった。高槻へ行って、峰尾か坂口の目撃情報が得られないかと思ったのだ。三ヶ月近くも前の駅前での一瞬に違いない記憶なんて、たいして、いやほとんど期待できないとは思ったが、ひょっとして、との思いがある以上は潰しておくしかない。今日のところは他に決まった捜査対象はなく、幸い、峰尾と内田、坂口の顔写真はスマホに保存してある。一人ではかなり無理があるだろうと思ったし、当てのない無謀な策とは承知の上で、とりあえず行ってみることにした。



 阪急京都線を高槻市駅で降りた芹沢は、そこから直線距離で約六百メートル西にあるJR高槻駅に向かい、峰尾と坂口の目撃証言を求めて駅前周辺をしらみつぶしに聞き込んだ。

 ――これらの画像の人たちを、一月三十日の午後七時半前後に見かけませんでしたか?――この質問を繰り返す。そして、返ってくる答えもほとんど同じだった。

『知らない』『見てない』『覚えてない』。『急いでる』『うるさい』『邪魔だ、どけ(帰れ)』と言うのもあった。それでも芹沢は根気よく訊ね続けた。地味で退屈で、そして惨めだとさえ思えて来るこういう作業の繰り返しこそ、刑事の仕事の大半を占めていると言っていい。それができないと言うのなら、答えは簡単、潔くバッジを返せばいいのだ。それで解放される。


 昼時になったので駅から歩いて数分のところにあるラーメン屋で昼食を摂った。知らずに入ったのだが、グルメサイトで高評価を得ている有名店だった。燕三条系と言われる名物メニューを注文したが、空腹だったのを差し引いてもかなりの旨さだった。せめてこのくらいの収穫はないとなと満足して二十分ほどで店をあとにすると、今度は駅の北側にある商店街を回った。ここではさっきとは少し違う反応が返ってきた。違うとは言っても、面倒がらずにきちんと写真を見てくれるという好意的な態度と、否定的な答えをするうえで芹沢を気の毒がってくれるという、その違いだけだ。要するに結果は同じだった。

 一時間半ほど歩き回った頃になって、右足の小指がじんじん脈を打ってきた。バス停のベンチに座って靴下を脱いでみると、小指のあたりに血が滲んでいた。近くのコンビニに駆け込んで絆創膏を買い、小指と、念のために踵にも貼った。

 さすがに、見通しの暗さを感じずにはいられなかった。もはや手遅れ、やっぱり無謀だったというわけか。

 結局、四時近くになっても有力な手掛かりはなく、いよいよ阪急の駅まで足を延ばさなければならないのだろうかという、ひどく気の重い考えが頭を過っていたとき、芹沢は聞き込みに入った本屋から出てきたところで、後ろから声を掛けられた。

「――あの、すいません」

「はい?」

 振り返った目の前には、記憶に新しい黒縁眼鏡の少年が立っていた。

「きみは――」

「やっぱり。芹沢さんだ」少年はにっこりと笑った。「川島智です」

「――琉斗の――」

 延々と手応えのない聞き込みのせいで心と身体がよほど疲弊していたのだろう。見知った顔に会って、芹沢はちょっと泣きそうになった。


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