4 穏やかな証言者


 三人が腰を下ろしたところに、見計らったような絶妙のタイミングでさっきの秘書が紅茶とクッキーを運んできた。紅茶カップはドイツ製の高級ブランドのものだった。

「――で、今日は何でしょう」

 秘書が出て行ったあと、峰尾は紅茶にスライスしたレモンを浮かべながら言った。

「この前、峰尾さんが警察で証言されたことについて、詳しくお話を伺いたいんです」持田が答えた。

「その件でしたら、以前にも先生にお話ししたはずですが」

「ええ、ただ、峰尾さんもご存じだと思いますが、私の依頼人が依然として犯行を否認しているもので、私としてはできるだけのことはしたいと。それでこうして、もう一度詳しくお話を伺いに来たんです」

「なるほど」と峰尾は肩をすくめた。

「あ、ちなみにこれは皆さんにお願いしていることで、峰尾さんだけに、ということではありませんのでご心配なく」

 持田は小刻みに手を振って、バツが悪そうにちょっと笑った。

「承知しました。ただ、私の証言が坂口さんを不利な状況に追い込んでしまっていることは重々分かっていますし、協力して差し上げたいのはやまやまなんですが、嘘を言うわけにはまいりませんので」

「もちろんです。証言を翻してほしいとは言いません。もう一度事件当夜のことをよく思い出して、お話しいただきたいんです」

「思い出すも何も、私は坂口さんの主張に反する事実しか言えないんですよ。そんな話でもいいんですか?」

「ええ、大丈夫です」

 鍋島が念を押すように言った。本当にそれで良かった。どんな内容の話をしようと、自分の狙いは、話をするときの峰尾の様子を見定めることだったからだ。

「分かりました」

 峰尾は完全には納得していない様子だったが、微かに首を傾げながらも頷き、話し始めた。

「――坂口さんが私を高槻駅で見たと主張しておられる一月三十日の午後七時半頃ですが、私は部下の内田啓介くんを自宅に招いていました。私の自宅がどこにあるか、ご存知ですよね?」

「西宮市の夙川しゅくがわでしたね」持田が答えた。

「そうです。高槻までは電車でも三、四十分はかかるところです」

「内田さんは何時頃お宅に?」

「午後五時半頃うちに来て、夕食を一緒に摂りました。実は彼、この秋に結婚することになりましてね。私に仲人を頼んできたんですよ。その挨拶に」

「内田さんは相手の女性と一緒に来られたんですか?」

「いいえ、まずは一人で私のところへ来て、私の承諾を得てから改めて二人で挨拶に来たいと言っていました」

「それなら、会社でも頼めそうな話ですよね。それをわざわざお宅に行ってまで頼んだのは、そうしないといけない特別な理由でもあったんでしょうか」

 鍋島の質問に、峰尾は彼に振り返ってにこやかに微笑んで見せた。「さあ、そこまでは彼に訊ねかったのでよく分かりませんが――強いて言えばあの頃、彼のいるチームが大きな新規プロジェクトの大詰めを迎えていた頃で、会社ではそんな話をする余裕がなかったようでした。私の方も、新しい役員人事の決定前で多忙を極めておりましたし。それで彼は遠慮したんだと思いますよ」

「そうですか。では当日、内田さんがお帰りになったのは何時頃でしたか」

「十時前だったと思います。彼が阪急電車の夙川駅から礼を言いに電話してきたのが十時を十分ほど過ぎていましたから」

「分かりました」と鍋島は頷いた。

「ところで、内田さんはいつから峰尾さんの下で働いておられるんですか」持田が訊いた。

「この物流事業部が新設された昨年の四月からですから、ちょうど一年になります」

「毎日顔を合わせて仕事をしていらっしゃるというわけではないのですね」

「ええ。ごらんのとおり私はこの部屋で仕事をしていますし、外出することも多いです。彼と私のあいだには次長と課長もいます。そう、会社で直接私に仲人の話を頼んで来なかったのはそういうこともあったのではないでしょうか。直属の上司を飛び越えて私に頼むんですから、何かと気を遣ったのでしょう」

「なるほど」

「この部署ができるときに経理部から彼を引き抜いたのは私なんです。そのことを今でも恩義に感じてくれていましてね。いい仕事をしてくれますし、面倒の見甲斐のある男ですよ」

 峰尾は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。見たところ五十を少し過ぎたくらいで、清々しいゴルフ灼けの血色の良い肌をしていた。二人を真っ直ぐに見つめる瞳は黒々として濁りがなく、自信に満ち溢れている。おそらく仕事も良くできるのだろう。内田が課長や次長を飛び越えて彼に仲人を頼んだのは、自分を引き抜いてくれた恩があるだけでなく、取締役部長という肩書に相応しいこの貫禄にかれたのだろう。

「――ところで、話は坂口さんのことに移りますけど」持田が言った。

「はい」

「峰尾さんとは一面識も無いということでしたね」

「ええ、ありません」

「確かですか? 彼女の店に行かれたことも?」

「そこがはっきりしないんですが――坂口さんの勤めておられたクラブは確か、阪急東通りでしたね?」

「ええ。新御堂をくぐって二筋目を北へ入ったあたりです。名前は『ブルーローズ』。クラブと言うより、もう少し敷居の低い――ラウンジですが」

「もしかしたら、行ったことがあるのかも知れません。仕事ではもっぱら北新地のクラブや名の通ったホテルを使うことが多いのですが、なにぶんこういうご時世ですから、接待費は削減される一方です。それで、こう言っては大変失礼なのですが、最近では彼女がお勤めのような店に格下げする傾向にありますから、一度くらいは行ったかも知れませんね」

「つまり、万が一以前に会ったことがあるにしても、別の場所で会って挨拶を交わすような、そこまでの記憶に残ってはいないと」

「ええ。何しろ、二月の初めに警察から連絡があって、そのときにあの――面通しと言うんですか、マジックミラーで隣の取調室の様子を見るやつ、あれで初めて彼女の顔を見たというのが、本当のところなんです」

「じゃあ、彼女はどうして峰尾さんの名前を口にしたんだと思われますか? ただの思いつきにしても、やはり一度はどこかで接点があったとは考えられませんか」鍋島が言った。

「私も良く考えたんですが――」峰尾は顎に手を当てて俯いた。「どうも憶えがなくてね」

「彼女の話だと、峰尾さんが彼女のかつてのルームメイトと知り合いだったとか」

「その話も警察から聞きましたが、私にはまったく見当がつかないんです」

「名前は村田むらた江美子えみこさんと言います」

 峰尾は眉根を寄せ、うーんと言って俯いた。そしてすぐに顔を上げて訊いてきた。「うちの社員でしょうか?」

「違うようです。彼女と同業者かも知れません」

 鍋島は峰尾をじっと見つめて答えた。

「その、村田さんと言う方はどうおっしゃってるんですか? 私を知っていると?」

「ところが、二人が同居していたのは去年の十一月までで、その後はぷっつりと音信不通になったようなんです」持田が答えた。「今、懸命に探しています」

「何とも不可解な話ですね……」

 峰尾は少し口を歪めて言うと、申し訳なさそうに二人を見た。「坂口さんが高槻で見たという人物は、私によく似ていたのではないですか? それを私と勘違いして――私の名前と素性は、それこそどこかの店に勤めていた頃に私が客として訪れたときに知ったとか。彼女、そのラウンジの前にも別の店で働いておられたようですし」

「十分考えられます」

「私自身、坂口さんが嘘をついているとは思いたくないんですよ。なぜなら彼女、派手な女性ではあるけれど、人殺しをするようには見えませんでしたし。しかし、警察に嘘は言えません。たとえ言ったとしても、内田くんに確認すればすぐに分かることでしょうし」

「……そうですね」

「先生には申し訳ありませんが、そういうことですので……」

 いいえ、と持田は頭を振った。すっかり諦め顔だった。

「あの、あと一つお伺いします」鍋島が言った。

「はい?」峰尾は驚いたように鍋島を見た。

「佐伯葉子というフリーライターが訪ねてきたことはありませんでしたか」

「いいえ」と峰尾は首を振った。

「電話での取材も?」

「ええ。マスコミの方からの取材は一切ありません。警察の方にお願いしておきましたから。なるべくなら私の名前は公表しないでもらいたいと。仕事上、いろいろ影響しないとも限りませんから」

「そうですか」

「申し訳ありません、時間がちょっと――」

 峰尾は腕時計を覗いた。二人は顔を見合わせ、ソファーから立ち上がった。峰尾もそれに合わせて立ち上がる。

「お手間を取らせて申し訳ありませんでした」

「いいえ、こちらこそ、お役に立てずに申し訳ない」

「ありがとうございました」

 持田と鍋島はそれぞれ峰尾と会釈を交わし、ドアに向かった。峰尾はいくぶんほっとした様子で、ドアのそばで二人を見送った。

「――あ、そうだ」

 部屋を出たところで鍋島が振り返った。「あの、僕のような立場の者が言って、お気を悪くされると恐縮なんですが――」

 峰尾は軽く両手を広げて笑顔になった。「構いませんよ。おっしゃってください」

「念のため、内田さんにもお話を伺いたいのですが」

「内田くんに?」峰尾の顔から笑みが消えた。「聞いても同じだと思いますが」

「それでも結構です。何とかお願いできませんか」

 呆然と突っ立っていた持田が、慌てたように加勢した。

「……分かりました」

 峰尾は小さく頷き、部屋を出てきてデスクの秘書に言った。「内田くんを呼び出してくれ」

 秘書は受話器を取って手際よくボタンを押した。

「――部長室です。三課の内田さんを呼び出していただけますか」

 秘書が話すあいだ、持田は秘書を、鍋島は峰尾をじっと見つめていた。

「――そうですか、分かりました。それで、こちらに戻るのはいつですか?」

 どうやら内田は会社にいないらしい。鍋島はちょっとがっかりした。それに同調するかのように、秘書は受話器を置きながら残念そうに言った。

「申し訳ありません。内田は名古屋に出張に行っておりまして、先ほど、今日はもう帰社しないと連絡があったそうです」

「そうですか」と鍋島は頷いて峰尾に振り返った。「明日、改めてお伺いしてもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

「では、今日はこれで」

 二人は一礼して部屋を出て行った。峰尾はほっと息を吐くと、秘書には何も言わず自分の部屋に戻って行った。


「――どう思いました?」

 廊下をエレベータ―へと向かいながら、持田が鍋島に訊いた。

「そうですね――」

 鍋島はゆっくりと持田に振り返り、口の端だけで笑いながら言った。

「彼は嘘をついています。どの部分で、どういった嘘かはまだ分かりませんが、かなりしっかり練られた嘘です」

 持田は真顔で頷いた。



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