3 自己満上等


「――駄目だ。帰る気はねえって」

 刑事課のデスクの席で、電話を切った芹沢はすぐ隣でスマートフォンをいじっている鍋島に言った。

「強情な女やな」

 鍋島はちらりと視線を上げて芹沢を見た。「おまえの言い方が悪いのと違うか」

「冗談じゃねえ。俺は心理カウンセラーじゃねえんだ。何で言葉まで選ばなきゃならねえんだよ」芹沢は鼻息を荒くした。「もう放っとこうぜ。これだけ言ってまだ帰らねえんだから、それで何かあったってもう俺たちには泣きついてこれねえよ」

「おまえがそれでええんなら、俺も異存はないけど」

 鍋島はスマートフォンの画面を睨みつけたまま言って、せっせと文字を入力し続けた。

「さっきから何やってんだよ」

「……メール。ジュエリーショップの担当さんに」

 芹沢はああ、と頷いた。「三上サン、ついに納得したのか」

「いや、相変わらず要らんって言うてる」

「それでも買うのか」

「うん。あいつの考えも分かるけど、俺は俺で一応の思いはある」

「それって、自己満じゃねえのか」

「えっ?」鍋島は顔を上げた。いささか険しい顔をしていた。

「いや、何でもねえ。撤回する」芹沢は首を振った。「余計なお世話だった」

「……何やそれ」

 鍋島は怪訝そうに言うと、スマートフォンをデスクに置いた。「――で、こっから先どうするかや」

「持田先生が峰尾にアポ取ってくれたとして、どっちが同行する?」芹沢は言った。

「どっちでもええけど――俺の方がええかな。やし」

「そうだな。じゃあおまえ行けよ」

「何やその即決。今のは一応、謙遜やぞ」

「いや、逆に俺はほら、何て言うの――?」芹沢は右手で顔を拭った。「見た目がさ、助手にしちゃあいろいろ邪魔になる」

「うーわしんど、めんどくさ」鍋島は吐き捨てた。「ついに自分で言い出したぞ」

「いいから、行ってくれよ。おまえの方が洞察力だってあるし」

「それも白々しいな」

 鍋島は芹沢をじっと見て、それからふん、と笑った。「――で? そのあいだおまえは何をするんや」

「岡本が女に貢がせた金の使い道が、イマイチはっきりしないだろ。ざっくりと遊興費ってなってるけど、具体的にはどうだったのか。ホントにただのクラブ通いとギャンブルに消えたのか、トラブルは抱えてなかったのか、ちょっと探ってみる。そうすりゃ、そこから真犯人ホンボシの手がかりが見つかるかも知れねえ」

「捜一が一通りやってるとは思うけど」

「もちろん分かってる」芹沢は口の端だけで笑った。「けど鵜呑みにはしねえってことさ。そもそも、あいつらと同じところはつつかねえ。どうせまた牽制球が飛んでくるからな」

「せやな」鍋島は頷いた。

 そのとき、デスクで彼のスマートフォンが振動を起こした。持田弁護士からの電話の着信だった。鍋島は画面を芹沢に見せてから、応答ボタンをタップした。

「はい、鍋島です」

《――鍋島さんですか。持田です》

「先生、先ほどはありがとうございました」

 鍋島はスマートフォンを耳から離し、スピーカー通話にした。

《峰尾氏とのアポが取れました。今日の三時、東栄商事本社で》

「早速今日ですか?」

《ええ。年度初めで忙しいらしくて。たまたまそこなら時間が取れるそうです。そちらは大丈夫ですか?》

「ええ、もちろんです」

 鍋島は芹沢と目を合わせて頷き、十分前に現地集合の約束をして通話を終えた。

「思った以上に早かったな」芹沢が言った。

「ああ。気になるんやろ」鍋島は椅子の背もたれに深く沈んだ。「なんでまた弁護士がもう一度話を聞きたいと言うてきたのかが」

 芹沢はゆっくりと頬杖を突いた。「事件にとってはただの証人に過ぎないのに、社会的に名のある大企業の重役が、わざわざ忙しい仕事の合間を縫ってまでそれを知りたいと思うのは――」

「何かボロが見つかったんやないかと思ってる」

「――かどうか、そこをきっちり見極める」芹沢は横目で鍋島を見た。「任せたぜ」

 鍋島は頷くと、少し表情を崩した。「――で、そのあとジュエリーショップに寄ってから戻って来る」

「分かった」

「‟自己満上等”や」

 鍋島は笑顔で言った。が、目は笑っていなかった。

「そうか」芹沢は苦笑した。




 東栄商事本社ビル前の広場で持田弁護士と落ち合った鍋島は、揃って社屋に入った。持田が受付で用件を伝えると、峰尾の待つ部長室に上がるよう指示された。

 エレベーターホールに来ると、鍋島はコールボタンを押した。ボタンのずっと上にある《▽》のランプが点り、同時に目の前の扉の上の小さな窓に《8》の数字が表示された。

 エレベーターの到着を待つあいだ、鍋島は広いエントランスホールをぼんやりと見渡した。西天満署の建物をすっぽり呑み込んでしまうほどの大きなインテリジェントビルの玄関は、三階までが吹き抜けになっていた。御堂筋に面した部分には全部で五つの回転ドアが並んでおり、その正面に大きな織部焼の壺に豪華に生けこまれた生花と、その花に負けないくらいの美人が座っている先ほど立ち寄った受付カウンター。ホールの中央の接客ラウンジには繊細な柄をシックな色合いで織り上げた毛足の長い絨毯が敷いてあって、ソファーは座ると尻が全部埋もれてしまいそうだった。二人のいるエレベーターホールの隣の壁には、落ちてきたらどうしようかと不安になるくらいの大きな風景画の油絵が、これまたゴージャスな額縁に入れられて架かっていた。

 エレベーターが到着し、扉が開いた。中からスーツの中年男性二人と、薄いグレイッシュブルーのジャケットタイプの制服を着た女性が降りてきた。三人とも、鍋島と持田を見ると軽く会釈して通り過ぎて行った。彼らがよそ者だと瞬時に見抜いたのだろう。二人は空になったエレベーターに乗り込んだ。

「えっと――二十三階でしたね」持田がボタンを押した。

 扉が閉まり、エレベーターは独特の無重力状態を起こしながら昇って行った。鍋島は「耳が変になる」と顔をしかめた。


 二十三階に着いて廊下を左に進んだ二人は、突き当たりの物流事業部長室のドアの前に立ち、持田がノックした。

「はい、どうぞ」若い女性の声が答えた。

「失礼します」

 中に入ると、六帖ほどの小部屋の右側にデスクがあって、その前に二十代半ばの秘書らしき女性が座っていた。女性は制服ではなく、落ち着いた春色のスーツ姿だった。

「持田法律事務所の方ですね」

「ええ、そうです」

 秘書は笑顔を崩さないまま頷き、デスクのインターホンのボタンを押して言った。「部長。持田法律事務所の方がお見えになりました」

《――はい。お通ししてください》

 穏やかな声だった。

「お待たせしました。どうぞ中へ」

 秘書は言ってデスクを回ってくると、向かいのドアのノブを軽くノックして回した。

「失礼します」

 目の前に広がった部屋は、エントランスホールに負けず劣らず広々として洗練されていた。中央正面に置かれた畳一枚分は軽くあろうかというデスクの向こうに、恰幅の良い白髪混じりの髪の男性が立ち、笑顔で二人を迎えた。

「や、お待ちしておりました」

「峰尾さん、度々申し訳ありません」と持田は頭を下げた。

「いえ、こちらこそ急な時間に無理を言ってすいませんね」

「とんでもない。お忙しいのに何度も時間を取らせてしまって」

 峰尾は微笑みながらいいえ、と頭を振った。そして鍋島に視線を移し、「そちらの方は――」と少し首を傾けた。

「ええっと、実は最近、雇用した――アシスタントの鍋島です」

 持田は些か躓き気味に答えた。鍋島は「鍋島です。よろしくお願いします」と一礼しつつ、肝心のところでもたつくなよと腹の中で持田にダメ出しした。

「そうですか。先生もお忙しくなられたようですね」峰尾は微笑んだ。

「おかげさまで。最初に峰尾さんにお会いしたときはまだそうでもなかったのですが、最近になってようやく」

「それは結構。こうしてアシスタントの方を抱えられるとは、立派なものです。お若い方は、短期間で素晴らしく飛躍される」

 峰尾は流れるような抑揚で言うと、二人をソファーに案内した。


 さて、お手並み拝見と行こう。鍋島は控えめな笑みを浮かべながら、穏やかな佇まいを崩さない峰尾をじっと見つめた。




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