2 隣室の友
タクシーを降りると、仁美は重い足取りでマンションに入って行った。
全十二戸という小規模な集合住宅の割には、しっかりした防犯設備の整ったマンションだった。全室オートロックで、広めのメインエントランスとそれに相応しいセキュリティシステム。それは、京都在住のオーナーが、自分の大切な財産とその住人を、大都会に潜む犯罪者から守ろうという決意の現れだったし、管理人を置かずにその業務を地元の不動産業者に任せるための必要不可欠な対策とも言えた。
三階でエレベーターを降り、廊下を右に進んだ仁美は、突き当たりの部屋の前で立ち止まった。南向きの部屋で、夏などは朝のほんの早い時間を過ぎると早々に蒸風呂状態になる。エアコンをフル回転させても駄目だ。昨年などは盆を過ぎた頃に一度、脳味噌が腐って死ぬのではないかと真面目に心配になったことがあった。いくら二十五年以上も実家のある京都の厳しい夏を耐えた経験があるとは言え、大阪の夏もまた格別に厳しい。京都の暑さが、盆地という地形のもたらした自然現象であるのに対して、大阪のそれは、大都会の造り出したものによる迷惑な副産物である。それだけに、何の法則性も生産性もなく、ただ滅多やたらに暑いだけだった。それが証拠に、京都にいた頃は、いくら暑くてもそれが人間の体に毒だと思ったことはなかった。ましてや、脳味噌が腐るなどという非現実的な危惧も抱かなかった。
とは言え、仁美は夏のあいだだけ京都へ帰ろうとは考えなかった。そういう甘えが通用するほど、彼女の両親は親バカではなかった。このマンションのオーナーとしてのあらゆる権利を行使し、直ちに彼女に契約解除を宣告するだろう。仁美が京都や大阪の酷暑を耐え凌ぐことができるのは、それ以上に厳しい父親を持ったからなのだ。
鍵穴にキーを差し込んでいると、隣の部屋のドアが開いた。
オーバーな好奇心に目を輝かせた短いウエーブ・ヘアの女性が、ひょいと顔を見せた。
「お帰りぃ。デート?」
「あれ、帰ってたん?」仁美は嬉しそうに笑った。
「うん、今日の夕方」と女性は答えた。「ねえ、ビールある?」
「あるある」
「じゃ、ちょっと飲もうよ。お土産持って、そっちへ行くわ」
そう言うと女性は顔を引っ込めた。
女性の名前は
「――今回はどこへ行ってたん?」
缶ビールを二つ持って、小さなキッチンから出てきた仁美は、奥の部屋でベッドにもたれかかって座っている葉子に訊いた。
「
「あれ、ほな仕事やなくて里帰り?」
「ううん、取材よ」
葉子は一度だけ首を振って、仁美がテーブルに置いた缶ビールを引き寄せてプルタブを上げた。「それより、デートの相手とはうまくいってるの?」
「まぁ……ね」
「あれ、つれないなあ。喧嘩でもした?」
「その逆。喧嘩になんかならへんの。あたしの言うこと、何でも『うん、うん』って――向こうはどうか知らんけど、何となく、惰性で付き合ってるって感じ」
葉子はため息をつき、仁美の顔をじっと見た。「好きって気持ちがないのね」
「嫌いやないのよ。好感は持ってるけど――明らかに恋愛感情とは違うわ。それでも最初は結構乗り気やったのよ。ええ人やし、社会人としても合格点やし、誠実さには溢れてるし。結婚したら、精神的にも経済的にも、安定した生活が送れるかなって」
「結婚か。それを考えるならね」と葉子は頷いた。「適格者よね」
「飛び抜けていいことはないかも知れんけど、決して大きな不幸にも見舞われへんやろうなって」
「ところが、あくまで‟恋愛中”の今はそれだけじゃ物足りないって思うようになってきた」
「そう。そういうこと」仁美は缶ビールの汗を拭った。「ほんまは、最初からそう感じてたんやと思う。でも、付き合っていくうちに惹かれていくかなって」
「別れちゃいなさいよ、さっさと」
「……そうやね」
「もったいないって思ってるわけ?」
「それもあるけど――今さら別れるにも、決め手がなくて」
「と言って、積極的に結婚を考えたくなるような決め手もないんでしょ?」
仁美は黙って頷いた。
「仁美らしくないわよ。そんな付き合いをしてる時間の方がもったいないって思えてくるわ、あたしには」
そう言うと葉子は立ち上がった。そしてベランダに出る窓際まで行き、振り返って腕を組んだ。
「頭での妥協はいいけど、心での妥協はやめなさいよ」
「分かってる」
世間体や周囲の意見に惑わされることなく、自分の信念のままに生きている葉子を仁美は羨ましく思った。そして同時に、そんな友人を身近に持っていることが、彼女には心強かった。
「――そう言えば今日、情けない男がいたわ」
仁美は気を取り直したかのように言ってビールを飲むと、顔を上げて葉子を見た。
葉子は掃き出し窓に背をつけたまま、首だけ捻ってカーテンの間から外を見ていた。前の通りを見下ろしているようだった。
「どうしたん?」と仁美は訊いた。
「え?」葉子は驚いたように振り返った。
「外で何か?」
「ううん、何も。何でもないわ」
そう言うと葉子はさっとカーテンを掻き寄せ、その場を離れてテーブルに戻って来た。
「――で、その情けない男がどうしたって?」
カーテン越しに外を窺っているときの葉子の横顔に微かに戦慄のようなものが走っていたような気がして、仁美は少し不安になった。
――確かに、あの女だった。
一ヶ月以上前に一度会っただけだったが、そのときに二時間も顔を突き合わせていたので、見間違うはずがなかった。それに、近頃また自分の周りをうろうろし始めている。それも分かっていた。
慌てたように引っ込んだのは、こちらの姿を認めたからか。それともただの偶然か。
いずれにせよこの格好だ。正体までは分かるまい。
慎重に、あくまで慎重に――一週間は様子を見なければならないだろう。
あぁ……。それにしても、まずいことになったものだ。
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