3 雑用係健在


 大阪の大動脈と言われ、梅田うめだを起点として市内の中心部を北から南へ、背骨のように走る御堂筋みどうすじと、北摂ほくせつ方面から御堂筋の北東に向かって流れ込む信号の無い幹線道路の新御堂筋は、北区の曾根崎そねざき付近で最も接近する。この二つの「御堂筋」と、大川おおかわから湾曲しながら大阪湾へと流れ込む堂島川どうじまがわに囲まれた一帯が天満てんまの街である。毎年七月二十四、二十五日の二日間に渡って行われる、大阪の夏の最大行事・天神祭の舞台がここだ。その西の一角が西天満で、近くに大きな美術館があるわけでもないのになぜか市内で最もギャラリーの多いところである。反面、付近には地裁と高裁、法務局、弁護士会館、アメリカ総領事館などがその威厳を誇示するように建ち並び、静かなカフェや小ぢんまりした料理屋、レストランなどが両者の間を取り持つようにして軒を連ねている。北の梅田・曾根崎界隈や、西の新地しんち・堂島とはちょっと違った趣の感じられる街だった。


 大阪府西天満警察署はその地区の南の端、つまり堂島川沿いに、裁判所と弁護士会館に挟まれるようにして踏ん張っていた。

 その二階フロアのほぼ三分の一を占める刑事課は、連日大入りの盛況ぶりだった。

 今も時計はあと五分で午後六時になろうとしているのに、刑事部屋はまるでせりが始まったばかりの卸売市場を思わせる。所属する三十四人の刑事のうち今いるのはその三分の一ほどで、それでもデスクの周辺は騒がしかった。縦長の大きな窓に提げられたブラインドの向こうでは、二時間ほど前から降り始めた雨が強い風に吹き流されていた。


「――刑事さん、信じとくんなはれ。ワシはほんまに何もしてへんのです」

 捜査報告書をはじめとするありとあらゆる書類や犯罪関係の書物、雑誌などが山積みされて今にも崩れそうになっているデスクの前で、鍋島勝也なべしまかつや巡査部長は隣に座らせた初老の男からしきりに頭を下げられていた。

 去年の暮れに三十歳になったとは思えない童顔で、どこか反抗的な丸い二重の瞳に気の強そうな眉、小さいが筋の通った鼻、そして固く結んだ口許がいかにもやんちゃ坊主という感じの青年だった。今は座っているので分かりにくいが、身長一六五センチと小柄である。厚手のボタンダウンのシャツの袖を肘まで捲り上げ、黒いベルトを通したヴィンテージ風のデニムを穿いている。その肩に三十八口径回転式拳銃リヴォルヴァーをおさめた黒革のホルスターを装着していなければ、どう好意的に見ても大学生かフリーターにしか思えない。だからと言って彼がこのホルスターを外そうとしないのは、自分の素性を明らかにしておくためではなかった。かつて、コンビニ強盗や逃走中の殺人未遂犯に傷を負わされ、一時は死線を彷徨った経験がそうさせているのだ。そして彼が、地方採用のノンキャリアの刑事にしてはめずらしく、巡査部長の階級に就いてはや三年半が経つという事実は、西天満署の七不思議の一つと言われていた。

「ほな、あの女の子のでっち上げやとでも言うんか?」

 鍋島はボールペンを持った手をデスクに突き、男を横目で見て言った。低くこもった声の、ぶっきらぼうな話し方だった。

「でっち上げやなんて、そんなたいそうなことやのうて――か、勘違いやないかなと」

「勘違い? どんな勘違いや? 彼女が自分からあんたに胸を突き出したのに、触られたと勘違いしたってことか?」

「いや、そんな――」

「あんたのズボンのポケットから、彼女の財布も見つかってるしな」

「せやからそれは、あのが財布を落としたんで、ひろて渡してやろうと思て……追いかけて呼び止めたんです。それをあの娘が突然騒ぎ出したんで、つい――」

「つい、オッパイを掴んだ」鍋島は言った。「そんな理屈が通用すると思うなよ」

「あ、ついって言うのは撤回します。「でも、ほんまにワシは――」

「目撃者もいてる」

「そ、そんなアホな。あそこには誰もいてませんでしたよ。あないな殺風景な地下道、誰かいてたらワシかて気ィ付くはずでんがな」

 男は少し狼狽うろたえているようだった。

「そう思うやろ。その思い込みがあんたの誤算や」鍋島は鼻で笑った。「あんたは気付いてへんかったかも知れんけどな。あの先にもう一つ地上へ出る階段があるんや。そこに転がってたホームレスのオヤジがいててな。そのオヤジがあんたの犯行の一部始終を見てたんや」

「えっ……」

 鍋島はにやりと笑った。「観念するんやな」

「――鍋島、そのおっさんは釈放だよ」

「なに?」

 後ろから声を掛けられて、鍋島は振り返った。

 立っていたのは鍋島の相棒である、芹沢せりざわ貴志たかし巡査部長だった。

 精悍な眉に涼し気な瞳をした少し色白の好青年で、やや上向きの形のいい鼻のせいでちょっと生意気そうにも見えた。豊かで丸みのある唇を今は山型に曲げて、面白くなさそうに相棒の尋問相手を見つめている。ダークグレーのスーツに繊細なストライプのシャツをノータイで合わせて、袖口からシャープでエレガントな腕時計を覗かせていた。普段はコンタクトレンズを使用しているが、過酷な労働が続いたときや夜遊び(=女遊び?)が過ぎたときなどは、今日のように眼鏡を掛けているときもある。いずれにせよ、その恵まれた容姿と洗練されたファッションは、鍋島とはまた別の意味でとても刑事には見えない。年齢は二十八歳、鍋島とは二つ違いだ。右手には何らかの書類を持っていた。

「釈放って……なんでや」鍋島が訊いた。

「彼女、被害届は出さねえって。告訴しねえって」

「目撃者もいてるのに?」

「ああ。財布も戻って来たことだし、強盗まがいの痴漢に遭ったって知ったら、親が心配するからだってよ。会社の人間に知られたくもないらしいぜ」

 出身は福岡だが、大学時代を東京で過ごした芹沢は、少し崩れてはいるがほぼ正確な標準語で言った。

 鍋島は男に振り返った。「……悪運の強い男やな」

「とんでもない」

 男は嬉しさを隠しきれない様子で、にやにやしながら顔の前で手を振った。「せやからワシは何もしてませんって、初めから言うてまんがな」

「おっさんが何もしてねえって誰が言ったよ。被害者が告訴しなかっただけさ」芹沢は男の前に書類を突き出した。「調子に乗るなよ」

「へ、へえ……」

「ええわ、さっさと失せろ」鍋島が言った。

「へえ。ほな失礼します」

 男は立ち上がると二人に何度も頭を下げ、長居は無用とばかりにそそくさと刑事部屋を出て行った。

「――ちっ、骨折り損だ」

 芹沢は舌打ちして自分の席に着いた。

「まあな」鍋島はため息をついた。「――被害者、ほんまにそんな理由で取り下げるんか」

「言いてえことは分かる。怪しいっちゃあ怪しい」芹沢は書類をデスクに投げ置いた。「目撃者のホームレスっての、正体は違うかもよ」

「女とグルってことか。オヤジ狩り的な」

「――が、追究するのもアホくせえ」芹沢は頭の後ろで両手を組んだ。「勝手にやってろって話だ」

 そうやな、と鍋島は頷いた。「の傷害犯が吐いたって連絡で早よ戻って来たのに、着くなりあのオヤジの相手や。俺ら、何でも押し付けられすぎと違うか」

「雑用係は使ってナンボ」芹沢は自嘲気味に言った。「――で、おまえが約束してた宝石屋ジュエリーショップの営業さんは帰っちまったのかよ?」

「ああ。時間通りに来てくれてたんやけど、一向に俺の手が空かへんから、さっき帰ってもらった。次のアポが入ってたらしいし」

「わざわざ呼びつけなくったって、仕事の合間に店まで行けばいいじゃねえか」

「仕事中はおまえがいてるのに?」鍋島は怪訝な顔で芹沢を見た。「一緒に行くんか?」

「行くわけねえだろ、バカか」芹沢は吐き捨てた。「別行動してやるって言ってんだ」

「……苦手なんや、ああいう店」

「店の方が品ぞろえも豊富だぜ」

婚約指輪エンゲージリングなんて、決まったデザインやないんか?」

 鍋島は意外そうに言った。彼はこの秋、大学の同級生だった女性との結婚を控えており、今はその準備を進めている時期だった。

「何も知らねえんだな、おまえは」芹沢は呆れて言った。「近頃は型通りのデザインなんて選ばねえだろ。ブランドだっていろいろあるし、何ならダイヤ以外の石でも値の張るものがあるみたいだぜ。おまえなんかが決めるより、彼女に選んでもらった方がいいんじゃねえのか?」

「あいつは要らんて言うてるんや。せやからサイズも訊いてへん。店の方から訊いてもらおうと思て」

「彼女なら――八か九ってとこだろうな」

「さすがに、女を観察する能力には長けてるな」

「何ならのサイズも当ててやろうか?」芹沢は即座に言って、にやにやしながら鍋島を見た。

「要らんっ」鍋島は芹沢を睨みつけた。「……想像もするなよ。したらマジで殺す」

「ひゃ、怖ぇ怖ぇ」芹沢は肩をすくめた。

「――おい、鍋島に芹沢」

 前方のデスクから、訊き慣れた声が二人を呼んだ。

 課長の植田匡彦うえだまさひこ警部だった。若々しい風貌に鋭い眼光がいくぶんアンバランスで、進行しつつある中年肥りがさらにそれを強調していた。年齢は四十四歳、課長としての月日は五年を数える。

「何ですか」と芹沢が答えた。

「東天満で空き巣や。先にPB(交番)から出てるらしいから、おまえら行ってくれるか」

「担当外ですよ」

「その担当者が全員出払ってる」

「俺たちも今から、傷害犯の自白の裏付けに行くところなんですけど」

「その件やったら、おまえらが痴漢の対応をしてるあいだに島崎しまざき小野おのが行ってくれた。とにかく空き巣の現場へ行け、つべこべ言うなよ」

「……だとよ」

 芹沢が隣を振り返ると、鍋島は既に席を立ち、椅子に掛けたブルゾンを掴んで間仕切り戸に向かおうとしているところだった。芹沢は仕方なくデスクにあった車の鍵を掴むと、渋々立ち上がって後に続いた。



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