第一章 発端
1 味気ないデート
人工の小川が周囲を流れる、全面ガラス張りの小さなレストランだった。
小川の向こう岸には、控えめな
連れの男は仕事の電話を掛けに席を外し、今でちょうど五分戻ってこない。この時間でないとつかまらない得意先らしく、テーブルを離れるときに彼女に、「ゴメンね、悪いね、ほんとに」と何度も頭を下げた。そしてそのたびに仁美はにっこり微笑んで首を振り、気にせずに用を済ませてくるようにと勧めたのだった。
悪い男ではないのだが、何か物足りない。会社で同期だった女友達の紹介で知り合い、もう半年ちょっと交際を続けているのだが、特別な感情が沸いてこない。かと言って、彼女もこの夏には三十歳を迎えることだし、そろそろ親を安心させてやりたいと思わないでもなかった。男は仁美よりも三歳年上だったが、そうとは思えないほど若々しく、そして子供っぽかった。真面目で、礼儀正しくて、優しい。勤めている会社も一応名が通っているし、ルックスも悪くはなく、適当に遊びも知っている。もし五年ほど前に知り合っていれば、文句なしに結婚を意識していたのだろうが、五年のあいだに仁美は人間の本質的な出来や度量を見極める能力を、あたかもその人物の影の長さを測るのと同じくらい容易いこととして身につけたのだった。だからこの男、
腕時計の針は八時三十分を僅かに過ぎた位置を示していた。ところどころで街灯を跳ね返して光るベージュ色の敷石の舗道を、腕を組んだ二人連れがゆっくりと歩いている。自分と樋口もきっと、この店を出たあとあのように歩き、ここより暗い照明の店へグラスを傾けに行くのだろう。その先まで付き合うかどうかは、今まだ決めかねている。
突然、真後ろのテーブルで女が笑った。一緒にいた相手が冗談でも言ったのだろう。仁美たちが来る前からそこにいた客と変わっていないとしたら、彼女たちと同じ年頃の二人連れのはずだ。
女の笑い声が止まらないので、男がよほど可笑しいことを言ったのだろうと仁美は思った。しかしその男が笑っている気配は感じられなかった。それも不思議はない。大阪では、大真面目でものすごい冗談を言う人間には事欠かない。
そのとき、
「笑いごとじゃねえよ」
と男が言った。仁美は心の中で「え」と声を出した。
「ごめん――」
男が怖い顔でもしていたのだろう。笑っていた女ははっと息を呑み――女の顔が見えない仁美にも、その様子はよく分かった――ぽつりと謝った。
「いいよ、どうせ最初から分かってたことなんだし」
男は自嘲気味に笑って言った。「あっちはエリートだからな。俺なんかよりもずっと先の方からスタート切ってるから」
同僚の出世を恋人に愚痴っている情けない男。珍しくもない光景だ。背中の向こうのやりとりを聞いて、仁美はため息をついた。
ところが、実情はそこまで単純ではなかったようだ。
「タカシくんの彼女って、幾つやったっけ?」女が訊いた。
「二十五。もうすぐ六かな」
「それやのに、もう課長代理なん?」
「それでも、あいつの同期の中では一番低い
「ってことは、いつランクアップしても不思議やないね」
「ああ。とりあえずは近い将来本店に行くだろうな。そこでどの
どうやらこの関東人らしき男の恋人は、いわゆるキャリアウーマンというやつらしい。
「それが面白くないから、あたしを誘ったというわけ?」
「まさか」と男は自信ありげな声で言った。「昨日会ったとき、誘って欲しそうな顔してたから」
「ええ、そうやった?」
「ああ。俺はそういうの絶対に見逃さねえから」
「ふふ、そうよね」
恋人の出世を妬んでその憂さ晴らしに別の女性を誘った、器の小さな男。最初に想像していたことよりは少しは同情はするが、それでもつまらない男には変わりはない。くだらない話に聞き耳を立てている自分が馬鹿らしくなって、仁美は気を取り直して背筋を伸ばし、店の出入口に目をやった。清算カウンターの脇にある待合用のソファで、相変わらず樋口が電話で話し込んでいる。気を遣ってこちらを窺う様子もなかった。
仁美は空いた椅子に置いた鞄を開け、中から薄い冊子を取り出した。今日、退社時に表の通りで配られていた、国内旅行のパンフレットだった。ゴールデンウィークを間近に控え、最後の駆け込み客を集めるためのもので、気軽に行けそうな「安・近・短」型のパックが紹介されていた。そう言えば、このパンフレットも二色刷りの低コストのものだ。
冊子をテーブルの上に置いたとき、その間から何かが転がり落ちるのを仁美は目の端でとらえた。そしてそれが逃げていく方向に首を伸ばすと、それは昨日買ったばかりのライターだった。どうやら、シガレットケースからこぼれて鞄の底にあったのが、冊子に挟まって取り出されたようだ。細長いボディの中央にブランドのロゴマークが入ったピンクゴールドのライターで、高価ではないが、百円ライターが主流となった昨今では、三千六百円のそれは決して安物ではない。仁美の座る椅子の下を軽やかにくぐり抜け、薄いピンクの絨毯の上を、後ろの二人連れのテーブルへと向かっていく。仁美が拾おうとして腰を浮かせた瞬間、
「――ごめん、待たせてしまって」
と言う、電話を終えて戻ってきた樋口の声がして、仁美は思わず座り直した。
「あ……ええ」
「どうかしたの?」
「ううん、別に何も」
仁美は造り笑顔を浮かべた。この男は彼女が煙草を
まあええか、と仁美は思った。ライターは後ろのテーブルの、空いた椅子の足下にある。足が生えて逃げていくわけではない。店を出るときに樋口は先に行くから、そのときを見計らって拾えばいい。
そのとき、後ろの二人連れが席を立つ音がした。
「旅行、行くの?」
仁美の前にあるパンフレットを見て、樋口が訊いた。
「あ、違うの」
あんたがなかなか帰ってこないから暇つぶしに見ようと思ってたのよ、とは言えず、仁美が冊子を鞄に戻そうとしたときだった。
「――これ、今さっき落とされましたよ」
振り返った仁美の目の前に、後ろのテーブルの下に落ちているはずの、彼女のライターを乗せた男の手が突き出ていた。
樋口が「ライター?」と呟いた。
なんてことだ、と仁美はライターを見つめながら思った。それからゆっくりと顔を上げた。
整った顔立ちの男だった。くっきりと引き締まった眉の下の瞳には涼風が吹き、その視線の先で仁美をまっすぐに捉えていた。女性のように豊かな口元には微かな笑みを湛えている。隣には、鮮やかな深紅のワンピースに身を包んだ、スタイル抜群の美女を従えていた。この男が、エリートの恋人を妬んでクサっているタカシだとは思えなかった。
「あ――」
仁美がそう声を上げるのと同時に、タカシはライターをテーブルに置いて、その場を立ち去って行った。
取り残されたライターを仁美はぼんやりと眺めた。さて、どう言い訳するべきか……。
「仁美さん、煙草、吸うの……?」
樋口の怪訝な声を頭の先で聞いて、仁美は首を振った。
「同僚の子が、あたしのデスクに忘れていったやつ……」
うんざりだ、と思いながら、仁美はここで帰る決心を固めていた。
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