Prologue

あの夢



 ――そこだけ色がついていた。


 若い女が倒れている。仰向けで、両手を腰の横に小さく広げていた。その手は何かで汚れている。赤いセーターに、赤いスカートを穿き、靴が片方脱げて、ストッキングの踵も汚れていた。遠かったのでよくは見えなかったが、口をぽっかりと開けているようだった。

 そこだけ色がついていた。赤だ。黒みがかった赤。


 突然、女の顔が大きく現れた。真上から、なぜか逆さに見たアングルだった。やっぱり口を開け、形の良い大きな瞳でこっちを見つめている。小さな鼻は蝋で出来たみたいに、てっぺんがつるんと光って見えた。真綿のように柔らかくカールした髪は、まるで人形のような可憐さだったが、どういうわけか、そのところどころが黒く固まっていた。

 人形のように愛らしい少女。そう、この少女のことを、確かにそう思った経験の記憶がある。

 思うだけでなく、言葉にしたこともあるはずだ。

 だが、今はどこかおかしい。なぜだか分からない。

 だいいち、この女は誰なんだ。

 そこでまた、遠くからの眺めに切り替わる。


 そばに男が立っていた。女の頭の先で、女を真上から直視している。薄っぺらい背中を中途半端に曲げ、喉仏の突き出た首を鶴のように伸ばし、女を逆さから覗き込んでいる。あお白い顔で、眼だけがやたらに涼しく、女と同じように細工の行き届いた鼻先が垂れた前髪に向かって尖っていた。土色の唇をもぞもぞと動かして、何か呟いていた。声は届いて来なかった。


 ――何やってんだよ、おまえ。

   

 頭の中で誰かが言った。いや、誰かなどではない。自分だった。なぜか急にそんな言葉が浮かんできたのだ。

 おまえって誰だ。俺のことか? 違う。女のことだ。何でそう思う? 思うんじゃない。紛れもなくそうだからだ。それに、そう言ったのは俺じゃない。あの男だ。突っ立っているあの男がそう言ったんだ。女を見下ろしながら、ブツブツとそう言ったんだ。だけど、それがどうして俺に分かる? あんなに遠くにいる男の声が、俺に聞こえてくるはずがないじゃないか。なのにどうしてそれが俺に分かるんだ――?

 だけど、確かにあの男が言ったんだ。何やってんだよ、おまえ、って。

 ここで待つわって言ったの、おまえだろ。俺、ちょっと遅れたけど、こうして来たんじゃないか。なのに何やってるんだよ。こんなところに寝転んで、みんなが見てるのに、カッコ悪いじゃないか。遅刻した俺を困らせようって言うのか?

 ――さあ、起きろよ。何やってるんだよ。

 そう言ってる男の言葉が、俺にははっきりと分かるんだ。


 ――死んでるんだよ、もう

 やがて男は誰かにそう教えてもらう。

 ――死んでる? 誰が?

 ――このお嬢さんだ。おい、きみ、大丈夫かね?

 ――俺が殺したの?

 ――違うよ。いいかい、言っておくがね。これはきみのせいじゃない。きみが責任を感じることはないんだよ。

 ――いいや、違いはしない。俺が殺したんですよ。ところで、あんたは誰?

 ――私は……だよ

 ――ふうん


 また女の顔が現れた。今度は何が奇妙なのかはっきりと分かった。瞳がまるで動いていなかった。ショーウィンドウの中に飾られた、憧れの、しかしとても手が届かないドレスをじっと見つめるような、そんな表情にも似た、けれども決して生気のない、寂しい少女の顔だった。男が誰かに教えられたとおり、女は死んでいた。


 そこだけ色がついていた。血の色だけが。

 そしてまたひとつ、別のことがはっきりした。

 突っ立っている男は俺だった。

 女は俺が殺したんだ。

 だからきっと、俺も死ななきゃならないな――。




 そこで不意に目が覚めた。

 まず最初に感じたのは、本能によって察した我が身の無防備さによる漠然としたおののきだった。それから、一瞬だったが底知れない不安が脳裏を過った。

 その直後、眠りが浅かったことを物語る鈍痛が額の裏に張り付いているのを知る。反射的に目を閉じて、またゆっくりと開いた。

 今がいつなのか、すぐには思い出せなかった。朝か、昼間か、それとも真夜中か。眠りによって完全に停止していた思考と、嘘みたいに静かで、薄暗い部屋の様子からは、そのどれとも判断がつきかねた。はたして今は、一日のどのあたりを過ぎた頃なのか。

 顔のすぐ下から伸ばした腕を視界のど真ん中でとらえて、その先にぼんやりと焦点を移した。ぴったりと厚く引かれたカーテン。その向こうには、ここ数日、昼夜問わず閉められた雨戸がある。ああ、俺は今ここに一人でいるんだなと思い、きっともう明け方なんだと思う。夜更けに仕事から帰って来て、振り払うように服を脱ぎ、確か俺は、一日に対する悪態をひとこと吐き出して、それで布団に潜り込んだんだ。そこでまた、あの夢を見たらしい。


 意識を強引に現実へと引き寄せながら、ゆっくりと起き上がった。季節柄、暖房が効いているわけでもない――いや、むしろ寒いくらいなのに――汗だくのTシャツがべったりと身体にくっついていた。まるであの夢がくっついてきているようだった。


 寝室を出て、Tシャツを脱ぎながら暗い廊下を進んだ。洗面所の脱衣かごに放り込んで、鏡に映った自分を横目で見る。

 あの夢から醒めたときは必ずと言っていい、毎度毎度の酷い顔。

 逃げるようにして浴室に入り、シャワーを浴びた。

 とは言え、実のところあの夢を見たのは久しぶりだった。そう、ここ半年近くは見ていない。そんなことはこの十年間で初めてだった。だから、夢を見ることだけではなく、そこに出てくる彼女のことも、彼女を呆然と見下ろす自分という男も、声を掛けてくれた誰かについても、全部忘れることができたと思っていたのだ。


 ――それが今、どうして。


 久しぶりに見た夢は、ところがちっとも変わっていなかった。いつものように、少女だけに色がついていた。赤。黒い赤。血の赤。

 相変わらずクソ忌々しいしみったれの根性が抜け切れてないぜと自分を呪いながら、浴室を出ると洗面所の蛇口をひねり、熱い湯を出した。酷い顔を洗い流したくてまた顔をすすぎ、タオルを掴んで滴を拭いながらゆっくりを身体を起こした。そして、同じ動作で鏡の中に現れた男に、頭の中で話しかけた。


 ――よう、目が覚めたかい。


 プレシェーブローションを塗って、シェーバーの電源を入れた。洗面所に置いた小さなデジタル時計は、六時十二分を刻んだところだ。金属が硬い体毛を素早く切り落としてゆく音だけがその場に響いている。

 その一瞬、右の口角あたりに小さな痛みが走って、反射的にシェーバーを顔から離した。鏡を覗くと、痛みを感じたところに僅かに血が滲んでいた。静かに指で触れ、その先に付いた血をじっと見つめた。


 俺にも、やっぱり血が流れている。決して彼女のように黒ずんではいない、新鮮な赤い血。生きている俺には流れている。

 彼女が死んで――俺は生きている。

 生きてしまっている。今日もまた。

 悪い夢を引きずって、このままずっと生きていくんだ。

 流れ落ちる熱い湯に、指を突っ込んだ。





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