2 証拠品をめぐる攻防


 鍋島の姿を見送ったあと、仁美はおもむろに芹沢に訊いた。

「どうしたんですか、その怪我」

「ああ、これね」と芹沢は自分の腕を見た。「俺たちが行くのを、相手は知ってたみたいでね。景気づけにクスリを打って、刃こぼれのひどい日本刀を持って待ってたんです」

 仁美は言葉を失った。芹沢はそんな仁美の様子を見てふっと笑った。

「ところで――この前のレストランでのことですけど、俺、あなたに悪いことしちゃったんじゃないですか?」

「悪いこと?」

「あの場でライターを渡したことです」

「それがどうして、悪いことやと思わはるんです?」

「あなたが、一緒にいた男性に煙草を喫むことを知らせてなかったんじゃないかって、あいつが言うもんですから」

「鍋島さんが? どうして?」

「この前、お宅のマンションであなたが俺のことを思い出したとき、あなたがちょっと不機嫌になったからって。それで、堂島のレストランで何かあったのかって訊いてきたから、ライターのことを話したら、そんなことを言ってました」

 仁美は頷くと、自分のコーヒーに手を伸ばした。「さすがは刑事さんですね」

「やっぱり」芹沢は短いため息をついた。「どうも申し訳ありませんでした」

「いいんです。内緒にしている私が悪いんですから」

「自分が喫まないんで、そういうところに気が回らないんです。喫煙者が周りにどれだけ気を遣っているかなんてね。まして女性となると、おもんばかれない」

「刑事さんは気にならないんですか」

「そんなことにこだわってちゃ、こういう仕事はできませんよ」

「女性が煙草を喫むのも?」

「そのへんの線引きが、俺にはよく分からない。男の喫煙は許容できて、女だと許せねえなんて。いや、あなたの彼氏のことを言ってるわけじゃないんですよ」

「ええ、分かってます」

「だいいち、今どき女性の喫煙を嫌がってちゃ、女の子とは付き合えないでしょ」

「そうですか」と仁美は愛想笑いを浮かべた。

 芹沢は悠々と微笑むと、ちょっと失礼、と言って席を立った。自分のデスクへ行き、ジャケットの下に掛けてあったベルトのようなものを引き抜いた。それは拳銃のホルスターだった。負傷した左腕を庇いながら装着する様子を、仁美はソファから眺めた。

 涼しい顔の男だな、と思った。一つ一つの部品の整い方も見事だが、それらが配置されているバランスが極めて心地よく、ナチュラルな印象さえ受ける。そしてその土台とも言うべき肌の色が男性にしてはやや白めなのも、清流のような透明感を効果的に演出していた。怪我のせいでホルスターをうまく装着できないらしく、肩をもぞもぞと動かしていると、ちょうど後ろを通りかかった同僚に大袈裟に手伝われて、はにかんだように笑っている。おかげで無事に完了したようで、同僚が彼に何かを言ってその頭をこつんとつつくと、彼は片目を閉じてさらに笑った。その笑顔が意外なことにとても無邪気で、仁美は思わずドキッとした。確かに、この顔なら女性に不自由することはなさそうだ。

 仁美のもとに戻ってくるなり、その芹沢が訊いてきた。

「その後、部屋にいて変だなと感じることはありませんか」

「いえ、ありません」

「部屋を出るときに、誰かに見張られていると感じるようなことは?」

「ないと思います」

 芹沢は頷いた。「で、あのUSBがどうして空き巣に関係があると思うんです?」

「それは――」

「分からない」

「ええ。でもさっきも言うたように、あれには見覚えも心当たりもないし、今まであんなものが放り込まれたこともないんです。それで、考えてみると空き巣に入られてから三日しか経ってないし――」

「関連があるんじゃないかと」

「ええ」

「だとしたら、あなたの部屋に侵入したのには意味があるってことですよね。それで気味が悪いと?」

「はい、そうです」

「――ま、そう考えちまうもんなのかな」

 独り言のように言った芹沢の言葉に、仁美は嘲笑の空気を感じ取った。彼女の推測を明らかに馬鹿にしている。まるで彼女が被害妄想にかられているかのような言い草だ。自分たちプロにしか、正しい推察はできないとでも言いたいのだろう。仁美はひどく不愉快になった。

「辻野さんは、あれにどんなことが記録されていると思います?」

「そんなの、見当もつきません」仁美は素っ気なく答えた。

「でしょうね」と芹沢は小さく笑った。「はたしてあれで何か分かりますかね」

「それで、一つお願いがあるんですけど」

「内容が見たいんでしょ」

「ええ、そうです」――よう分かってるやないの。仁美は安堵した。しかし――

「そいつはどうかな」

「え」仁美は顔を上げた。

 芹沢は目尻の絆創膏を指で触れ、微かに顔をしかめて言った。

「あなたの言うように、あれを入れて行ったのが空き巣と同一人物だとしたら、それはお見せすることはできませんね」

「どうしてです?」

「申し訳ないが、あなたは確かに空き巣の被害者ではあるけれど、それ以上の何者でもないんですよ」

「あのUSBがあたし宛てに届けられたものでも?」

 芹沢は分かっているよとばかりに仁美を真っ直ぐに見据えて頷いた。「確かに、あなたの部屋の新聞受けに入っていたかも知れないけれど、あなたに宛てたものかどうかまでは分からない」

「どういうことです?」

「あなた、一階の郵便ボックスにも部屋にも、表札掲げてないでしょ。常識ですもんね。つまりこの前もちょっとお話ししたように、相手を間違えてる可能性だってあるんですよ」

「でも、単純に誰かからあたしへの届け物かも知れないし。そうだとしたら、今度は逆にあたしが信書の秘密を侵されることになるわ」

「でも、そうじゃないと思ったからここへ持ってきたわけでしょう?」

「そうやけど……」

「空き巣と関係があると思う、とおっしゃったのはあなたじゃないですか」

「……ええ」

 芹沢はほらね、とばかりに笑顔になった。「だったら、とにかく預からせてください。実を言うとこっちも手がかりがなくて困ってたところなんです。事件と何の関係もないものだと判ったら、速やかにお返ししますから」

「そこを何とか。だって、考えてもみてくださいよ。あたしがあれを見つけて直ちにここへ持ってきたからええようなものの、もしかしたら黙ってたかも知れないんですよ。現にあたし、隣の部屋の人にパソコンを借りようとしたし、あるいは明後日になったら会社で内容を調べようかとも思いました。もしそうしてたら、あたしは内容を知り得たはずです。刑事さんたちよりも先に」

「そうしなかったのが、辻野さんの立派な正義感と道徳心の現れです」芹沢はすかさず言った。「そこで収めてもらえませんか」

「でも――」

「それに、あなたに何も心当たりがないなら、そう急ぐこともないでしょう」芹沢の目が少し厳しくなった。

 これはちょっと手強いな、と仁美は思った。自分はこの刑事を、いささか甘く見ていたようだ。レストランでの愚痴と、空き巣の捜査に来たときの怠惰な雰囲気から、仕事よりも女遊びに夢中なダメ警官だと思っていたのだ。

 だったら、と仁美は別の手段に出ることにした。媚びるような視線の上目遣いで芹沢を見て、自分でも気持ち悪いくらい甘ったるい声を出して言った。

「だってぇ……知りたいと思うのが人情ってものでしょう? お願い、ちょっとだけ――ね?」

「分からねえ人だな、あんた」

 芹沢は硬い表情を崩さず、代わりに今までの口調をがらりと変えて言った。どうやら仁美のお色気作戦はまったく通用しなかったらしい。それどころか、逆に怒ったような眼差しで仁美をじっと睨みつけると、ふんと鼻を鳴らして低い声で言った。

「遊び半分でこっちの仕事に首突っ込んでこられちゃ、えらい迷惑なんだよ」

 仁美はムッときた。そして言い返した。「協力者に対して、その言い方はないでしょ」

「だったらそれらしく、最後まで協力的な態度を貫いてもらいたいね。証拠品を手に入れたのをダシに無理難題を吹っ掛けるなんて、まるで強請ゆすりじゃねえか」

「あたしは指紋まで取られたんですけど?」

「当然だよ、あんたの部屋に空き巣が入ったんだから」芹沢は眉を上げた。「そこらじゅう、あんたの指紋がベッタベタ付いてるだろ。それを除外するのに必要なんだよ」

「……腹立つ言い方」

「何と言われようと内容を見せるわけにはいかねえから。用が済んだら、とっととお引き取りください」

「頭にくる……」仁美は呟くと、ぱっと明るい表情になった。「鍋島さんは、待っててくださいって言うてはったわ。戻ってきたら、あたしにも見せてくれはるつもりなんやわ」

「そりゃ甘いな」

「なんで?」

「あいつがあんたに待つように言ったのは、USBの届け出の書類を作るためさ。一緒に見ようってんじゃねえよ」

 芹沢は立ち上がり、親指を自分のデスクに向けた。「何だったら、今から俺が書こうか?」

「いいえ、鍋島刑事を待たせてもらいます。それくらいええでしょ」

「ご自由に」

 芹沢はそのままデスクに戻って行った。

 そこへ、見計らったように鍋島が戻って来た。ソファに仁美しかいないのを見て少し怪訝な顔をしたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「お待たせしました。やっぱり、あなたのとは別にもう一人の指紋が付いてましたよ。今、それを前科者のリストと照合中です」

「そうですか」仁美は言って、鍋島の次の言葉を待った。

「それでですね、もう一つだけお願いしたいんですけど。お手間は取らせませんから」

「何でしょう」――そら来た、と仁美は身を乗り出した。

「USBを届けていただいたっていう、書類を作成したいんですよ。必要事項の記入をお願いできますか」

「……それだけですか?」

「ええ、それだけです」と鍋島は相変わらずにこやかに言った。「すいませんね。せっかくのお休みやのに、お引き留めして」

「USBの内容は調べないんですか?」

「もちろん調べますよ。このあと我々で責任持ってやりますので、ご安心ください」

「あたしも、立ち会わせてもらえませんか?」

 鍋島はすぐに首を振った。「それはできません。これは我々の仕事ですから」

「…………」

 仁美は恨めしそうに鍋島の顔を覗き込んだ。穏やかな表情だったが、その中には鉄壁の意志が潜んでいるのが分かった。それでも仁美は食い下がった。

「どうしても駄目ですか?」

「ええ、駄目ですね」

 鍋島の目は(ここらで諦めろよ)と言っていた。

 仁美はがっくりと肩を落とした。視界の端で、頬杖を突いた芹沢がこちらを見ていた。

「ほな、書類を持ってきますので」

「鍋島」

 芹沢が声を掛けた。仁美は彼を見た。

「なんや」

 芹沢は勝ち誇った表情で仁美を一瞥すると、口の端に愉快そうな笑みを湛えて言った。

「辻野さんのあられもない姿が映ってる動画とかだったら、すぐに返してあげろよ」

「了解」と鍋島は苦笑した。

 仁美は芹沢を睨みつけた。

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