第二章 失踪

1 手負いの刑事たち


 三日前に来たときより、玄関ロビーが広いように思った。

 時間のせいもあるのだろう。空にはまだ昼間の青が少しだけ残っており、入口の半分には薄い光が射していた。表の通りに群がる車列の中にも、ライトを点けて走っているものは見当たらなかった。

 仁美はロビーの入口に立って、ぼんやりと周囲を見渡した。奥の廊下を歩いてきた制服警官が、仁美をちらりと見てそのまま通り過ぎていく。右側の交通課の窓口では、スーツ姿の男が事務服を着た女性職員と話している。その正面の柱の前にある公衆電話で、派手なジャケットの中年女性がけたたましい声を張り上げていた。

 受付の婦人警官は、仁美が近づいて行くと硬い笑みを浮かべた。

「刑事課の鍋島さんか芹沢さんをお願いしたいのですが」

 分かりました、と婦警は頷いて、目の前の電話を取った。

「――あ、受付です。鍋島巡査部長か芹沢巡査部長に来客です――そうですか、はい、分かりました」

 婦警は受話器を置きながら残念そうに仁美を見上げた。「二人とも外出しています。今しがた、こちらへ戻る旨の連絡が入ったそうですが――お待ちになりますか?」

 仕方ないから待つことにするか、とはらを括ったところに、背後から声を掛けられた。

「辻野さん?」

 振り返った仁美は、声の主である鍋島を見て思わず絶句した。

 鍋島の顔は酷かった。額の左側にガーゼをテープで留めて、頬には擦り傷があった。右側の口角も腫れている。襟に血痕のような汚れのついた薄紫色のシャツを着て、甲に絆創膏を貼った手で濃紺のブルゾンを持っていた。決闘帰りのガキ大将そのものだった。

「え――」

「どうしたんですか?」鍋島が訊いた。

「い、いえ……」仁美はまだ唖然としていた。

「どうしたんですかって、巡査部長の方こそどうしたんです?」

 婦警が半ば笑いながら言った。どうやら、鍋島のこの派手ないでたちは、これが初めてではないらしい。

「ちょっと運動。最近身体が鈍ってたから」

 鍋島も半笑いで答えると、真顔に戻って仁美を見た。「何かあったんですか?」

「ええ、まあ」

 仁美は頷くともう一度鍋島の全身を眺めた。「お取込み中なら、出直しますけど」

「別に構いませんよ」――(何のこと?)と言いたげだった。「どうぞ」

「あ、はい」

 鍋島は階段へと向かった。仁美も後に続いた。途中ですれ違う同僚たちに大袈裟に心配されたり、手を叩いて喜ばれたり、あるいは冷ややかな一瞥を投げかけられたりしながら、鍋島はそれに適当に答えて階段を上った。

「……大丈夫ですか?」仁美は訊いた。

「ええ、慣れてますから」

「どこかで転んだ――なんて、そんなはずないですよね」

 鍋島は小さく笑った。「これがコケて出来た怪我やったら、俺はまず眼科に行くべきですよね」

「そうですよね」

 我ながら馬鹿なことを、と仁美は己の間抜けさを恥じた。「芹沢刑事は?」

「あとから来ますよ。あいつの場合、俺より傷が大きかったから、ちょっと手間取ってるんです」

「……大変ですね」

「ええ、大変です」鍋島はさらりと言った。


 刑事課に入った途端、居合わせた捜査員たちが鍋島を見た。反応は廊下ですれ違った連中とほぼ同じか、いくぶん好意的だった。それから仁美を部屋の奥の来客用ソファに案内して、鍋島は言った。

「コーヒー、飲めますよね?」

「はい」

 咄嗟に訊かれて仁美は反射的に返事をしたが、すぐに手を振って言い直した。「いえあの、どうぞお構いなく」

 鍋島は微笑み、続けて訊いた。「砂糖とフレッシュは?」

「……じゃあ、ブラックで」

「待っててください」

 そう言うと鍋島は並んだデスクの一つの前に行って、ブルゾンをそこに置いた。そのとき、部屋の前方の入口から四十過ぎのやや小肥りの男が入って来て、「鍋島! おい!」と叫んだ。

「なんですか」

 中年男性の怒鳴り声に対して拍子抜けするほど平坦な口調で言い、鍋島は顔を上げた。男は肩をいからせて鍋島に近付いてきた。彼の上司らしい。

「……何ですかやない。おまえら、どういうつもりや。容疑者をあんなに痛めつけて」

「こっちも同じ目に遭いましたよ」

 鍋島は即座に言い返して自分の顔を指差した。「芹沢は肘から手首のそばまで十五センチ近くも切られて、まだ病院にいるんです」

「警官の暴力行為で訴えるって、向こうは息巻いてるぞ」

「ゴロツキのヤク中に、そんなことができますかね」

 鍋島は上司から顔を背けて笑った。「すいませんが、あとにしてもらえますか。来客中なんで」

 上司はちらりと仁美を見ると、極めて不服そうな表情を崩さないまま、押し付けるような低い声で言った。「……昇進に響かなんだらええがな」

 上司はゆっくりと歩いて上座に位置するデスクに着いた。鍋島は俯いて、声に出さずにひとこと呟いた。『くそったれ』と言っているのが、仁美には読み取れた。

 やがて鍋島はコーヒーの入ったカップを両手に持ち、仁美の前に戻って来た。

「どうぞ」

「すいません、ありがとうございます」仁美はいささか恐縮して頭を下げた。

 鍋島は自分のコーヒーをひと口飲み、ふうっとため息を吐きながら目を細め、穏やかな声で言った。

「で、何があったんです?」

「あ、それが」

 仁美は膝に乗せたショルダーバッグを開け、中からチャック付きビニール袋を出してテーブルに置いた。

 中には、宛名も差出人も書いていない白封筒と、USBメモリが入っていた。

「これが何か?」

「今日、うちの郵便受けの中に入ってたんです。この封筒に入れて」

 鍋島はビニール袋を手に取り、封筒の表と裏を見てから顔を上げた。「心当たりは?」

「ありません」

「あなたがどこかで落としたものではないんですか?」

「違います。自分ではタブレットしか持っていませんし、USBメモリはほとんど使いません。会社で使っているものとはメーカーが違います」

「そうすると、あなたはこれが――」

 そのとき、間仕切り戸のあたりで小さなざわめきが起こり、鍋島と仁美はそちらに振り返った。さっき鍋島が戻って来たときと同じ出迎えを受けている芹沢の姿が、そこにはあった。

 芹沢は皺くちゃになったクリーム色のシャツの両袖を捲り上げて、右手に紺のジャケットと、黒革のベルトのようなものを持っていた。左手の肘から手首までを包帯で巻いて、胸のあたりに掲げている。右の眼尻には小さな絆創膏が貼ってあった。そして、冷やかされた同僚に苦笑いで答えながら自分のデスクまでやってくると、ソファの鍋島と仁美に気づき、首をまっすぐに伸ばした。

「ああ、どうも」芹沢は仁美に会釈した。

「……こんにちは」

 芹沢はジャケットを椅子の背に掛けると、そのまま二人のところへやってきた。

「何かあった?」

「新聞受けに意味深なもんが放り込まれてたんやて」

「意味深なもの?」

 芹沢は鍋島の隣に腰を下ろした。そしてテーブルのビニール袋を顎で指しながら言った。「これか」

「ああ。ご丁寧にも差出人不明と来てる」

「へーえ」芹沢は頷くと仁美を見た。「これが空き巣と関係があるって?」

「そう思たから、ここへ持ってきてくれはったんや」鍋島も仁美を見た。「そうですよね?」

「はっきりとそう確信があるわけではありませんけど、三日前の今日となると、何だか気味が悪くて」

「内容は確かめましたか?」

 仁美は首を振った。「確かめようにも、ハードがないんです。今日は土曜で会社も休みですし、さっきも言うたように自分でパソコンは持ってません。隣人に借りようとしたんですけど、その人も留守で」

「ネットカフェとかに行けば見れるんじゃねえかな」芹沢がぼそっと言った。

 仁美は少し不服そうに芹沢を見た。「ええ、そうでしょうね。でも、空き巣の件と関係があると思ったから、それよりも警察やと思ったんです」

「なるほど」芹沢は口の端っこで笑った。

 鍋島はビニール袋に目をやった。そして「まずは指紋やな」と呟くと仁美に視線を移し、「辻野さんの指紋もついてるでしょうけど――あ、この前、提供していただきましたね」と頷いた。

「ええ」仁美はまだ不満そうだった。

「鑑識で調べさせていただきますので、しばらく待っててください」

「はい。どうぞ」

 鍋島は立ち上がってちらりと芹沢を見下ろすと、いささかぎくしゃくした足取りで部屋を出て行った。おそらく、どちらかの足にも痛みがあるようだ。


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