第15話 三日月の飛翔

 穢れを一歩踏んだ瞬間、靴底を通して伝わって来た感覚。ピリピリと焼けるような微かな痛み、体力が外に逃げ出す虚脱と嫌悪。

 二、三歩と足を進めるたびに本能が危険信号を伝える、穢れと戯れてはいけない、生者がわざわざ死に触れる必要は無いと。


「危ないよ天奈、戻って!」

 背後から呼び止める潤子の叫びに、天奈は心の中で謝る。


 でも、それでも。


 天奈はけっして足を止めようとはしない、倒れた男性に覆いかぶさりこちら気づかない大蜘蛛に近づき木の棒を力いっぱい構えた。

「その人から、離れて!」

 木の棒を蜘蛛の顔面目掛けて叩きつける、目玉がぐしゃりと潰れた感触を気にも留めずそのまま吹き飛ばした。近くの大百足にぶつかり虫たちの眼が天奈に集中した。

 

 穢れに黒く濁った丸い目、そこには明確な敵意があり必ず傷つける意思がはっきりと伝わる。

 

 さっき黒音が言っていた闘争とはこの事だろうか? 

 身に訪れるだろう危機を感じ、背筋や肩を強烈な怖気が襲う。

(っ、下がらない恐怖に負けない! 足をしっかりつけて腕を振るって!)

 うまずたゆまず、天奈は怪異に立ち向かう。


「? ん? ふぇ? ……天奈何してるの⁉」


 大鎌を水平に構え次なる攻撃を考えていた黒音は、突然の天奈の行動に気付き思わず三度見する。

『ビィ!!』

 気がそれてしまい、危うく大虎の爪をまともに受ける所だった。


 倒れている人達を守るように更に前に出て、一心不乱に棒を振り続けた。

 黒音の華麗な大鎌捌きとは比べる事すらおこがましい単調で雑な動き、半分以上が空振りとなるが、目の前を棒がすれすれで通るために虫達は迂闊に近づけない。


 それともう一つ天奈自身は気づいていないが振るたびに体と棒から、白銀の粒子が僅かに放出されている、虫達はどこか、その粒子から避けるような行動をとっていた。


 倒した訳でも無く、逃げる訳でもなく、着かず離れずの距離を取りながらけん制しあう。

「この人達は食べさせない死なせない! お願い諦めてっ」

 

 倒れている男性達から聞こえてくる、苦痛のあまり救いを求める声。

「皆さん! 必ず助けます、意識をしっかり持ってください!」

 近くの男性の所にしゃがみ、呼びかけながら肩を揺さぶる。触った手が穢れに濡れて痛みと倦怠感が強まる。

 

 肌に伝わるどろっとした感触、そして触れるたびに頭に響いてくる数多くの悲鳴と慟哭。

 それは、人間が死ぬ瞬間に味わった恐怖をかき集めこねくり回した、凄惨たる黄泉の水。


 これが穢れ、死に至る病。

 

(大丈夫、ちょっとだけ苦しいけれど、まだ十分耐えられる)

 

「まったく、想像以上に無茶をされる方です」

 背中から流れ込む突風、それは天奈を優しく通り抜け対峙する虫達を切り刻んだ。


「ホタルさん、ごめんなさい私居ても立っても居られなくてっ」

「討論は後で、向こうは皆さんに任せました」

 言われて後方を見ると、飛び回る蜂とカナブンに冷気をぶち込む志津理、ホースの水で穢れを流す消防隊、そして怯えながらも貰った塩を必死に投げる潤子の姿があった。


「はぁはぁ、イ、インドアにはきつい、し、凍れ!」

「天奈! こっちは大丈夫だから急いでぇ!」

 涙目の潤子が大きな声で伝えてくる、そうだ今はとにかく行動を。


「私、皆を運びます!」

「分かりました。怪異融合者とは言え、長時間穢れに触れあえば命の危険があります行動は迅速に」

 

 ≪急・律≫ ホタルが唱えると、周囲数メートルを温かく黄緑の風が回る……すると倒れている男性達、十数人が地上からおよそ三十センチ、体が浮き上がった。

 

「風が、これって?」

「私の術で浮かせました、これで多少は楽になります」

 虫の援軍が来る前に天奈は腕で、ホタルは口ばしで浮いた男性達を入り口まで運び始めた。浮いた彼らの体重は思っていたより軽く、台車に乗せたかのようにスライドさせて運ぶことが出来た。


 ◇◇◇◇◇◇


 天奈達の様子をちらちら遠目で見ながら、黒音はひらひらと大虎の牙を潜り抜ける。

「天奈ケガしてないカナ? うう、心配だなー心臓バクバクだよー、やっぱり向こう行こうかナ、でも虎さんもほっといたら危ないしナー」

 まともに戦闘に集中できていない様子に大虎は苛立ち、全身で大きく跳ねて噛みつこうと襲い掛かった。


「だから」


 その雑な攻撃を待っていたのか、たんっ、と黒音は軽やかに大虎の鼻に乗り刃を振るった。

『ビイイイーー!!??』

 蒼き大鎌が大虎の三つの眼、その内二つを横一線で綺麗に切り裂いた。ぱっくりと開いた眼球から、どくどくと穢れが流れる。


「もう、満たさなくていいから、奈落に堕ちようネ」


 痛みを我慢しながら、大虎は残ったおでこの眼を動かし黒音を睨む。

 突然、黒音は正面から走り、その勢いに乗って大虎の眼前で転回、揃えた両足の底で鼻っ面を蹴り飛ばした。


 空気が弾けるほどの衝撃と音、遠くに居る天奈達そして虫達にもそれは届き、皆が戦いの行く末に注目する。


 十メートル近く弾き飛ばされた大虎、眼は斬られ鼻は潰され、あまりの憤怒ふんぬに任せて突進しようと、前足に力を籠め爪を穢れに立てる。


 さくっ、と大虎の耳に何かが突き刺さる音が聞こえた。


 続けて痛みが走る、大虎の両足に三日月型の装飾ナイフが突き刺さっていた。それは黒音が投げた追撃の刃。


「PON☆」


 黒音は握っていた拳を向日葵ひまわりの形に開く、合図に合わせて両足に刺さったナイフから蒼い火柱が吹き上がった。

 絹を裂く大虎の雄叫び、前足は丸ごと焼かれ動きを完全に封じられた。


 黒音は乱れたスカートを整え刃の曲線に素早く指を這わせる、蒼い光が刃紋を流れ全体に行き届く、そして力強く輝く大鎌を構えた。


「乱れて踊れ――フォルテッシモ!!」


 振るわれる大鎌、それは刃を離れ凄まじい速度で飛翔する斬撃。体を回し水平に飛ばす二撃目、逆さに構え斬り上げる三撃目。一息で放たれた三つの月刃。

 身動きが取れない大虎の眼には閃光の煌めきが走ったようにしか見えなかった。 

 

 三つの斬撃が大虎を通過する。

 あまりに速すぎて何が起きたのか分からない……やがて少しづつ足に胴体に顔に切れ目の線が入っていく。切れ目は広がり、全身がずれていく。


『ヒイイ』

 ――最後の鳴き声の後、大虎の全身のパーツが弾け飛んだ。  


「アハ☆」


 突如この玄関広場に現れた巨大虎、その身が崩れ溶けて原型を残さずに、穢れの水に変質したのを黒音は確かに見届けた。


 ◇◇◇◇◇◇


「やったあ!! 黒音さんが勝った!!」

 塩をまきながら黒音の戦いを見守っていた潤子はガッツポーズを取った。

「マジでナニモンだしあの女の子、虎には勝てないっしょ普通……えと、ホントに味方なんだし?」

 目の当たりにした黒音の圧倒的強さに、志津理も消防士達も意図せずに心の中で身震いしてしまう。


「黒音、良かった本当に」

 男性達を半分ほど入り口前に運んだ天奈も、黒音の勝利に安堵の息を漏らす。

 黒音が勝つと信じているが、やはりあんな巨大な怪物と命を懸けて戦う姿を見るのは心臓に悪い。


(大丈夫、黒音はもう居なくなったりしない、大丈夫、大丈夫)


 七年前の悪夢は決して来ないと、自分に言い聞かせる。 

「怪異の数も数える程度、このまま事態が収束すればさいわいです」

 隣で男性を降ろしたホタルの声が僅かに和らぐ、この緊迫した現状が好転し始めている事を感じ取ったのだろう。


 浮いた男性達を支えて、時には膝を付けながら穢れの少ない安全地帯へ非難させる救助作業。

 気が付けば天奈の肌も服も穢れがこびり付き、生命力を幾分か消費し呼吸が不安定になっていた。


「後少し、私も頑張るんだ」


 しかし天奈はけっして手を抜こうとしなかった。

 絶対に助ける立ち止まるものか、確固たる意志を瞳に宿しふらつく体に喝を入れた。 


 その意思に反応してか、体を流れる白銀の粒子が色濃く輝きを増す。

「天奈様?」

 気づいたホタルの瞼が開く、同時に遠くの黒音がこちら側へ笑顔で振り向き、ぶんぶんと腕を振る。

 

「勝者に喝采をーパチパチパチ♬ 天奈終わったよーそっち手伝うね……いけない離れてぇ!!」


 いきなり黒音が声を荒げる、何が? と天奈は彼の視線の先を追った。


 天奈から見て左、その一メートル先で泡立ち膨張する――巨大な球形の穢れ。

 それは今まさに破裂しようとしていた。


 ◇◇◇◇◇◇


 急激な危機に天奈の感覚が鋭敏になり、周囲がコマ送りになり遅く見えてしまった。


 笑みが消え、焦りの表情で走り始める黒音。

 穢れに気付き天奈を庇おうと羽ばたくホタル。

 未だ何が起きたのか気づかず、あたふたする潤子。

 同じく反応できない、志津理と消防隊。


「ぇ、ぁ?」

 天奈もまた目の前の穢れに思考が追いつかず、反射的に両腕で身を守る態勢を取る。

 この近さで穢れを一斉に浴びれば、怪異融合者でも無事では済まない。


(そん、な、まだ諦めたく、無い)


 願い空しく、巨大な穢れは天奈目掛けて破裂した。

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