第3話 悪夢の日
全てが始まったのは十日前。
天奈が暮らす
今年から
「ほら天奈、早く早くっ」
「待って、もう少しゆっくり行こう、私も休日も逃げないから」
「何言ってるの! 休みは逃げちゃうよ!」
「来週には再会できるよ」
ショッピングを楽しみ、
天奈自身は今どきの女子の流行りに少し疎かったが、潤子に引っ張られる形で不慣れながらも楽しんでいた。
一通り見て回った頃には時刻は十六時を過ぎており、そろそろ帰ろうかと大通りの交差点前で相談していた。
当たり前の日常、当然の今、
――瞬きの一瞬。
当然の筈だった平和が、薄いシャボン玉となり屋根に届くこと無く割れた。
「ん?」
心臓を締め付けるような圧迫感、思わず漏れた声、何が起きたのか理解できないまま天奈は上を見上げた。
「え、何、あれ?」
隣の潤子が動揺する、彼女だけではない歩道に立っていた大勢の人達も案山子となり見上げている。歩行者用信号機が青へと変わるが、歩き始める者は誰一人としていなかった。
皆の視線の先、街の上空には紫色の巨大な
透明度の悪いガラスに似ている、外の光をぼやけさせ隠していく不気味な膜。
地上から見ると分からないが、膜は球状に広がっていき、やがて矢染市の大半をすっぽりと覆いつくした。
言葉が出ない二人、周囲のざわめきが次第に大きくなり路上に停車した車の窓から次々とドライバー達が顔を覗かせる。
「空が、紫になっちゃった」
「……」
その呟きに天奈は返答できない、この現状に理解が及ばないのは当然だが。
(ダメ……駄目っ、ここに居てはいけない、居ちゃいけない!)
どうしてか、漠然とした危機感と恐怖心が心を埋め尽くしていた。
ナニカが起こる。
「潤子、すぐに離れ、」
『ないの』
潤子の手を掴もうとしたその時、耳元で囁かれた誰かの声。
ずしりと、肩を掴まれる。
「よ、え?」
思わず掴まれた方向へ振り向くと、どこかの黒いセーラー服を着た同い年くらいの少女が間近に居た、顔は前髪で隠れ入りはっきりと見えない。
『ナイノ』
「あ、あの、どうしたんですか?」
問いかけを無視して、両手で天奈を力強く掴む。
眼前の少女はゆらゆらと上半身を揺らす、しがみついている筈なのにその体は妙に軽い。
『無いの』
「無いって、何が?」
『ナイノないの無いのないのないの……足が無いの』
足? と、反射的に足元に目線を移す。
そこには自分の足と地面がある、ポタポタと黒い液体が落ちて広がるただの地面。液体は少女の引き裂かれた腹部から覗く腸から規則的に零れ落ちてる。
あぁそっか、この子、下半身が無いんだ。
前髪の隙間から見える真っ赤に充血した目で、上半身だけの少女は天奈に怖気の走る笑みを見せた。
「っっ‼⁉」
声にならない悲鳴とはこの事。空を見ていた潤子がこちらを向き今度は分かりやすい悲鳴を奏でた。
近くに居た人達も異変に気づき、軽いパニックが引き起きる。
『テ、け、ケテ、ケケケケケケ!』
常軌を逸した雄叫びを上げ少女は押し倒す、獣の様に尖った歯が首元に噛みつこうとしてきた。
「い、嫌! お願い離して!」
錯乱しそうな思考を必死に我慢して、天奈は少女を押し返そうと両腕の力を籠める。凄まじい力で少女は暴れ黒い血をまき散らした。
「ひうっ、あ、天奈から離れろ!」
状況に怖気づきながらも、潤子は引きはがそうと掴み掛った。それでも少女は力を緩めようとしない。
他の人達は助けるどころでなくその場で二の足を踏む、笑い声を止まず、爪が肌に食い込み鋭い痛みが走る。
(どうして? なんでこんなことに?)
苦悶に顔が歪み目じりから涙が溢れた、その時。
『くーん、けーーん』
頭の中にしんと響いた――獣の鳴き声。
『ギ、ケ⁉』
突然少女は跳ね退いた。笑みは消え猫目でこちらを睨み……やがて腕のみで器用に集団の奥へと消えて行った。
困惑する二人は、今起きた事が現実か幻覚か判断できず、倒れたまま呆然とする。
しかし、混乱は始まったばかり。交差点全体から轟く新たな無数の悲鳴。
空の膜から降り注ぐ濃紺の煙、交差点の中央から吹き出す黒い泡状の巨大な泥。
怯える視線が集まる中、この二局は臨界にまで膨れ上がりそして――破裂した。
『ぁあ亜あァアあ阿ああ吾アあーーーーー』
煙からは数えきれない程の人間のしゃれこうべと荒ぶる無数の火の玉。
泥からは黒く濁った透けた人間? 四肢が曲がり壊れながら人の形を成した何か達が溢れだす、中には動物や昆虫の巨大な手足が泥を突き破る姿も見える。
人の生涯において決して触れ合う事のない、異形のバケモノ。
幽霊、お化け、亡者、魑魅魍魎、メディアではそのように呼ばれている者達。
それらは出現しただけでは終わらなかった、間髪入れず街に人に一斉に襲い掛かる。
蜘蛛の子を散らし逃げ惑う人々、飛び交うしゃれこうべは逃げる背中に次々と噛みつき、火の玉が
濁った亡者達は半壊した身からは想像もできない速さで、先程の上半身だけの少女みたいに組み付いてきた。
傷口から滲み出る黒い泥が生きた人間に
枝が擦れる音を立て、現れたのは一メートル大の巨大な百足、蜘蛛、蛾、彼らは好き勝手に辺りを
緊急事態から脱出する為、急発進する車、しかし恐怖に震えてハンドル操作を誤り、そのまま横転、衝突、交差点に逃げてきた人を次々に
破損して停止した車内に、亡者が強引に侵入……悲鳴がまた一つ二つ増えていった。
交差点から波として広がる、
……気が付けば、天奈は潤子の手を引っ張り無我夢中で走っていた。
「ぅぅ、ひぐ、ぐす」
惨劇の前に泣きじゃくる潤子に対して、天奈の心は不思議と冷静さを取り戻していく。
「頑張って潤子! 早く家に帰ろう!」
バスも市電も使えない、距離はあるけど走って帰るしかない。
二人は死に物狂いで走り続けた。
自分達と同じ逃げ惑う人々、血まみれで倒れ動かない人々、燃え盛るいくつもの建物、目の端を通り過ぎるしゃれこうべと巨大な虫、背後から追ってくる何者かの呻き声、道端のあちこちから次々に発生する黒い泥。
そして、終わる兆しを見せない悲鳴とサイレン。
(逃げる逃げる逃げる! 転ぶなんて論外、一分でも一秒でも早く! 生き残ることを考えて!)
全てを見ない聞かないふりをして、胸の奥に罪悪感の痛みを強く感じながら、それでも自分達の安全を優先して走り続けた。
悪夢ならどうか覚めてくれ、切実にそう願いながら。
その後、夕暮れの逢魔が時を迎えたころ、奇跡的に潤子の家に二人は帰り着いた。
汗だくで死にそうなくらい息を切らしながら玄関に飛び込む。中学生の時、陸上部に入っていたことに二人は過去の自分に感謝した。
それから時間は流れ……十日後、状況は悪化の一途を辿り続けた。
巨大な膜は消える気配は見せず未だ健在、交差点で遭遇したバケモノは際限なく増え続け、街を埋め尽くす。
誰かの悲鳴、何かが壊れる音は昼夜問わず聞こえる。震えた指先でそっとカーテンを開けば空陸問わずバケモノは獲物を探し活動を止めない。恐ろしさのあまり外に出ることもできず、この家で天奈達は震えて待ち続けた。
何かが、誰かが、この状況を変えてくれることを。
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