第11話 暗闇から姿を見せた未来





 ――そうして、時間を改めて。時刻は、深夜に差し掛かろうとしている。




 住宅の傍を通る度に香るのは、各家庭の夜の匂い。(……ちょっと、カレーの匂いがするな)その合間をふわりと横切って、目的地へと向かう。


 家と家との距離(というか、旅館から)は車でも二十数分は掛かる距離だが、空を飛べる今の俺に掛かれば、その距離も数分程度。


 地上を行くなら右に左にとハンドルを切らねばならない通路も、最短距離の一直線。なので、


 客観的に見て、浜田の家は他の住宅とそこまで違いはない。昭和を思わせる、年期の入った二階建ての一軒家だ。



 そして、浜田の部屋は二階の、道路に面した側にある。



 幸いにも、浜田自身はほとんど受け応え出来ない状態ではあるが、近づいた者に対して攻撃をするわけでもない。彼の家族が空気を入れ替えるという名目で様子を見に来る朝と晩以外は、彼は常に独りである。



 その間……二階の窓は常に開いている。



 時々によってカーテンが閉じられていることもあるが、おそらく今日はカーテンも解放されているだろう、たぶん。今日の天気が快晴だったこともあって、特に気持ちの良い潮風が朝から吹いているから。


 その証拠に、夜の暗闇の中には、何とも気持ちの良い夜風が満ちている。


 これが都会であったなら、さぞ、大勢の人々が出歩いているところだが……ここでは違う。夜の10時を過ぎれば、子供が出歩いていることはほとんどない。


 出歩いた所で、娯楽施設なんてここには無いからだ。


 駅前に出たって、飲食店がちらほらあるだけ。電車に乗った所で、遊べる場所に着いた時にはもう終電の時間……だから、ここらは夜になれば本当に人気が無かった。


 その、人気が無い暗闇の中を、俺は音も無く駆け抜ける。


 最初は浜田家の場所が分からず(目印になる物が、都会と比べて少ないので)道に迷ったりもしたが、今ではこの通り……一直線だ。


 そうして、迷うことなくふわりと……浜田家の二階の窓の下に身を引き寄せた俺は……そっと、顔を覗かせる。



 視線の先……部屋の中央には、この前と同じく浜田が座り込んでいた。



 照明は、点いていない。まあ、今の俺には何の問題も無いが……服装はシャツに短パンというラフな格好で、寝間着というよりは普段着でそのまま……といった感じだろうか。


 着替えは……おそらく、まともに出来ていないのだろう。俯いているので表情を伺う事は出来ないが……背中から漂う雰囲気からして、症状が改善しているようには見えない。


 俺が監視を始めてからずっと、この状態が続いている。


 家族の前では違うのかもしれないが、少なくとも、俺が見ている限りでは……まったく変化が見られなかった。



(アンノウン、これで今日は満足か?)



 だから、俺はアンノウンに帰宅を促した。俺自身は、浜田に対して何ら思うところが無い。



『いや、もう少し……しばらく、このままで……』



 けれども、今日に限ってアンノウンが拒否をした。


 何時もなら、とりあえずは納得したアンノウンからも頷かれるところだ。しかし、今日に限っては歯切れが悪い。


 まるで、何かを待っているかのような……何時もとは違う反応に、帰路に着きかけていた俺の身体がふわりと静止した。



(いったい何がそうまで気になるんだ?)



 思わず、俺はこれまで再三に渡って尋ねてきた質問を、再び重ねた。



『上手く、説明が出来ない。何故だろうか……どうしても、今日だけは……』



 薄々予測はしていたが、アンノウンの返事は何時もと同じであった。けれども、それすら歯切れが悪い。



 ……本当に、どうしたのだろうか?



 漠然とした不安が脳裏を過るのを、俺は自覚する。



 ……何だか、俺まで落ち着かなくなって……いや、いやいや……考え過ぎた。



 辺りを見回した俺の視界には、不安を補強するような物騒な何かは起こっていない。何もかもが、これまで見てきた景色と同じ。


 ただの、気のせい。アンノウンも、同じだ。そう、己に言い聞かせた俺は、浜田の様子を確認しようと再び顔を上げ……あっ、と声を上げた。



 何時の間にか、浜田はこちらを見つめていた。



 だが、見つめているだけだ。こちらを見つめる瞳には力が無く、焦点が合っていない。いや、何とか合わせようとしているのかもしれないが……と。



「……ぉ」



 初めて……そう、初めて、浜田が何かを呟いた。


 少なくとも、俺の前では初めてとなるその言葉はあまりに小さく、俺の耳では『辛うじて何かを呟いた』というふうにしか聞こえなかった。


 ……いったい、何を呟いたのか。


 思わず、俺は窓枠から室内へ身を乗り出す。とろん、と今にも眠りそうなぐらいにだらりと力が無かった浜田が、ゆっくりと立ち上がる。



 ――嫌な予感が、脳裏を過った。今度のは、先ほどとは違った。



 もっと強烈で、もっと……そうして、ゆっくりと……俺の方へと歩み寄って来た浜田は……その手を、俺へと伸ばし……いっ!?


 体格に見合う浜田の太い指が、首を覆い隠すように絡み付いた。


 カッと、目の前が点滅したと同時に俺は、かひゅう、と首もとに留まっていた空気が勝手に漏れ出たのを自覚した。



 ――首を、締め……!?



 痛みや苦しさよりも先に俺の頭を埋め尽くしたのは、破裂したかと錯覚してしまうほどの、強烈な頭部の膨張感であった。


 けれども、それは一瞬のことで。


 次に認識したのは、己が首の骨や気道を締め付ける太い指先の感触。ごりごりと骨が軋む異音が耳の奥に響き――反射的に俺は、その手首を掴んだ。



 ――瞬間、めきり、と。



 手首の骨を砕く感触を、覚えた。合わせて、指先が何かに食い込み、生暖かい液体が指先から腕へ……だが、しかし。



(ぜ、ぜん、緩ま――っ!?)



 俺の首を締め付ける指先から、力が抜ける気配は欠片もなかった。


 手首の骨は砕いた。皮膚の奥深くにまで指先が食い込み、血管や筋肉を割く感触もする。なのに、この凶行が止まらない。



 ――当然だ。



 目は虚ろで、半開きになった唇からは涎が垂れている。俺の目に映る浜田の顔は……どう見ても、普通じゃなかった。



「ぎっ――ほっ――」



 さらに……ぎちぎち、と。力が込められる感触を覚えると同時に、穴の開いた手首から、鮮血が噴き出すのを俺は――くっ!



 ――考える余裕は、無かった。



 ぐん、と。夜空へと引き寄せられる俺の身体が、一気に浮上する。


 けれども、俺の首を掴む指先に変化はない。一緒に引っ張られている浜田の表情にも変化はない。右に左に上下にと、揺さ振ってやるが……チクショウ!



 ――やりたくなかったが、仕方がない。



 覚悟を固めた俺は加速しながら高度を下げ――ぐるん、と。己が身体をコマのように回して、浜田の身体を――電柱へと叩き付けた。


 べきべき、と。肋骨やら何やら諸々の骨が砕けて内臓が傷つく感触が、浜田の腕を通して俺の首へと伝わって来た。



 ……が、それでも、だ。



 浜田の表情に、変化がない。泡を吹く唇の端に鮮血が混じっているのに。


 そして、指先から力が抜ける気配もない。


 まともに動けなくなるほどの怪我を負ったはずなのに……何故だ!?



『――竜司、アレだ!』



 動揺する俺の中から、アンノウンの声が響いた。『アレ』、という言葉と同時に、俺の脳裏に浮かんだ映像――迷う暇は、ない。


 再び、浮上。そして、下降。合わせて、身体をコマのように回転――浜田の身体も一拍遅れて、ぐるんぐるんと回転し――そして。



 ――浜田の胴体に、錆びて薄汚れたガードレールが深々と食い込んだ。



 手加減も糞もない。遠心力によって速度を増した身体の半ば辺りが、ずぶりと割かれる。どぱっ、と噴き出した鮮血が、ガードレールをさらに赤く染めた。



 一目で、致命傷だということが分かる裂傷だ。



 腹が裂かれた瞬間だけ、浜田はビクンと痙攣した。だが、それだけ。夥しい量の鮮血が噴き出すその腹を、押さえることすら出来ないようであった。



 ……ゆっくりと、絡み付いていた指が俺の首から外れた。



 途端、かひゅう、と吐息が俺の唇から零れた。とはいえ、それは酸欠によるものではない。


 物理的な圧力が無くなったことによる緩みから来るものであり、締められた辺りを軽く撫でまわした後は……もう、何ともなくなっていた。



「……浜田、どうしてだ?」



 だが、俺とは違い浜田は……そうはいかない。気づけば全く動かなくなっている浜田の顔を覗き込む……死してもなお、その表情には何も無かった。



 ……本当に、何も無い。



 怒りも、悲しみも、喜びも、そこには無い。電柱に叩き付けられた時ですら表情一つ変えなかったが、死の間際にすら……まったく、表情を変えなかったようだ。



 ……この無表情の下で、いったい何を考えていたのだろうか。



 その答えを知る術はもう、誰にも無い。どうして俺に凶行を働いたのか、何が目的で故郷であるこの地に戻って来たのか……結局、俺には分からないままに終わってしまった。



(……もう、ここへはいられないな)



 同時に、それは俺がここを絶たなければならない理由となった。


 明確に尋ねられたことはないが、俺が浜田に対して何かしらの興味(監視の事だ)を抱いているだろうというのは知られてしまっているだろう。


 こんな惨たらしい死に方をすれば、間違いなく人々の疑いの目は俺に向けられる。状況証拠から見て、普通では考えられない死に方をして――えっ?



 それは――突然であった。



 裂けた腸(はらわた)から滝のように滴り落ちていた鮮血の勢いが弱まり始めていた……その、瞬間。


 それまで微動すらしなかった浜田が、前触れもなくいきなり顔を上げたのだ。



「――っ!?」



 これには、悲鳴すら上げられないまま俺も飛び退いた。


 あまりの勢いに、傍の樹木にべたんと背中を張りつかせたが……そんな俺を他所に、浜田は無表情のままに……グッと、身体を起こした。



 あっ、と声を掛ける間もなかった。



 ぬちゃり、と。嫌な音を立てて、ガードレールから分離したその腹部は……やはり、裂けている。素人目にも、致命傷だと察せられる深手だ。


 ……なのに、浜田は立っていた。いや、それどころか、気に留める様子も無く、ガードレールを跨いで渡ることさえした。


 拍子に傷口から鮮血だけでなく腸の一部が飛び出して……だけじゃない。電柱に叩き付けられたことで全身の骨が砕けているというのに、全く堪えた様子が見られない。



 ――こいつは、俺の知っている浜田では……人間じゃない!



 逃げようと……俺は思った。だが、動けなかった。足が、腕が、身体が、震えてしまって、強張ってしまって、まるで俺の言う事を聞いてくれない。


 壊れた玩具のような、不恰好な動き。でも、確実に距離を詰めてくる。致命傷を負ってもなお動き回る眼前の怪物が恐ろしくて、堪らなかった。



『――そうか、そうだったのか』



 そんな俺の中で、アンノウンの声が響いた。



『分かったぞ、竜司。どうして私があの男に興味を抱いたのか、その理由が分かった』


『最初は、二つの気配を持つ奇妙なやつだと思っていた。だが、時が経つに連れて、片方が薄れ、片方が大きく……そして今、二つが同じぐらいになった』


『腹部の傷が原因だ。そのショックで、消えかけていた片方が大きくなった……それによって、ようやく私は理解出来た』



 アンノウンが、何かを話している。それだけを辛うじて認識出来ていた俺の前で……変化が、現れる。


 めきり、と。全身に有った傷が、瞬時に塞がった。いや、傷口だけじゃない。


 折れ曲がった手足は弾けたゴムのようにピンとまっすぐに伸びたかと思えば、もう元に戻っていた。


 一拍遅れて、びりびりと……シャツが破ける。手で引き裂いたわけではない。


 はっきりと分かるぐらいに筋肉が膨張し、隆起し、体格が一回りも二回りも大きく……耐えきれず、シャツが破けたのだ。



『あの男は――私たちと同じだ。浜田と、私のような存在とが融合した姿……それが、アレなのだ』



 そう、アンノウンが呟いた……遅ればせながら、事態を理解した俺の前には、一ヵ月ほど前に俺が殺したはずの、あの大男が立っていた。


 既に、その身体に傷は一つもなくなっていた。俺がそうであるように、大男もまた人間のソレではないのだろう。


 いや……それどころか、フィジカルという面においては、大男の方がはるかに上だ。実際に襲われたからこそ分かる、絶対的な差。己も人間離れした腕力を有しているが、眼前の相手に比べれば、大人と子供ぐらいに離れている。


 しかも、回復力という点においても……おそらくは、圧倒的に相手が上だろう。短時間で修復を終えたというのに、そこに疲労の跡は見られない。仮に、己があれほどの傷を負えば……っ。



「……待テ、逃げナイで、くれ」

「――っ!?」



 逃げよう――ここに来てようやく動きかけた俺の身体は、大男の言葉によって動きを止めた。それは、俺が初めて耳にした……意思が伴った大男の言葉であった。



「おま…えは、鈴キ……だった、な……」

「――っ!? 分かるのか!?」

「何ト、なく……きお、きお、記憶……は、ヨイ方、だから……な」



 鈴キ……鈴木。それは、俺の名字である。


 同僚とはいえ、俺たちの間には仕事以外では全く接点がない。


 しかし、仕事の付き合いから名字ぐらいは覚えていた。浜田も、俺の名字ぐらいは覚えていたのだろう。



「お、俺ハ……テレビを見てイテ……」

「――っ! 俺は、パソコンのディスプレイからだ!」

「……おど、オドロいた……お前モ、似た、ヨウナ……ものか」



 元々喋るようには身体が出来ていないのか、それとも声を出す事すら億劫なのか。何度も声をつっかえながら、恐ろしげな顔が奇妙に歪む。


 ……おそらく、声が出すようには出来ていない……前者なのだろう。


 聞き取るには十分だが、発声が不安定だ。まるで、固まって強張ったゴムを必死に叩いて柔らかくしようとしているかのようだ。



 ……あ、お、あ、お、いうえ、おあ、あお、かきくけこ



 何度も何度も、大男……いや、『浜田』は声を出す。最初は不自然だった声色も、瞬く間に滑らかになってゆく。



「……お前はまだ、始まってはいないようだな」



 そうして気付けば、違和感が無いぐらいにまでなっていた。呆然とするしかない俺を他所に、俺の全身を舐めるように視線を上下した大男……いや、『浜田』は、ため息と共にそんなことを呟いた。



 ……何だって?



 今、この男は何を呟いたのか……聞き捨てならない言葉だ。「始まるって、それはどういうことだ?」思わず、俺は声を荒げて尋ね――そして。



「お前も、俺と同じになると言ったんだよ。今の俺みたいに、自我を失くした化け物に……手遅れになる前に、元の姿に戻れ」

「――えっ」

『――えっ』



 俺とアンノウンの動揺が、寸分もズレることなく一致した。



「俺はこの姿に、お前はその姿になった。ただ、それだけ……そんな美味い話には、裏が有ったってことだよ」



 理解が……追い付かない。『……え、え、え?』アンノウンのやつも、混乱している。混乱しているのが、伝わって来る。


 当然だ、俺だって頭が理解を拒もうとするのだ。何度も、何度も……目を瞬かせた俺は、頭に手を当てる。



 ――大男の正体が浜田透で、俺と似たような流れで不思議な身体と力を得て、でもそれは裏があって、暴れ回ったのは化け物になったからで……何だ、何だこれは、どういうことなんだ?



「……長く融合していると、倦怠感に似た、酷い身体の億劫さを覚えたことはあるだろう?」



 その言葉に、俺はハッと我に返った。顔を上げれば、相変わらず『浜田』は厳つい顔のままだった。



「お前がどれぐらいの間その姿になっているかは知らないが、既に何度も覚えたはずだ……違うか?」



 尋ねられた俺は、しばし思い返した後……首を縦に振った。


 確かに、倦怠感は有った。だが、それは最初の内だけだ。回を重ねる事に倦怠感は弱まり、4回目ぐらいにはもう、ソレはほとんど消えていた。


 アンノウン曰く、それは『無駄な緊張』という話だった。


 そんなものかと俺は納得していたし、むしろ、慣れたからなのだと俺は思っていた……が、違うのか?



「……なら、遅かった。もう、手遅れなのかもしれないな……お前を見ていると、そんな気がしてくるよ」



 ――手遅れ。



 その言葉が、背骨に食い込み。ふわふわと頼りない身体が大地に縛り付けられたかのような感覚を覚えた。嫌な……物凄く嫌な感覚だ。


 そんな俺を他所に、『浜田』はガードレールに腰を下ろす。途端、めきり、と凹む音がした。「……手遅れになると、どうなるんだ?」また、それが俺を我に返らせるキッカケとなった。



「まず、分離出来なくなる。というより、分離する方法を忘れてしまうらしい」

「忘れて……って」

「あくまで感覚的な話さ。俺も、俺の中にいるコイツから聞いた話だから……はあ、いちいち説明するのは面倒だし、俺も億劫だ。どうせ、お前も時期に分かるようになるだろう」



 そう言うと、『浜田』は深々とため息を吐いた。その勢いは凄まじく、足元の砂埃を舞い上げる程であった。



「ど……どうして、俺が手遅れだと思うんだ?」



 無駄な質問に答えるつもりはない。そう言わんばかりの態度に、俺は……強張った脳みそを外から叩いて、ようやくその質問を絞り出した。



「手遅れになると、元に戻る……分離しようという考えが頭から無くなるからさ。最初は、もう少し長くこのままでいよう……といったような、軽い考えから始まる。今になって分かるが、俺の場合はそうだった」



 ――俺の脳裏を過ったのは、旅行を始めてからの日々。今まで気付いていなかったが……同じだ。経緯は違うだろうが、『浜田』と同じ流れだ!



「気付いた時にはもう、遅いんだ。コイツ等が、戻る方法を、やり方を忘れてしまう。だから、戻れなくなる。ただ、それだけのことなんだよ」

「そ、れだけ……って」



 続けられた『浜田』の言葉に、俺は絶句した。「……あ、アンノウン……どうなんた?」辛うじて出せたその声は、自分のモノとは思えないぐらいに震えていた。



『……何でだ、竜司、どうしてだ、分からないんだ』

「アンノウン、俺はその言葉を聞きたくはない。そういう冗談は嫌いなんだ。お前は、もしかしてこうなると分かっていたうえで俺に……!」

『――ち、違う! 信じて欲しい、私はそんな考えは無かった! 待ってくれ、すぐに思い出す、すぐに理解するから、もう少しだけ』

「……戻れないのか? やり方を忘れてしまったのか?」

『――竜司、ああ、お願いだ、落ち着いてくれ。その刺激は嫌だ、その心は嫌だ、私を……拒絶しないでくれ』



 俺の中で、アンノウンの悲鳴が響く。抗議するかのように胸の内で熱が点滅したが、今の俺は、その悲鳴に耳を傾ける余裕はなかった。



 俺と、浜田が……俺が、こいつのように……なる?



 そう思うと同時に脳裏を過ったのは一ヵ月前の、あの日。有無を言わさず俺に襲い掛かって来た……あの時の光景であった。



 ……あの時の『浜田(大男)』は、明らかに正気ではなかった。



 何せ、今の少女の姿をした俺に対して、躊躇なく拳を振るったのだ。今のように会話が出来る状態ではなかったし、そもそも言葉すら忘れてしまっていたかのような有様だった。



 ……それが、俺になる?



 こいつみたいな大男になって、見境なく暴れ回るのか。こいつは俺を狙ったが、俺がこいつを狙う保証は「――あまり、お前の中にいるソイツを責めてやるな」……え?


 顔を上げた俺の目に映ったのは、遠い……ここではない、何処か遠くを見つめているかのような淡い眼差しだった。



 ……責めてやるなとは、いったい、どういう意味だ。



 思わず、俺は不安を紛らわせる意味で苛立ちを込めて『浜田』へと怒声をぶつけた。「……どういう意味も何も、言葉通りだよ」だが、『浜田』は俺の知るあの頃のように、どこか余裕を持った様子で、俺の怒りを受け流した。



「俺の中にいるコイツも、お前の中にいるだろうソイツも、根っこは同じさ。悪気なんて、これっぽっちも無かった。ただ、俺たちの為にしてくれたことが……知らず知らずのうちに裏目に出てしまっただけなんだ」



 思い返してみろ……そう『浜田』は呟くと、筋肉が隆起した己が胸元に手を宛がった。



「お前とソイツの付き合いがどれぐらいかは知らないが、少なくとも俺はコイツといられて楽しかった。身体が壊れるまで使い潰されるだけの未来しか見えない中で、俺は……何年かぶりに、心から楽しく笑えていた」

「…………」

「お前だって、そうだろう? ソイツと過ごした日々は、けして悪くはなかっただろう?」

「それは……」



 否定は、出来なかった。『浜田』の問い掛けは、事実であったからだ。



「まあ、すぐに納得しろと言われても無理だろう。俺も、最初は悩んだ……だが、受け入れられた」

「……どうやって?」

「それは、お前が納得出来るお前だけの答えを見付けろ……なあ、コイツ等は、何の目的があって、どうして俺たちのような人間の前に現れたと思う?」

「……知らん。『分からない』の一点張りだ。そもそも、何者なのかすら、俺は知らないんだ」

「――だろうな。俺の中にいるコイツも、知らないの一点張りだった」

「……だった? おい、まさか――分かったのか!?」



 思わず、声を荒げる俺を他所に、「いや、結局は分からん。だが、子供染みた推測なら出来たよ」あくまで『浜田』は平静であった。



「おそらく、コイツ等は人間に寄生する超常的な生命体なんだと思う。だが、コイツ等は他の寄生生物とは違って不幸な点が二つある」

「それは……寄生した相手に絆されて情を持ってしまうこと。そして、こいつらは共生ではなく、宿主の心を食らって成長する存在であるということだ」

「コイツ等は、本当に知らないんだと思う。どうしようもない段階になってから初めて、コイツ等は自分たちがどういう存在なのかを理解した……理解出来てしまうように、成長するんだ」



 そこまでつらつらと述べた辺りで……変化は、突然であった。



「お、おい……!」



 今度は、先ほどと逆だ。瞬く間に『浜田』の身体は小さく、盛り上がった筋肉も静まり……あっという間に、『浜田』は俺の知っている浜田になった……いや、戻った。


 多少なり雰囲気が異なっているが、以前、駅構内にて見掛けた時と……そう変わりない。しかし、一つ違う。決定的に以前と異なっているのは……その目の輝きだった。


 あの時は、明らかに正気を失っていた。だが、今は……あの時には無かった、知性の色がある。


 加えて、他にも……何だろうか。どういう類のモノかは分からないが、何かがある。大した人生を送ったわけではないが、それでも始めて見る類の色だと……率直に俺は思った。



「――最後に、誰かと話せて良かったよ」

「……え?」

「今更だけど、悪かった。薄らとだけど、覚えてはいるんだよ……お前を襲っている時の記憶がな……おいおい、何を呆けているんだ?」



 返事をするのが、少し遅れた。



「言っただろう、コイツ等は心を食らうって……今の俺は、皿から零れた食べカスみたいなもんだ。それも、すぐに消えちまう。俺が俺でいられるのも、あと僅かってことだ」



 それが、致命的な失敗であることに俺が気付いた時……全てが、遅かった。



「本当に、申し訳ないことをした……コイツも、不安だったんだ。俺が消えちまうと、コイツは一人ぼっちになっちまう。どうにかして、俺が消えちまうのを抑えようとしていただけなんだ……」


「お前を襲ったのも、たぶん……俺が消えない方法を知ろうとしたんだろう。ただ、あの姿になった俺はとにかく加減が利かない……個人的には物凄く気に入っているが……話し合うには……なあ……」


「ああ……頭の中がぼんやりしてきた……おいおい、泣くなよ……大丈夫だ……お前は独りじゃないさ、俺がいる……消えちまうけど、お前の中にいる……だから、泣くな……」


「いいんだよ……楽しかったぜ……まるでスーパーマンになった気分だった……ガキの頃の夢が……成りたかった自分に成れたんだ……嘘じゃない、本当さ……ああ、嬉しかったんだぜ……」



 俺に語りかけていた言葉が、何時しか自分へと……浜田の中にいるソイツに語りかけるモノに変わっている。


 変わっていることに俺が気付いた時にはもう……致命的な変化は終わっていた。



「……親父、母ちゃん……ごめんな」



 それが……浜田が零した最後の言葉であった。


 その呟きを最後に、フッと浜田の頬が緩み……後には、これまで幾度となく見て来た、締り無く呆けている……あの姿であった。






 ……あ。


 ……ああ、あああ。


 ……あああ、うあああああ!!!



 怖かった。とにかく、怖かった。だから、俺は逃げた。もはや言葉すら忘れてしまった浜田をその場に置いて、俺は逃げた。全力で、夜空へと飛んだ。






 ……。


 ……。


 …………何処を飛んで、何処のルートを通って来たのかは分からない。


 ただ、俺が我に返った時……泊まっている旅館の一室……真っ暗な『鈴の間』へと、俺は戻っていた。


 旅館とはいえ、時刻は既に深夜である。


 都会のホテルならフロント係は起きて受付をしているだろうが、ここでは違う。足元が見える程度に明かりは付けられているが、旅館の中は静まり返っていて、耳を澄ませても足音すら聞こえなかった。


 その中で、俺は……急いで、テレビの前に駆け寄る。ここに来てからは暇潰し程度にしか点けていなかったソレに……俺は、掌を押し当てた。




 ……。


 ……。


 …………一ヵ月前なら、それ以前なら、すぐにでも俺は元の姿に戻れた。


 胸から肩へ、肩から腕へ、腕から掌、掌からディスプレイの先へと熱が……なのに、それなのに。



「アンノウン……」

『違う――待ってくれ、もう少しだけ、もう少しだけ――』



 俺の中で、アンノウンの悲哀に満ちた声が響く。


 これが演技なら、大そうな役者としてやっていけそうだが……そうでないということは、誰よりも俺は理解していた。



『どうしてだ――どうして、何故、なんで――』

「……いいんだ、もう」



 だから俺は……そっと、テレビ画面から手を外した。『――竜司!』途端、アンノウンはもう一度と訴えて来たが……構わず、俺は……その場に座り込んだ。



 座り込む事しか、今の俺には出来なかった。


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刹那の境・那由多の境・彼方の女神 葛城2号 @KATSURAGI2GOU

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