ミキオの憂鬱
……コンビニの中でおれたちは昼を過ごしていた。
シンイチは床にすわりこんでマンガ雑誌を読み、ジロウはサッカーボールを客や店員に蹴り当て、おれはパンやおにぎり、弁当などをありったけ腹につめこむことに熱心だった。サチはユキを連れて公園に、カナエは図書館に行っている。
カツ重、そぼろ弁当、野菜サラダ、バターロール、シーチキンマヨネーズおにぎり、高菜おにぎり、チョコレートアイス、プリン、焼きそばパン、と手当たりしだいに食べすすめながら、もう飽きがきていた。
もぐもぐかんで味わってはいるが、どれだけ食べても満腹することはない。喉を下っていくうちに消えていくような感触。
腹が減るということはないのでたまにしか食事はしないのだけれど、あらためて変な感じがする。
次のサンドイッチの袋をやぶりながら、これでやめにしとこう、と思った。床や棚にちらかっている空の容器や食べかすをながめる。けっこう食べたもんだ。
店員の肩に跳ね返ったジロウのボールがレジの奥にならべられたタバコに当たり、ばらばらと床に落ちた。
いらっしゃいませぇ、と店員が入ってきた客に声を上げた。
喉も渇かなかったが、なんとなく飲み物を取りにいき、ついでにシンイチの方に歩いていくと、さっきまですわっていたのにいまは仰向けに寝ころがってマンガを読んでいた。
シンイチはメガネをかけているけど、こういう読み方をしていて視力を悪くしたのだろうか。関係ないか。
シンイチの横に立ち読みしている客がふたりいた。
「そんなとこで寝てたら踏まれるぞ」
サンドイッチを食べおわり、ペットボトルのお茶を飲みながらおれは注意した。
シンイチはむくっと上体を起こしてこっちを見て、
「ちゃんと計算してるから大丈夫」
といって、メガネをさわってまた寝ころがった。
なにを計算してるんだか全然わからない。
メガネというのは知的なイメージもあるけれど、シンイチの場合は子供っぽい口振りをなおさら幼く見せているような気がする。
「あれ、ミキオ、食うのやめたの?」
監視カメラを狙ってボールを蹴っていたジロウがいった。
「飽きた」
「なんだそれ」
ジロウは呆れたように笑った。
ジロウは軽々しく笑いすぎる、とサチがいったことが思い浮かんだ。いわくスカスカした笑い。サチが車にはねられたときにジロウがけたたましく笑っていたのを根に持っているのかもしれない。
ジロウはボールをこっちに軽く蹴った。おれも軽く蹴り返した。
ペットボトルをレジの向こうに放り投げて、ボールを蹴り合いながら店内を歩きまわった。
「腹が減らなくても食わなきゃだめだ、っていってたのはおまえだろ」
「そうだけど……。食べても飲んでも甲斐はないしな。それに、これは暇つぶしだよ。棚にいっぱいならんでいるから、全部食べつくしたらどうだろう、って思いついただけで」
「どうだろう、じゃねーよ。じゃあ最後までやれよ」
「飽きたから今日はパス。だらけてきたらやめるから思いつき」
「いいかげんだなー」
「──いてっ!」
シンイチの悲鳴が聞こえた。
ボールをほったらかしてそちらに歩いていくと、シンイチは何事もなかったように立ってマンガを読んでいた。
「踏まれたな」
とおれはいい、
「隙だらけなんだよ、おまえ」
とジロウが笑った。
「このマンガ、おもしろいよ」
とおれたちの言葉をシンイチは無視した。
三人でページをのぞきこみ、しばらく一緒に読んだ。ページのほとんどが殴り合う男の絵で埋めつくされているマンガだった。確かに、おもしろかった。
「おおー」とか「すげー」とかシンイチと一緒に騒いでるうちに、ジロウは離れてレジに向かって歩いていった。
女の客の会計をしていた。
ジロウは小銭をのせた手をはたいた。百円玉や十円玉がちゃりんちゃりーん、と音をたてて床に散らばった。
客はコンビニを出て行き、ありがとうございましたぁ、と店員がいった。
ジロウは次の客にも同じことをした。ちゃりんちゃりーん。
おれもジロウのそばにいって真似をした。
二人でレジの前に待ちぶせて、小銭を出した手をはたく。お札はぴりぴりやぶって、紙吹雪にして投げた。何人も何人もお金の受け渡しの邪魔をしていると、シンイチもマンガを読むのをやめて遊びに参加した。
シンイチは中年の男が片手に持っていた財布をもぎとって、中の小銭を全部床にばらまいた。
ジロウも他の客の財布をうばって、上に放り投げるようにして中身をばらまいた。
おれは店員が開けたレジから硬貨を両手いっぱいにひっつかんで、下に投げつけた。
──ちゃりんちゃりーん、ちゃりーん──
そんなことを続けて、コンビニのレジ前の通路は硬貨でいっぱいになった。歩くとじゃりじゃりと音がする。
客はかまわず歩いていた。
ジロウはボールのかわりに今度は硬貨を蹴飛ばして遊んでいた。
「星みたいだ」
シンイチがぽつりといった。
シンイチはなんだか一歩ずれた物言いをすることがあって、このときもぴんと来なかったし、白い床に散らばった五百円玉や百円玉はキラキラしているとはいっても、星というのは大げさな気がした。
まあ、みんなずれているし、相当に変なことはカナエなんかもいうけれど。
そんなことをシンイチがいうのは、ゆっくり星空を眺められないという意識からかな、とか勝手に想像する。
眺めるだけならいつでもできるが、ゆっくりというのはあやしい。安心しきった夜というのはおれたちには来ない。
別にもともと星が好きだったわけでもない──たぶん、そうだったはずだ──けど、いまになると、原っぱかどこだかに寝ころがって、星を眺めるというのには憧れるものがある。
「そろそろ出ようぜ」
ジロウが硬貨をけちらしながらいった。
ばらまかれた硬貨も、夜をまたげばもとに戻っているだろう。
三人でコンビニを出た。
ありがとうございました、なんて店員の声はもちろんなかった。
「ボール置いてきたの?」
シンイチが訊いた。
「欲しくなったらまた買いにいけばいいしな」
「取ってくるだけだろ」
とおれは訂正した。
「どうする? またゲームでもしに行く?」
シンイチがもう一度訊いた。
「今日はやめとこうぜ」
とジロウがいった。
「じゃあもう公園に行こうか」
とおれは提案してみた。
日が暮れるまでにはまだ時間があったが、サチとユキはいるはずだ。
「そうだね」
「ま、それでいいか」
シンイチとジロウも同意したので、おれたちは公園に向かって歩きだした。
公園につくとサチとユキは砂場で城を作っていた。水を入れたバケツが置いてある。
それなりに広い公園だったが人気はあまりなかった。おれたちの他に眼についたのは、ベンチで寝ている男と、犬を連れた老人くらいだった。
ユキはこちらに気づくと嬉しそうに笑い、大きく手を振ってきた。
「ミキオ! ジロウ! シンイチ!」
おれたち三人が近づくとユキは急に一人一人に指をさして、確認するように声をはりあげた。
「サチ!」
と、いままで一緒だったサチにも指をさす。そこでまたこっちに、くるっ、とふり返り、
「カナちゃんは?」
と訊いた。
「カナエは図書館だよ」
「じゃあみんなで図書館にむかえにいく?」
「ここで待ってればどうせ来るよ」
「三人もけっこう早めに来たね」
とサチが微笑んだ。
「遅くなるまでほっつき歩いてるかと思ったけど」
「なんとなく暇になったから」
「暇しかないじゃん」
シンイチがいった。
そりゃそうだ、と笑った。ユキもつられたように笑う。
ユキは他の五人より小さい。三つか四つは年が下だと思う。なにごとにもすぐにころころ笑いこけて、それでもうるさい感じはない。よく笑いはしてもスカスカした笑いではないということだろうか。ジロウの笑いもおれは特にうるさくは感じないけれど。
あとから仲間入りしたとはいっても、ユキももうすっかりなじんでいた。
サチはユキをのぞいた五人の中では小柄な方だ。すすんでユキの世話をやいて、付きそっていることが多い。でも別に大人びてはいなくて、けっこう間が抜けたところもあったりする。
おれとシンイチも砂場で新しく城を作り始めた。誰かが遊んでいるととりあえず参加するのが習性みたいになっているのかもしれない。
ジロウがすべり台の方に行くとサチが、
「ジロウはやらないの?」
と訊いた。ジロウは滑り台をかけのぼり、
「やらん!」
と何故か誇らしげに上からいって、また笑った。
「あんたって、協調性ないわねー、ホント」
「いいじゃねーかよ、そーいうやつがいた方がおもしろくて」
「自分でいうか」
ジロウは落ち着きなくすべり台の階段をおりて、今度はブランコの方に行き、飛びのってこぎ始めた。
協調性という点では六人ともあまりない気がするのだが、その中でも特にジロウとカナエは欠けている。ジロウは一人で離れていくことが多いし、カナエはまわりにかまわず本を読んでいたりする。
そんなことを考えているとカナエが文庫本を片手にぶらぶら歩いてくるのが目に入った。
「カナエ!」
とユキが指をさして大声でいった。
それにおどろくこともなくカナエは、
「うん」
なんて淡々とうなずいた。
カナエは綺麗な顔立ちをしている。眼が大きく、すらっとした黒髪とあいまって、黙っていると人形のように見えるときがある。サチと比べて表情を崩すことが少ないからそう思うのかもしれない。
「もうみんなそろってるんだ」
とカナエが見まわしながらいった。
「最後か、私」
「そうね。日が暮れるまででいいんだけど、けっこう早めに集まったね」
「いいことかな。やっぱり六人でいた方が安心するし」
「意外なこというな」
と砂で城を作りながらおれはいった。
「カナエがいちばん単独行動多い気がするけど」
「そうかな。話せる人はもういないんだから、一緒がやっぱり落ちつくよ」
「落ちついてないときをあんまり見かけないな」
「そう、そう。見習いたいわ、その冷静な感じ」
「サチは無理じゃない?」
シンイチが茶々を入れた。
「私、別に冷静でもないけど」
カナエは不思議そうにいった。
「えー、そう? でも、理屈をいってるときは確かに……」
「カナエ!」
ユキが脈絡なく、また指さしていった。
「うん」
さっきと身ぶりも表情も同じ返事をもらうとユキは嬉しそうに笑った。
話せる人はもういない。
ユキとカナエを、それを優しそうに見守っているサチを、砂を集めているシンイチを、向こうでブランコをこいでいるジロウを眺めながら、おれたち六人はまだ人といえるのかな、とかぼんやり考えていた。
おれたちは幽霊だ。そういうことになるんだろう、多分。
なにしろ自分の親や友だち、住んでいた家、その他大切な事実のもろもろはまったく思い出せないのに、どうやって死んだのかだけは記憶にあるからだ。
たとえばおれは水の中で力が抜けていった感覚を憶えている。シンイチは電車に轢かれたらしい。ジロウは高いところからの転落死。サチはいいたがらないが、やっぱり憶えているらしい。カナエは病死だとかで、ベッドの上で死んだそうだ。ユキは訊かなくてもみんな知っていて、火事で死んだ。
こうしてならべてみるとバラエティ豊かといえるかもしれない。
あるとき、気づいたらひとりで街をふらふら歩いていて、溺れたこと以外はなにも思い出せず、まわりの誰にもおれが見えていないことに気づいた。
声をかけても、触っても、まったく反応がない。でも、自分の体が透けてしまって物に触れない、というようなことはなかった。
これが不思議で、じゃあおれが物を持ち上げたりしてるとき人にはどう見えてるんだ? 気味悪がったりしないのか? と疑問だった。
カナエの本当だかわからない仮説によれば、おれたちが見たり触ったりしているのは魂だとか霊体だとか、どう呼んだら正確かわからないけどそういうのだけで、現実に存在している実体には干渉できないとか。
たとえばおれがコップを持ち上げても、実体としてのコップは動いてないらしい。それをおれたちは知覚できないというだけで。
物にも魂ってあるのだろうか。というか霊体ってそんなにたやすく実体からはなれていいのだろうか。
おれたちが通行人をひっぱって足止めしていたとしたら、その人は霊体だけあとに残してずんずん先へ行ってしまうことになる。テレビをつけたりもできるけど、そのときは電気だとか電波だとかの魂が飛びかってるのだろうか。
その仮説があっているのかどうかはどうでもいいのかもしれない。おれたちが干渉した霊体も、どうせ一晩たてば戻るべきところに戻るようだし。
要は、おれたちの現実と他の生きている人たちの現実は、ずれているということだ。
物にさわれるのはいいけど、そうなると壁をすり抜けたりといったいかにもユーレイな行動はできなかった。空を飛んだりもできない。足はあるし、ちゃんと地面を踏んでいる。それが残念といえば残念だった。
けれどそういうことを気にしたのは後になってのことで、そのときはただどうしていいかわからず、ふらふら歩いていた。
そうするとおれと同じ状態のやつと出くわした。つまりそいつも幽霊で、やっぱりいつのまにか街を歩いていたらしい。
相手も同い年くらいだった。自分の年も思い出せないことのひとつだけど、体つきなんかから十代前半、とか見当をつけている。
そいつと歩いていたらまた同い年くらいの幽霊を見つけた。そうこうしているうちに六人にまで集まった。そのころはユキはいなくて、功志がいた。
他には幽霊を見たことがない。
最初の一日で六人になり、その後は何日経ってもどこに行っても見かけない。功志がいなくなったあとにようやくユキを見つけた。
とにかくそれ以来おれたちは街をうろついていて、他の幽霊とか、ひょっとしたら見覚えのあるかもしれない人物を捜したりしている。でもたいていは遊びで時間をつぶしているだけだ。
もっともそれは日のあるうちのことで、夜になると事情は少し違った。
公園に集まったおれたちは気の向くままに遊んだ。
サチとユキを砂場に残しておれとシンイチはブランコの方に行って、ジロウと三人で靴をどこまで飛ばせるか競いあった。
ブランコをこいだ勢いを利用して靴を飛ばし、片足でぴょんぴょん跳ねながら靴を取りに行ってまた戻る。
ジロウは靴を両足とも飛ばして、土がつくのもかまわずに取りに行った。一番遠くまで飛ばしたのはシンイチだった。
ユキとサチがこちらに来た。
ブランコが四つしかなかったのでジロウがかわってやり、横にしゃがんで石で地面になにか描きだした。
ユキはあまり上手く飛ばせなかったが楽しそうにはしゃいでいた。
カナエはこちらをたまに見ながらベンチにすわって本を読んでいた。
おれが立ちこぎのブランコの勢いに乗ったまま飛び降りると、サチも同じように飛び降りた。ユキも真似しようとしたが、危なっかしかったのでやめさせた。
シンイチは植え込みにいる虫を眺めだした。
それからみんなで鬼ごっこをすることになった。ユキが手をひっぱってカナエも参加させた。
ジャンケンで決めた最初の鬼がカナエだったが、シンイチが転んですぐにタッチされて交代した。ユキにはみんなほどほどに手加減した。
公園中を六人で走りまわり、危険のない追いかけっこにはしゃぎまわった。
ジロウがときどき「ボールも持ってきたほうがよかったな」といったり、シンイチが「ゲーム少しやりたかった」ともらしたりしたが、不満そうではなく、引っぱりこまれたカナエもそうだった。
時間はすぐには流れていかなかった。
六人で遊んでいると、それは果てしなく続きそうだった。どうでもいいようなことの一つ一つが時間がすぎていくのを遠ざけているような気がした。それでも長いあいだ遊んで、しゃべり、ふざけあっていると、いつしか日は暮れていった。
夕日が沈みきる前におれたち六人は一ヶ所にあつまって、みんなで立ったまま話をした。サチはユキの肩に手をかけ、カナエは手に持った本をぱらぱらめくったりしていた。
闇がゆっくりと広がっていって夜がやってきた。おれたちは待った。
やがてそれが来た。
おれたちから離れた空間が──十五メートルくらいだろうか──ちかちかと発光しはじめた。距離が近い日は移動して避けるけれど、今日はその必要はないようだ。
ホタルが飛びかうようにエメラルド色の光が宙を舞い、少しのあいだイルミネーションのようにきらめく。光の数はどんどん増していき、数匹のホタルから数百匹のホタルにふくれあがっていった。
光はすごい勢いで渦を巻きながら下から上に動きまわったあと収束しはじめ、つま先、ひざ、腰、胸、肩、腕、といった順になめらかに大柄な人型を形づくっていった。
それは中世の騎士みたいな、甲冑をまとっているような外見の硬そうな実体となった。いや、霊体か。こいつも人には見えないのだから。
甲冑の隙間からは、なにかヌメヌメとした質感の身体が見えた。それも緑色だ。
片手には五十センチ定規くらいの長さの、刀のようなものを握っている。
最後に光は頭の位置に集まり、人間の頭としては考えられないものを構成していった。
胴体に直接くいこんでいるそれは、無骨な歯車だ。
下の方の部分は鎖骨のあたりに埋まっており、ぎざぎざの歯を前後に向けて、真正面からだと首くらいの幅のある細長いものが頭の代わりに突き刺さっているようにも見える。
ぎ……ぎ……ぎ……
歯車がゆっくりと回転を始めた。その回転が身体の内部にどう連動しているのかはわからない。
発光が始まってから歯車がまわり出すまでで十秒ちょっとくらいだろうか。
夜になると現れるそれのことを「あれ」「追手」「グリーン」などといい加減な呼び方で話すことがあったが、みんなで一応決めた名前は〈歯車〉という特徴そのままの呼び名だ。
それが夜を追い立てるせいで、おれは緑色が嫌いになった。
実体化が完全に終わった〈歯車〉は、土を踏みしめ、こちらに向かって歩きはじめた。
誰にも存在を認められなくなったおれたちを、それは認識している。
おれたちも歩きだし、この不吉な緑色の化け物に追いつかれないように十分な距離をとる。
不吉な──そう、それは見ているだけで不吉さを感じるのだ。
初めて見たときからそれは近づいてはいけないものだとわかった。
毎夜見るたびに、胸に分銅を埋めこまれたような、わけもなく苦しくなるような気持ちに身体が満たされて、思いだしてしまう。
ユキ以外のみんなに焼きつけられた光景。
〈歯車〉に向かっていった功志が消滅した光景。
功志は、どうなってしまったのか。
死んだのか。死んだ人間があらためて死ぬということはあるのだろうか。
「なあ、功志ってどうなったんだろうな」
公園を出てからしばらく話しながら歩いて、おれは誰にともなくいった。
みんなの表情がこわばった。功志が消えてから一ヶ月くらい経つが、そのことについてはいまだにちゃんと話してない気がする。
なぜだかそれはタブーのようになっていた。功志が消えたことのショックもあるだろうが、消える前の功志の行動も、そうさせる一因なのかもしれない。
功志を直接には知らないユキはこちらを見上げただけだった。それから前を向いたり後ろをふり返ったり、鼻歌を歌ったりしている。
日があるうちは功志のことなんて忘れているときさえあるのに、夜になると、否応なく頭に浮かんだ。
「どうって……見たじゃない。あれに殺されたのよ」
サチが後ろを指さしながらいった。
いまはしんがりのジロウが〈歯車〉を見張りながら歩いている。
「殺されたかどうかなんてわからないと思わないか。もともと死んでるんだぜ、おれたち」
「でも……」
「違うっていうの? ミキオは」
シンイチが訊いた。
「いや……だけどさ、おれたちが生きてるときに知っていた人たちは、おれたちのことを死んだと考えているだろう。でもおれたちはここにいる。生きてるといえるのかはわからないけど、ともかく存在はしている。だから、もしかしたらって思うんだよ」
車がいないのを確認して急いで交差点を渡った。
おれたちは通行する車には人一倍注意しないといけない。相手はこちらが見えていないのでおかまいなしに走ってくる。
「私たちは功志くんが消えてしまったものと思っているけれど、そうではなくどこかでまだ功志くんは存在しているってこと? 私たちには見えなくなっただけで」
カナエは疑るようにいった。
「……そうなの?」
とサチが訊いてきたので、
「もしかしたらだよ」
とおれは答えた。
「おれたちが幽霊なら、いつまでも街をさまよってるんじゃなくて、いくべきところがあるんじゃないか? ここじゃなくて……よくわからないけど、あの世とかさ。功志はそこに行ったのかもしれない。なあ、おれたちは怪我をしないだろ?」
正確には怪我をしないわけではない。殴られれば痛いし、刃物が刺されば血が出てくる。
けれどそれはすぐに治った。
サチが自動車にはねられても、シンイチが屋上から落ちても、大丈夫だった。
そのことは、腹も減らなくなったし、トイレに行く必要もなくなったし、髪も爪も伸びなくなったということとも関係があるのかもしれない。
おれたちの身体はあたりまえの変化を失っていた。
「普通のことではおれたちは応えない。でも〈歯車〉だけは例外みたいだ。そして毎晩おれたちを追ってくる。考えたことないか? あれはおれたちをいるべき場所に案内するための使いなのかもしれない、とか」
「ないよ」
きっぱりとカナエが否定した。
「あれが私たちをどこかに連れていくとは思えない。あんな不吉な存在が」
「死神ってのはもともと不吉なものじゃないのか」
「死神? そんな夢のある代物には思えないけど。掃除機といった方が近い気がする。功志くんの最後、私にはあれが成仏だとか昇天だとか、そんなものには見えなかった。
彼は、完全に消滅してしまったんだと思う。ミキオくんも本当はそう思ってるんじゃない? 信じてもないのにそういうこというの、やめた方がいいよ」
そういってカナエはまた読むでもなくぱらぱらと文庫本をめくった。
とりつくしまもない。
真っ向から否定されたのに腹が立たないのは、やっぱりおれが心底その考えを信じきっているわけではない証しだろうか。
〈歯車〉やいくべきところだとかの話についてはそうかもしれない。でも、功志がまだ存在しているのかもしれないという考えは本気でないともいえない。
カナエは口調も表情も淡々としている。だからただの勘違いかもしれないけど、なんとなく、いまのは気遣いのように聞こえた。最近のおれが、そのことに強く興味を抱いているのを、カナエは心配してくれているのかもしれなかった。
「……何だろうとさ。そういうのはわかることはないんじゃない? いままでだって、アレがなんなのか話しあったけど、結局はっきりとはわからないし。ミキオもカナエもあれがなんなのか気にしてるけど……。もっと気楽になれば? 捕まったらいけない、ってことだけで十分だとあたしは思うな」
サチがなだめるようにいった。
「──そうね」
「…………」
「サチのいうとおりだよ」
シンイチがいった。
「あんまり考えこまなくてもいいよ、特にミキオは。顔がじめじめしだすから」
「おまえさ、でもこのままってのも──」
「おい、来るぞ」
しんがりのジロウが警告した。
後ろをふり返ると、離れて歩いていた〈歯車〉がぴたりと立ち止まっていた。
街灯に照らされたまま異様な静けさをたたえており、ぎ……ぎ……ぎ……という頭部の歯車の回転音だけがかすかに聞こえてきた。
この静止は前ぶれだ。
おれたちは話をやめて、それぞれいつでも動けるように心構えをし、静止した〈歯車〉の方をうかがった。
サチがユキに「いいね?」といい、ユキは「うん」とうなずいた。
〈歯車〉が走りだした。
でかい身体をゆらして、きし、きし、きし、きし、と甲冑の音を立てながら追ってくる。
もちろんおれたちも走りだしている。
後ろをふり返って〈歯車〉との間を確認しながらだ。
走るといっても〈歯車〉の速度は大したものではない。手加減してかけていても追いつかれないほどだ。
その遅さもまた不気味だったが。
心配なのは転ぶことだが、たとえ転んだとしても怪我は治るし、すぐに起きあがって走れば追いつかれはしないだろう。
それでもサチはユキを後ろから見守りながら走っていないと安心できないようだった。
大通りから外れて路地裏を行き、川沿いに出たあと住宅街に入り、人気のない道を進んだ。
別に目的地はない。〈歯車〉は夜が明けるまで追ってくるから、それまで逃げ続けるだけだ。逃走ルートも場当たりで、深く考えずに道を選ぶ。同じ場所をぐるぐるまわるだけでもいいのだが、そうすることはあまりなかった。味気ないからだろうか。
これは毎晩の日課だ。おれたちが幽霊として迎えた初めての夜から続いている。
以前は「追いつかれるとまずい」という直感だけで逃げていたが、いまでは功志の前例がある。
おれたちは眠らなかった。夜は逃げる時間だ。
汗もかかないし、疲れることもない身体だから、いくら走りつづけてもそれは苦にはならない。
ただ眠りは懐かしいものだった。
一日が区切られる感覚というのはもう味わえないものだ。みんなと会った日からいまにいたるまで、それはすべてひと続きのもので途切れることがない。
今日の夜は昨日の夜の続き、昨日の夜は一昨日の夜の……そんなふうにも感じた。夜がひとつながりになっているような。
夜にいると、昼間が幻みたいに思えた。
だからだろうか。一ヶ月たっても、功志がいなくなった夜がついさっきのことのように思えるときがあった。頭にその光景がちらついてしまうのだ。
おれは多分、蝕まれているのだろう。
生きていたころの記憶はろくにないのに、その生活といまの生活のずれに居心地の悪さを感じているのか──。けれど、その感覚にもとっくに慣れてしまっている。それがよけいに末期的にも思えた。
みんなはどうなのだろう。
みんなと一緒にいるのは楽しい。それでも時折、自分もふくめたそれをどこか遠くから、興味のない風景のように眺めている気持ちになる。平板な壁でも見るような眼で。
自分のしていることも他人のしていることも全部なにかのふりであるような気がする。幽霊としてはそんなのはふさわしい心地かもしれない。
みんなもそんな気持ちを抱くことはあるのだろうか。
「あっ、止まったよ!」
ユキの声が後ろから聞こえた。
〈歯車〉が走るのをやめたのだろう。〈歯車〉は夜明け前まで走りつづけるときもあれば、走る、歩く、を何分かごとに切りかえるときもあるし、ずっと歩いてるときもある。ペースは変則的だった。
他のみんなも後ろを見て、走るのをやめたようだ。そういう気配が背中に伝わってくる。
「――ミキオ!」
いま叫んだのは誰だったろう。
どうでもいい気がした。
おれは走ったままだった。それまでののろのろした走りから、全力疾走に近いところまでスピードを上げていた。
カーブミラーの立っている角を曲がる。他の五人からも、その後ろの〈歯車〉からもどんどん離れていった。
そういえばひとりになるのは久しぶりかもしれない。ここ数日はそんな機会はなかった気がする。
走りながら空を見てみたが、星は出ていなかった。
下に眼をもどすと、前方の暗がりの、規則正しくならんだ街灯のあいまに人影が見えた。開いたケータイ電話をあつかいながら歩いている若い男だ。
不健康そうなやせた顔が画面の光に照らされていた。光に緑色が加わる。
その男のすぐ近くで発光がはじまっていた。
公園で見たのとは比べものにならない迅速さで、三秒とかけずに〈歯車〉が実体化した。
後ろにいたやつが現れたわけではない。あいつはみんなの後ろをまだ歩いているだろう。こいつは新手だ。
それが理由だ、ある程度の距離を保ちながら逃げるのは。
あまり引きはなすと〈歯車〉は増えるのだ。
新たに現れたそいつはまだ動く気配を見せない。おれは半円を描くように迂回して、男がケータイをポケットにしまうのを横目にしながら走り抜けた。
夜道を走りつづける。ほどなくして、きし、きし、きし、きし、という音が後ろから聞こえはじめた。
追ってきている。そしてそのスピードは最初のやつよりも心持ち速くなっている。
それでもまだ大丈夫だ。まだ、大した速さじゃない。
複数になってもチームプレイという発想はないみたいだった。後ろの五人を挟み撃ちにしたりせず、前にいるおれの道順をなぞってきまじめに追ってくる。
増えること自体はどうでもいいといっていいかもしれない。問題は、どこまでいっても新手が現れ、後に出てきたやつほど速度が増していることの方だ。
小ぎれいな家の立ちならぶ通りをおれは速さをゆるめず走った。すぐに、追ってくる相手の足音は遠くなっていった。
また誰もいなくなった。静かな夜だった。
いま何時だろう。まわりは寝しずまったようにひっそりとしているが、もうそんなに遅い時間なのだろうか。
夜の住宅街は無機質な光景だけど、でもその冷たさには親しみも持てた。生きてる人間を眺めているときと似たような感情だった。
右先の家の門前で緑色の光が勢いよく螺旋を描いた。新手だ。これで三体目。
おれは面倒くさくなって、実体化した三体目のすぐそばに進路をとった。
どうせ、少しのあいだは動きださずに棒立ちになっている。ならいちいち迂回する必要はないわけだ。
すぐそば。触れそうなほど近くを通って。
途端に頭を錐で刺されたような痛みが走った。錐は何本も突き刺さる。脳ミソが外にはみ出ているんじゃないかと涙目になり、全身の血が激しくかきまわされた。血管が内側からすりへらされていき、胃が綿をつめこまれたように重くなった。吐き気。猛烈な吐き気。
──〈歯車〉の近くを通りすぎた。痛みはなくなり、吐き気は止んだ。
走りつづける。
一瞬とはいえ、死んだときよりも胸くそ悪いかもしれない気分を味わったのに、もう平気になっていた。
いまのはさすがに近づきすぎだったみたいだ。芯から揺さぶられるような気持ち悪さは前にも味わったことがあるのに、用心を忘れていた。二度とごめんだと思ったはずなのに。
でもあれはこの身体が味わう数少ない人間らしい感覚じゃないのか? 血も汗も小便も流さないがらんどうみたいなこの身体にとっては。
……おれはなにをしているんだろう。
──きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし──
〈歯車〉も六体目になると遅いとはいいきれなくなっていた。小走りでも余裕がある、なんてレベルではない。
なかなか音は遠くならなかった。
今日は新手も走ってばかりだ。最高で何体目までいったんだったかな。最後に試みたのはいつだったろう。いつか、なんて意味ないかな。そのときはまだ功志がいた。なんであいつのことばかり考えているんだっけ。大体そんなに仲よかったのかな? あんな、おかしくなってしまったやつなんかと。消滅はくっきりと思い出せるのに、それ以前のことは──忘れたわけじゃないのに、もうそれはひどく遠い気がする。
あわてて足を速めた。
後ろをふり返ると目と鼻の先に緑色の図体と刀が迫っていた。歯車のきしる音を間近に感じた。
速さが油断ならなくなってきているのにぼんやりするなんて、正気ではないかもしれない。
「──ぶっ、ふふっ」
唐突に吹きだしてしまった。
「ふっ……くくっ……くっ……」
にやにやと笑いながら走っていた。こらえようとしても笑いがこみ上げてくる。ランナーズハイというやつだろうか。そんなのはこの身体にはないだろう。だからこれもふりだ。おかしくなったふり。
また遠くから眺めてる。
自分がなにをしたいのかわかってきていた。
おれは〈歯車〉に追いつかれたがっているみたいだ。
「ははっ、はっ──」
笑いは止まらなかった。大きな笑いになるでもなく、おさまるわけでもなく、力のない一定の調子のままで笑いつづけていた。
幽霊の自殺願望っていうのも、変な話かな。
でも自殺ではないのかもしれない。〈歯車〉に消滅させられたあと、どうなるのかは、誰にもわからない。
なんせ一度幽霊になったんだから、なにかがその先にあると考えるのは生きてたときより不自然じゃない。
もしかしたら川や花畑の広がる天国(なぜかこういう退屈そうなイメージしか浮かばない)に、もう思い悩むこともなくなった人たちと混じって、功志も敵意を抜き取られたみたいにほほえんでいるのかもしれない。
あるいはそんな所にいくこともなく、生まれ変わるのかもしれない。この世にあらためて生まれなおして、今度こそ早死にしないような人生(次は人じゃなくて、鳥とか魚とか虫とか、あるいは物かもしれない。それはそれでおもしろそうだけど)を目指して出発するのかもしれない。
それとも違う場所でまた幽霊としてやりなおすのかもしれない。生きるのは一度きりで、あとは何回死んでも同じ。功志はこの世界のどこかをまださまよっていて(もっと幽霊らしく、宙に浮かんだり、人にとりついたりなんかして)おれたちとは会えなくなってもそこでは別の仲間がいたりするのかもしれない。
それともカナエがいうように本当になにもないんだろうか?
なにもない世界と生きた世界のあいだの薄い膜の中に、かろうじて残っているだけなのがいまのおれたちなんだろうか。
そうかもしれない。どうなるのかは想像することしかできない。確かめようがない。
走るのをやめればそれがわかる。功志が、どうなってしまったのかも。
そんなことを考えていると、小石かなにかに足がひっかかって派手にすっ転んだ。顔面をしたたかに地面にぶつけ、ずずずっ、とすれてから止まった。
頬に砂利の感触があった。
わかるっていうのも、変か。なにもないなら、わかるってことも、ないんだから。
……どうでもいい。
頭が冷えきって、よじれた変な体勢で倒れたまま起きあがらなかった。
投げやりな態度で、眼をつぶり、じっと待った。
眠りたい。横になり、眼をつぶっても眠気は来ない。たぶん永遠に待っても来ない。それがいちばん辛い。いままで何度眠ろうとしただろう。
さわさわさわと木のゆれる音が鳴っていた。風がひゅうう、ひゅうう、と吹いている。それだけの物音しか耳にしなかった。
あの音もとっくに聞こえなくなってることにやっと気がついた。
眼を開けた。仰向きになり、空を見るとほのかに明るくなっていた。
日が出てきたようだった。朝だ。逃げる時間は終わったのだ。
「…………」
惜しいところだった。あとちょっと、もう少しで、追いつかれることができたのに。
いや、それも嘘だ。
そろそろ日が出るとわかっていて、だから大丈夫だと踏んであんなふうに待っていられたんだ。まだためらってる。待っているふりだ。
けれどチャンスは毎晩ある。
こうやって、覚悟もないのにすれすれまで危ないところに踏みこむことをくりかえしていれば、いつか、ちょっとしたはずみやなにかの拍子に、追いつかれることがあるかもしれない。
そういう曖昧な形の、弱々しい夢でしかないようだった、この願望は。
少しずつ明るくなっていく空に浮かんだ雲や飛んでいく鳥をしばらく眺めた後、ようやく立ち上がった。
そこは草木の茂る山へと続く砂利だらけのなだらかな坂道で、まわりの景色も荒涼としていた。いつのまにかこんなところまで来ていた。
山道の方に眼を向けた。辺りはもう夜明けの仄青い光に満たされていくのに、木立におおわれたそこだけはまだ暗く、夜の領域にとどまっているように見えた。
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