カナエの物思い

 カナエの生前の名前は楠守景子くすもりけいこといった。彼女は記憶を失ってはいなかった。

 それは彼女の死に方が他とは一風変わったものだったからかもしれない。それは奇妙な過失死といえた。

 彼女は七歳のとき、就寝時にできるあるひとり遊びを発見して、以来何年も気の向いた夜はそれにふけるようになった。

 寝床に横になる。身体を楽にし、眼を閉じる。

 そうして頭の中にイメージを浮かべる。

 外に拡張する、というのではなく、内に収縮していく、というふうに意識を集中させていく。自分の身体が腹部を中心としてサッカーボールほどの球体に縮められていき、ビー玉大までになり、さらにも小さくなっていくようにイメージする。

 イメージはその球体を外から眺めているようでもあり、内側からの感覚だけを頼りにしているようでもあった。

 内に向かって縮んでいくことが限界にまで達したと感じたときに(その大きさは細胞ほどかもしれないし、もっと小さいのかもしれない)、閉じていた眼を開ける。

 すると彼女はいつのまにか自分の身体を見下ろして浮かんでいるのだ。

 その遊びは、一般に幽体離脱と呼びならわされている現象だった。

 身体を脱した彼女はぷかぷかと浮遊の旅に出る。

 彼女は浮かんでいる自身を見ることができない。鏡にはなにも映らなかった。

 五感のようなものをそなえた形のないもや、というのがそのときの彼女が想像している自己像だった。不定形ではあるが、そのもやは全体で大体自分の頭くらいの大きさにまとまっているとも想像していた。

 手や足を動かすような感覚はなかったが、前後方、上下左右、思うままに動くことができた。その「思う」がどこの部分で、どういうふうに為されているかは知るよしもなかった。

 彼女は物体をすり抜けることができた。壁、扉、天井、床──それらは彼女をさえぎらなかった。彼女の移動は限りなく自由だった。

 ある程度以上の大きさの生物をすり抜けるときは、魂のようなものを確かに感じた。飼っている犬、庭木にとまった鳥──。

 小さな昆虫や空気中の微生物などはあまりに小さすぎるのか、感覚の網にとらえられることはなかった。離脱をはじめるときの縮小のイメージを考えると、それは不思議にも思えた。

 植物の魂もまたおぼろげにしかとらえられなかったが、山の大樹にもぐりこんだときは豊かなそれを感じることができた。

 同じように身体を離脱した魂。そんな他者に出会うこともあるだろうか、と彼女は空想を広げた。彼女は空想が好きだった。

 浮遊の旅の中でそれに出会うことはついになかった。

 人間に触れることは極力控えた。それは可能ではあっても、快い体験ではなかった。他の生物を通過するときとは明らかに違う感触をおぼえた。

 自分も人間であるという意識がその感触を生むのかもしれない。

 試しに妹の頭部から入りこんでみたとき、彼女は意識を持っていかれそうになった。妹と同化して戻れなくなるような危険を感じたのだ。

 それは抗いがたいほど強いものではなく、自制に集中さえすれば脅威とはいえないものであった。しかし彼女はそれ以後は人間を避けるようになった。

 彼女は夜の街をさまよう。

 なぜなのか、この遊びは夜にしかできなかった。昼間、学校で授業を退屈に感じたときに机に突っ伏して試みたことなどもあったが、いつまでたっても身体を脱する気配はなかった。あたりまえのことだが、しまいには「ちょっと、楠守さん」と先生から叱られる破目になった。

 親も友人もこの夜遊びを信じてはくれなかった。

 熱をこめて細心に語っても、「おもしろい夢ね」「ケイコちゃんって、変わってるね」などといわれておしまいだった。

 妹もそうで、あなたの頭の中に潜りこんだことがある、などといったときは「気持ち悪いこといわないでよ、お姉ちゃん」とにべもない返事だった。そのとおりだと彼女自身も思ったので、二度とそのことは口にしなかった。姉に話すのもやめておいた。

 好奇心を持った友人が夜、彼女のいうとおりにやろうとしても、そんな現象が起きることはなく、からかわれたのかと思うだけだった。

 誰にも信じてもらえないことを彼女は寂しく思ったが、一方では納得もしていた。あれは、経験していない人に理解できることではないのだろう。

 夜は、彼女にとって広大だった。どこまでも彼女は行ける気がした。

 彼女はスピードをぐんぐん上げる。どれくらい速くなれるのかは彼女自身もわからなかった。高速で動いていても景色を見てとることはできた。

 遠くへ遠くへと離れても、遊びの終わりはいつも呆気なかった。

 朝が来ると、気づく間もなく元の身体に戻されるのだ。海上を飛び、自分から夜の境界線を越えたときも、すぐに引き戻された。限界はあったのだ。

 自分が進んできた距離が一気にゼロとなることには味気なさを感じたが、どこまで行っても帰ってこられるという安心を得ることもできた。その安心が彼女を殺すことになる。

 夜通し遊んでも目覚めは爽やかで、疲れは感じなかった。

 彼女は十二歳になった。

 そのころになってもあいかわらず気の向いた夜は離脱にふけっていたが、昔ほどその遊びに熱心ではなくなっていた。

 飽きたわけではない。空を飛びまわったり夜の人々を間近で観察したりするのは何度繰り返しても楽しいことだった。それは普段の肉体では決して味わえない感覚なのだ。

 だが最近は理性がこの遊びに疑いをはさむようになっていた。

 私は頭のおかしい異常者なのだろうか?

 確かに見たと感じるこの光景は、なにもかも幻なのだろうか。母がいっていたように、眠りが生んだ単なる夢にすぎないのだろうか。

 彼女の記憶のすべてがその疑いを否定したが、疑惑は消えず、影のようにつきまとった。

 そんなある夜、彼女は倦怠をうち破るためか、いままでにしなかったことを試みる気になった。

 身体を脱け出た自分はどこに向かうこともできるというのに、これまでは水平方向の限界をしか確かめたことがない。下へ向かえばこの惑星の中心まで、上へ向かえば宇宙の高みまでも自分は達することができるのではないか。地の底も、宇宙も、それは夜の領域ではないだろうか。

 彼女は上を選んだ。

 夜が更けて、寝床に横になった身体をいつものように脱け出た彼女は、上空へと昇っていった。

 空には月が皎々と照っていた。古人を惑わした輝きに彼女も魅せられた。そこに、辿りつくことはできるだろうか。

 彼女はかつてないほどスピードを上げていった。建造物の、山の、高度を越えていくのはあっという間だった。

 鳥も飛ぶことのない空間を昇りながら彼女は、もしも地上に魂を見ることのできる人がいたとしたら、夜空を突きすすむ自分の姿が見えただろうかと空想を楽しんだ。

 彼女は月を目指して昇りつづけ、いとも容易に大気の層を脱し、ついに宇宙へ躍り出た。

 限界は来なかった。宇宙は、夜だった。

 いや、ここはまだ地球の陰の中だ。それでも、大気のない宇宙は光が射しても青空にはならないだろう。それはやはり夜ではないか?

 地球を、自分の住む惑星を、彼女は見下ろすことができた。

 感動はもちろんあった。しかしそれは精神の一部分でのことだった。残された部分では彼女はひたすら昇る行為に集中しつづけ、倦むことなく没頭していた。

 神秘におののく精神は片隅に追いやられ、機械のような飽くなき意志が彼女の魂を推進しつづけていた。

 月面はさし迫っていた。クレーターだらけの荒涼とした大地は、夢の到達点のはずだった。しかし彼女はもはやそれは通過点だと考えはじめていた。

 月に辿りつくことができたなら、もっと遠くまでもいけるだろう。外惑星まで足をのばすのも魂にとっては散歩みたいなものだ。「魂よく一日に千里を往く」という言葉があったが、千里どころの話ではない。長大な距離は、物質にとってしか問題にならない。もっと遠く──シリウス、プロキオン、ベテルギウス──名前を知っているだけの星々。それらを間近から見ることはできるだろうか。きっとできるだろう。それらに触れることさえできるかもしれない。その先は? どこまで遠く離れられるのか。いけるところまでいってみるしかない。そうして先へ先へ、果てを越えて、さらにその先までいくことがもしもできるのなら──

 彼女の夢想はそこで断ち切られた。ぶつり、と意識は不意に途絶えた。

 ──そして彼女は長い闇から目覚めた。

 時刻は明け方のようだった。

 それはいつもと同じことだ。いつもと違ったのは、普段着を着て靴まではいていたことと、寝ていたはずの部屋ではなく河川敷にぽつりと立っていたことだ。

 そこは知っている場所だった。家から離れてはいるが、歩いて帰れないほどでもない。彼女は家に向かった。

 帰る道中、異変をひしひしと感じた。

 すでにうすうすそうではないかと彼女は悟っていたが──しつらえられた仏壇に自分の遺影が置かれているのを見て、ようやく確信を得た。

 やはり限界はあったのだ。

 分不相応に領分を越えた暁に、そのまま帰れなくなったというわけだ。

 身体が死んでもまだ存在しつづける、しかもやりなれた夜遊びのときとも違う形で、とは予想していなかったが。

 間抜けな死に方だな、と彼女は苦笑した。

 彼女は家を出た。家族をじっくり見つづけるつもりにはなれなかった。悲しそうでも、平気そうでも、その光景には苦い感情をたぐりよせられる気がした。

 たまらなく申しわけなさを感じ、ひとりっ子でなくてせめて良かったと、そんなふうにだけ両親を気づかった。

 外を歩きながら、しかし彼女は自然と穏やかな気分になっていた。凪のような心持ちだった。

 彼女はひとりでいることに抵抗を覚えなかった。他人には決して伝わることのない経験を抱えたまま、彼らにないものがあると誇ることもできず、ただ距離をとるように過ごしてきた。

 夜の遊びはそんな生活の中で心安らぐ慰めにもなった。もともとそれが孤独感の原因であったとしても。

 けれど、もうそんなことも気にしなくていいのだ。彼女はもう他人から距離をとる必要すらなく、そこには絶対的な隔たりがすでにあるのだ。

 彼女は自分の状況を受け入れていた。その下地は緩やかに用意されていた。

 そして彼女は思った。

 もしかしたら、私はずっとこれを待っていたのだろうか。それならばもうとっくに、私は生きていなかったのかもしれない。夜ではない時間は、死んでいたのかもしれない。生きたふりをする亡者だったのかもしれない──。

 そうして彼女は仲間たちと出会った。


 ぴっ、と笛が鳴った。それを合図に体操服姿のユキそっくりの子は跳び箱に向かって走りだした。ユキはてくてくと歩いてついていった。

 小学校の体育館には教師と生徒たち──そして幽霊たちがいた。

 カナエは端にすわって本を読み、時たま顔を上げてユキや、他の仲間たちを見守った。

 四人は少人数ながらドッジボールをやっていた。

 たまにその辺にいた生徒に投げつけたりもする。

「どこ狙ってんだよ」

「いや、跳弾っていうか──そう上手くはいかねえか」

 ジロウくんは人にボールをぶつけるのが好きなのかな、とカナエは考えた。そんなところはあっても、彼は〝襲撃〟には参加しなかった。

 ユキそっくりの子はとび箱を跳んでマットに着地した。

 宮下柄梨みやしたえりという、朝になってわかったその子の名をカナエは思いうかべた。

 名前──。

 みんなの名前も、ここではないが学校で決めた。

 カテリーナやセガール、そんな外国人みたいな名前や、グラタンだの明太子だの、食べ物の名前を場当たり的につけたりしたこともあったが、続かなかった。学校で遊んでいるときにその場の生徒の名をそれぞれ勝手に拝借して、ようやく名前が定着した。好き勝手につけた名前より、そちらの方がしっくり来た。

 そのときはユキはいなかった。仲間に入ったあと、サチがどちらにしようか迷っていたもうひとつの名を与えたのだ。名付け親、ということになる。

 サチが思いきり投げたボールがシンイチに命中した。「あいたっ!」とシンイチは呻いた。

 功志くん……。彼も家族や友人の記憶はないといっていた。なのに、名前だけ思い出せた、そんなことを突然いった。

 彼もなにかがあったんだろうか。私と同じように、生前の記憶を持っていたのだろうか。

 でもそれがわかることはもうない。功志くんは消えてしまった。どうやって死んだのかも話すことはなかった。

 功志くんもユキも、出生を調べようとすれば詳しく知ることもできるのかもしれない。

 それでもそんな気はおきないな、とカナエは思った。

 私はみんながどんな過去を持っていたかに興味がない。みんなも、そうなんじゃないだろうか。

 シンイチが仕返しとばかりに投げたボールはサチではなくミキオに当たった。「うげっ」と今度はミキオが呻いた。

 記憶の手がかりを探す、なんて目的を話したりすることはあっても──真面目にそれに取り組んだことはなく、いつも私たちは遊んでいるだけだ。

 手がかりを見つけたからといって記憶が戻るとは限らないし、戻ったからといって生き返ることができるわけでもない。

 それならそんなもの探さなくてもかまわないのではないか。──こう思うのは、私が生前の記憶を失くしていないから、欠落を抱えていないからだろうか。少しずつ薄れてきているとはいえ……。

 みんなもそんなに執着していない気がする。悩んだりはしても、それは過去がないことに由来するものとは違うように見える。

 ジロウがボールをバスケットゴールに投げた。ごうん、とボールはリングに弾かれた。

 ──私は生きていたときより、いまの方が楽しいのかもしれない。

 これは異常な思いだろうか。

 自分は異常か、と死んだあとも悩む必要なんてないだろうけど、でも異常だとしてもいまは私だけではない。

 肉体から変化を失って、仲間以外の誰にも認識されなくなり、世界との関係性を断ち切られても、平然と遊びまわっている。それは確かに異常なのだろう。でも、他にすることもない。

 私たちのすることは誰にも伝わることがない。

 触れることはできても反応はなく、干渉した結果は一晩たてば消えてしまう。それでなにか無為ではない目的をつくりだすことは難しい。

 だからひたすら遊びつづけているんだろうか。

 シンイチが倉庫からバスケットボールを入れたかごを取り出してきた。四人はシュートをどれだけ入れられるか競いはじめた。

 シンイチのメガネを見て、それを彼が失くしてしまったときのことをカナエは考えた。

どこかに落として、紛失してしまった。でも〈歯車〉から逃げて朝になると、いつのまにかその顔に戻っていた。

 みんなでおもしろがって、何度も捨ててみたが毎回戻ってきた。戻る瞬間を見てやる、とミキオくんや功志くんが意気込んで、朝になろうとするときにシンイチくんの顔を見守っていたが、結局その瞬間は確認できなかった。しまいには気味悪がったりもした。

 昨日の壁の落書きも、やはりもう消えていた。どんな行為も残ることはない。

 正常な人間にとってはこの状態は牢獄といえるのかもしれない。

 それを楽しい、と私は思っている。

 すわって同じクラスの子と話している柄梨のそばでユキはくつろいでいた。ひざをのばして壁に背を預けていた。

 幽霊になったことでどれだけ正常さは失われたのだろう。

 私はこの状態に早くから親しむようになったが、もともとそういう素地のある人間だったからか、それとも幽霊になった時点で特殊な意識に変化したのか。いまの自分と生前の自分、それは本当に同一といえるのか。

 みんなはどうだろう。過去がなくてもけっこう平気そうなのは、もともとの性格とは関係のない特殊化によるものなのか。

 そもそも性格というのは経験が重ねられて出来上がっていくものだと思っていたのに、みんな過去の記憶はなくても最初からはっきりと個性があった。それはおかしなことではないのか。

 完全な記憶喪失ではないからだろうか。自分が誰かはわからなくても、言葉とか、学校というのがどういう場所かとか、自転車の乗り方だとか、そういうことまで忘れたわけではないのだから。

 普通ではない精神、といってみれば全部済むことかもしれない。

 シンイチのシュートはボードにはじかれた。「あーあ」と残念がりながら指でメガネの位置をなおした。

 功志くんはもしかしたらひとりだけ正常な精神を持ちあわせていたのだろうか。だからどこかで狂ってしまったのかもしれない。

 〝なにも気にしなくていいさ。どうせ痛みも感じず、気づくことさえないんだから〟

 功志の言葉をカナエは思い浮かべた。

 〝襲撃〟──。

 眼についた生きている人々を殴りつける、鈍器で打つ、刃物で刺す、銃で撃つ──功志くんの始めたその遊びは、続けられることはなかった。

 良心がとがめたからか、それとも反応のない暴力というのは遊びとしてそうおもしろいものではなかったからか──後者かな、とカナエは推測した。

 サチのシュートがリングに吸いこまれるように決まった。「よっしゃ」とサチはガッツポーズをとり、ちらりとユキの方を見た。

 遊び──。

 鬼ごっこをしたくなるのはやはり〈歯車〉への恐怖が関係しているのだろうか。それは演習にでも当たるのだろうか。

 夜ごと現れる〈歯車〉。あれこそ謎だった。見えるものは疑わしい。あの緑色の化け物が死神だとして、それならなぜあんなにも遅々とした歩みなのか。増殖し、新手になるほど速くなるとはいってもそれがなんなのか。こちらが一定の距離を保ってさえいれば脅威にもならない。

 それでもひとりは自分から踏み越えて、消滅した。それだけを待っているのだろうか。追われる者が耐えきれなくなり、自分から近づいてくるのを。

 ミキオがシュートしようとしたときにその服をジロウが引っぱった。ミキオはバランスを崩して転び、ボールは見当違いの方向へ飛んでいった。

 耐えきれなくなる。何に? 変化のなさにか。どこまでいっても私たちはこのままだ、そう思って逃げるのをやめるのか。

 功志くんのことは、残念だった。

 でももうあんなことは起きない。そう思いたい。

 ミキオくんは動揺しているようだけど、それも時間が解決してくれるはずだ。なぜか、彼は心配ないと決めてかかっている。

 功志くんのように自棄的になりきることはない。なんとなくそう感じる。

 そして自分たちの生活に倦みさえしなければ──私たちは永遠にこうしていられるのかもしれない。

 カナエは本のページをめくった。

 もともと本は好きだったが、死んでからは俄然読むようになった。

 本屋から、図書館から、人の家の本棚から、取ってきては読みふけった。干渉したものは夜のうちにもとの場所へ帰るようだったが、触れつづけていれば本は消えたりしなかった。〈歯車〉から逃げている最中にめくっていることもあった。

 最近のカナエが持ち歩いている本は海外のSF作家が書いた短篇集で、故郷を求める心情が痛切に描かれていた。とっくに読み終えてはいたが、カナエはその本を持ち歩くのをやめずに繰り返し読んでいた。


〝……アステロイド・ベルトのバブル群で、あるいは空気漏れする火星ドームで、命をつなぐ不屈の人びと……〟


 そんな文章にさしかかり、普段はあまりやらないのだが、カナエは自分たちのことに引きよせて考えてみた。

 奇妙なかたちではあるが私たちはまだ存在している。一度死んではいても、認識されないささやかなものでも、それは命をつないでいるといえるのではないか。

 存在するのをやめないこと──そうとらえるなら、私たちはいつまでも命をつなぎつづけているといえる。それができる。

 本を選ぶときのカナエの好みは生前と少し変わっていた。空想的な話に惹かれるのはあいかわらずだったが、作者が既に故人である本をできるだけ選ぶようになった。

 訳者のあとがきによればこの本の作者も、カナエの生まれる前に亡くなっていた。自殺だったそうだ。その人の魂はどうなったのだろう、とカナエは考えた。

 四人は跳び箱で遊びはじめた。上に立って待ちかまえ、跳ぼうとする生徒を押し返した。

 どこへいったのだろう、他の死者たちの魂は。

 この世にとり残された幽霊は私たちだけ──そんなことはないのではないか。それならどこにも見かけないのはなぜか。

 幽霊はいたるところにあふれるほどいる。しかしそれぞれは階層の違う世界に住んでいて、他の幽霊と出会うことはない。そんなふうにもカナエは想像した。

 私たちが生きている人たちに認識されないのと同じように、他の幽霊たちを認識することはできない。

 これじゃあ、功志くんがまだどこかにいるというミキオくんと大して変わらないかな。

 カナエは以前から自分たちを取り巻く状況について奔放に想像することがあった。

 これは誰かの夢の世界で、私たちは夢見られているだけの存在なのではないか。

 これはテレビゲームの世界で、私たちはその中のバグのような存在なのではないか。

 まわりの人間が私たちに気づかないのは、実は全て演技なのではないか。

 そういった仮定を真剣に検討することはなかったが、自分たちが幽霊であるというのも同じくらいに異様な話だとカナエは思った。

 認識の外に他の幽霊がいるかいないかなんて本当はどうでもいい。以前やっていたひとり遊び、そのときには決して得ることのなかった仲間がいまはいる。それだけで私には十分だ。

 このままずっとそうやっていられるなら──。

 シンイチが頭は出したままマットにくるまり丸まった。他の三人はそれを転がした。まわりながらシンイチはけらけら笑っていた。

 ……でもこの考えはあのときと少し似ている。私はどこまでもいくことができる、そう感じたあの瞬間と。

 それは傲慢な思い上がりだった。もしそれができたとしても虚しいことにしかならなかっただろう。枯れた心しかないのなら、果てまでいっても何になるのか。

 遠くまでいきたいという願いは、かすかなものになってしまった。

 死んでからようやく生き甲斐をとらえることが出来たと思うことさえある。友だちのおかげだ。一緒に異常であってくれる仲間たちの。

 どこへいかなくても、誰と話せなくても、それだけで満足だ。

 その時間がいつまでも続いていくという考え、それも思い上がりなのだろうか。

 今度はジロウがマットにくるまった。嬉々として転がって楽しんでいたが、跳び箱に頭をぶつけて悲鳴を上げた。それを見て三人は笑った。

──現に仲間のひとりは消滅してしまった。それがまた起きないとどうしていえるだろう。

 そしてユキ……。

 彼女もいま、なにかわからない状態に陥っている。

 家族と会っても私の場合はどうにもならなかった。記憶を失っていないからか。それともやはり双子ということが関係しているのだろうか。

 そもそもなぜ功志くんが消えてすぐにユキと出会えたのだろう。

 誰かが消えれば誰かが加わる、そんな法則でもあるのか。それとも単なる偶然か。

 夜明けの空、真っ赤な消防車と野次馬たち。あの場所で見つけたときのユキ……。

 ユキの両親の魂はどこへいったのだろう。

 もし、私たちが放っておいたら彼女はいつまで意識を取りもどさなかったのだろう。

 ミキオくんも、気づいたときはふらふら歩いていたといっていたし、みんなも同じようなことをいっていた。気づく前もさまよっていたのだろうか。

 死んでから幽霊としての自分を自覚するまで、そのあいだの空白期間はなんなのだろう。

 意識の途絶えていた時間は私の場合、気が遠くなるような長さというわけではなかったようだけど──葬儀などはすっかり済んでいたが──みんなもそれくらいなのか。

 何年もさまよっていた、なんてことはありえるだろうか。

 なんだか浦島太郎みたいな話だな。

 生徒たちが跳び箱やマットなどの用具を片づけはじめた。柄梨もその中にいる。ユキはそのあとを歩いていた。

 ──不可思議な状況。その疑問点。あげればきりがない。

 でもそれらもどうでもいいことなのだ、本当は。

 それについて考えるのも、想像するのも──遊びのひとつでしかない。

 気楽になればいい。考えこまなくてもいい。サチはそういっていた。そのとおりだ。

手にした状況の中でできる限り楽しく、安らかに命をつなぐこと。

 考えこみ、ふさぎこんで、失敗した功志くんの轍を踏むような真似は慎むこと。

 そう決めたのだ。

 生徒たちは教室へ帰りはじめた。サチ、シンイチ、ミキオ、ジロウの四人はカナエに近づいた。

「なにか考えごと?」

 とサチが明るく訊いた。

「いや」

 とカナエは微笑んだ。

「大したことじゃないよ」

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