夜の鬼ごっこ
ジロウが提案したとおり、あたしたちは柄梨という子に家から小学校までついていき、ユキのしたいままにさせておこうとしたのだが……それは半日ほどで諦めることにした。
ユキがくつろいではいるが退屈そうにも見えてきたことも理由のひとつではあるが、一番の理由はあたしたちみんながその付きそいに早々と飽きてしまったという、どうしようもない理由からだった。
ユキをその子のそばへ近づけておけば、なにかが起きるとでも信じていたのかもしれない。でもあとをついてはいくが、それ以上はなにごとも起きないし、ユキはやっぱり望んではいないのではないか、なにかに操られてるだけではないか、とかいう話も出て、ずっと付きそわせておくことがおっくうになりはじめた。
あたしたちは遊びなら延々と続けるのに、他のことには辛抱が全然ないようだった。
その子にユキを取られてしまったような反発を感じたりしていたこともあって、給食の時間がはじまるころにはあたしたちはユキを連れて小学校から出てしまった。
ユキはやはりあの子から引きはなされても素直についてきた。
「ユキ、もう元のようには戻らないのかな」
ゲームセンターの中でシンイチくんがいった。
パチンコ屋と隣り合ったその真っ昼間のゲームセンターには人はほとんどいない。レースゲーム、シューティングゲーム、格闘ゲーム、リズムゲーム、色々な機械から流れる音が騒がしいように見せかけているけれど、それは生気のない空間だった。
そういう場所にあたしたちはよくなじんだ。
「そうは思いたくないけど……。時間がたっても、このままなのかな」
あたしはクレーンゲームを操作しながらそういった。なにかのキャラクターらしいデフォルメされた熊のぬいぐるみをアームがひっかけようとしたが、失敗した。
シンイチくんとユキはそばでそれを眺めている。
ミキオとジロウは格闘ゲームで対戦していた。画面でキャラクターたちが豪快に殴り合っている。
カナエはここでも本を読んでいた。ずっと持ちつづけている文庫本はかたわらに置いて、小学校の図書室からとってきた大きめの本を開いていた。
あたしはまた硬貨を投入した。金属バットを使って両替機をメチャクチャに壊そうとしたがなかなか壊れなかったので、近くのコンビニのレジからとってきた。
「ずーっとあの子に会わずにほとぼりが冷めたら、また、戻ることもあるかなあ」
シンイチくんはゲーム好きの気性をいまは発揮させず、さっきからぼやきつづけていた。あたしはそのぼやきのひとつひとつに同感していた。
上手いぐあいにひっかかり、熊のぬいぐるみはぽとりとダクトに落ちた。
ぬいぐるみをあたしは取り出して、なんとなくじろじろとそれを眺めた。
「それ、欲しかったの?」
とシンイチくんが訊いてきた。
「全然」
とあたしは答えた。別に欲しくてやっていたわけでもないのだ。
シンイチくんはそのぬいぐるみを手にとった。
そしてなんのつもりか、それをユキの顔の前に持っていき、
「うーうー。ユキが喋らないとかみつくぞー」
といいだした。
「うーうー。熊は寂しいぞー」
うーうー、というのは唸り声を表しているらしい。
あたしはまた硬貨を投入してもうひとつ同じぬいぐるみを手に入れ、
「うーうー。あの子と一緒にいた方がいい? それとも別にかまわない?」
とシンイチくんにならってやりはじめた。
ユキはぼーっとそれを見ているだけで、目覚ましい反応はなかった。しかしあたしとシンイチくんはそのふざけた呼びかけを続けた。
なんだなんだ、とミキオとジロウが寄ってきた。あたしたちのしていることを眺めて、また立ち去っていったかと思うと、ミキオは猿のぬいぐるみを、ジロウはなんだかわからない怪獣みたいな人形をどこからか持って戻ってきた。
「人間はバナナの次においしい。元気にならないと食べるぞ」
「ぼんやりしてると拉致するぞ。宇宙恐竜は気が短い」
ふたりも脱力するような小芝居をやりだした。
そうやってユキのまわりでギャーギャー騒いでいると、いつにもまして幼稚なことをしてるなあ、という思いがわきあがってきて、しかし妙に楽しくなっていた。
「カナエ、カナエ」
とあたしは麻雀ゲームの前にすわって本を読んでいるカナエを誘ってみた。
カナエは本から顔を上げたが、またページをくりだした。
ああ、いまは読んでいたいのかな。あんまり幼稚で呆れたのかもしれないけど、ちょっと残念な気持ちにもなった。
するとカナエは大きめの本のページをぴりぴりと破って、なにかをしはじめた。
折り紙だ。
鶴を折り、カナエはそれを持ってこっちへ来た。
「いまは飛べなくなっちゃったのかな? 一緒にまた飛ぼうよ」
鶴をひらひらさせて、淡々とした口調のままいった。カナエはそれを楽しんでるのかどうか見かけからはわかりにくいところがあったが、嫌々やってるという感じでもなさそうだった。
「器用ねえ」
「鶴くらいでそんな、大げさな……」
「あたしちゃんと折れないのよね。でもいいの? 破ったりして?」
「あんまり良い本でもなかったから」
「おい、猿、宇宙恐竜より目立つな」
「あんまりいばるな、ボコボコにするぞ」
「ぐぎぎっ!」
「うーうー。ケンカはやめよー」
ユキへの呼びかけもへったくれもなくなって、玩具同士のふざけた小芝居で遊びつづけていると、おどろくべきことが起こった。
ユキが手をのばして、あたしの持っていた熊のぬいぐるみを握ったのだ。
あたしたちははっとしてみんなでユキを見た。
「ユキ?」
「…………」
あたしが熊を離すと、ユキはそれを顔に近づけてからまじまじと見つめ、両手をひっぱったりしだした。
「一緒に遊ぶ?」
と訊くと、ユキはこくん、とうなずいた。
変になってしまってから初めての、はっきりとした意思表示だった。
「なんだユキ、元に戻ったのか!」
嬉しそうにジロウがいった。そんな素ぶりはしなくなっていたが、まだ責任を感じていたのかもしれない。
「うーうー。よかった。本当に」
シンイチくんは熊を操りながらにこにこした。
「みんなを心配させて……」
あたしはいって、安心で胸がいっぱいになり、ユキの頭をなでた。ユキはくすぐったそうにした。
「一日、それだけでずいぶんやきもきさせたね」
と、カナエは静かな口調でいい、微笑んだ。
「…………」
ミキオも喜んでいたはずなのに、ふと見ると表情が変わっていた。
不審そうにユキを見つめている。ユキは口をぱくぱく開いたり閉じたりしていた。
「どうしたの?」
とあたしは訊いたが、ミキオはそれに答えず、
「──ユキ、おまえさ、喋れるか?」
といった。
ユキは熊を抱いたままミキオを見上げていた。そして首を横に振った。
「え?」
とあたしは安心が揺らぐのを感じた。
「……ユキ? 元に戻ったんじゃないの?」
ユキは首をかしげた。確かにさっきから一言も口にしていない。
「話せないの?」
とカナエも訊いた。
ユキはこくん、とうなずいた。そしてまた熊をいじりだした。
「……なんで?」
「……どうして?」
シンイチくんとあたしはほとんど同時に訊いた。
ユキはまた困惑したように首をかしげる。
奇怪な間が流れた。
「……まあ、けど、意識はおかしくなくなったみたいだし。時間がたてば、それももとに戻るんじゃねーかな」
ジロウが珍しく元気づけるようにいった。
カナエは鶴を置いて、テーブルからノートとボールペンを持ってきた。それはゲームセンターの客たちがメッセージなどを書きこむためのノートだ。水色の表紙に「コミュニケーションノート」と書かれている。
「筆談はできるかな」
ノートは新しく置かれたばかりのようで、最初の一、二ページに書かれたメッセージと最後のページに描かれたマンガっぽい落書き(フリル付きの服を着ている眼の大きな女の子が描かれていた)を除けば白紙だった。
ユキにノートとボールペンを渡し、あたしたちは質問してみることにした。
「ユキ、文字で返事をすることはできる? できるならできるって書いてみて」
ユキは床にすわって熊をそばに置き、ノートに書きこんでからこちらに示した。
(できる)
「可能みたいね」
「よかった。これでいろいろ話すことができるな」
「なに訊けばいいんだろ」
「とりあえずいっぱい質問してみましょうか。なぜ、話せないの? 声は出ないの?」
ボールペンが動かされた。
(わからない 声でない)
「昨日から今日までのことはおぼえてるの?」
ん? とユキは聞き逃したような身ぶりをした。
「つまり──そうだ、あの子のことは憶えてる? ユキに顔がそっくりの子。今日学校までついていった子」
ユキはしばらくじっとしていた。そしてペンが動かされた。
(わからない)
「おぼえてねーのか」
「やっぱり、ちゃんとした意識はなかったのかな」
ジロウやシンイチくんがいうが、ミキオはさっきから黙っていた。
「マンションで鬼ごっこしてたのは憶えてる? ジロウと一緒にシンイチくんから逃げまわっていたって」
(おぼえてる)
「エレベーターに誰かが乗るのを見たんじゃない?」
(わからない)
「いつからおぼえてる? もう一回訊くけど学校にいったのはおぼえてないの?」
(おぼえてない)
その後も色々と質問をくりかえしたけれど──おかしくなっていたあいだのことは憶えておらず、さっきのふざけた呼びかけの最中に意識が戻ったということ以外になにかがわかることはなかった。
ノートのページにはわからない、おぼえてない、という文字がならび、途中からはその文字を指し示すだけになった。
「結局全然さっぱりなんにもわからないってことかな」
シンイチくんが苦笑していった。
「なんだかなあ……」
とあたしは嘆いた。
マンションで変化が起こったときと同じで、あいかわらず戸惑うだけだ。ユキの意識が戻ったのはすごく嬉しいのに、そのせいで素直に喜べない。
双子のことをユキに話しても、あまり興味がなさそうだった。おどろくほど無関心だった。
ユキはノートに熊の落書きを始めていた。
本人は声を失っている現状を大して気にしていないようだ。すでにそのことはユキ自身にも、みんなにも、前からそうであったみたいに受け入れられつつあった。
双子のことにも、もうあまり関心がわかなくなっていた。
「…………」
麻痺、とまたその言葉が浮かんだ。
なんで生きていたときの具体的な記憶はないのに、常識っぽい考えははんぱに残っているんだろう。記憶と一緒にそれも消えていればよかったのに。
それからみんなでゲームセンターを出ると、黒猫がいた。
「猫!」
一声叫んで、あたしはそのかわいらしい動物をなでだした。
うっとうしそうにも、気持ちよさそうにもしない。動物は人間にはない神秘的な感覚を持っていると信じているのだが、あたしたちに気づいてくれない点は人間と変わりなかった。
でもそれはかみついたりひっかいたりもしないということで、みんなで動物園にいったときは虎にじゃれついたりしてめいっぱい楽しんだ。
一方的にあたしは猫を抱えて顔をすりつけた。
「サチって気持ちわるいくらいに動物好きだよね」
シンイチくんが呆れたようにいった。
「気持ちわるいとはなに。博愛よ、博愛」
「いや、はっきりと気持ちわりーよ」
とジロウが笑った。
「うっさい。この愛くるしさがわからんとは……」
「かわいいよ、本当に」
そういってカナエも控えめに猫をなで、ユキも楽しそうにさわったり、瞳をものすごく近くから見つめたりしていた。
ユキはノートと熊のぬいぐるみと鶴を持ったままで、さらにいまは猫も抱いていた。
ミキオの姿が見えなかった。
「あれ?」
あたしがゲームセンターに戻ってみると、ミキオは猿と怪獣を抱えたまま、鶴の素材に使った本をめくっていた。
「サチってほんとに猫好きだよな」
さっきのを見てはいたようで、シンイチくんと同じようなことをいった。
「猫だけじゃないけどね。行かないの?」
「いや──ただ、良くない本ってどんなのかちょっと気になって」
「ふーん……」
扉のガラス越しにカナエの方を見ると、いつも持ち歩いている文庫本をまたぱらぱらめくっていた。ユキとシンイチくんは猫をなでたり眺めたりしているが、ジロウは尻尾をぐいぐい無遠慮に引っぱっている。
ああいうふうにするのはよくない。
「なにが良くないんだか、おれにはわからないな」
「ちゃんと読まなきゃわからないでしょ、そりゃあ」
「読んだらわかるかな?」
「──うーん。カナエの判断って、独特そうだしね」
「そうだよな。わからないよな、多分」
ミキオは本を、その他持っていたもの全部をまとめて放り投げた。
ばさばさと本がはためいて落ち、猿のぬいぐるみはクレーンゲームの上に消え、怪獣の人形はリズムゲームで遊んでいた男の人に命中した。
「じゃ、いこうか」
「……去りぎわに何かブン投げなきゃ気が済まないの?」
「なんでだろ、なんかやりたくなるんだよな」
前からそうだったかな、とあたしは思い出そうとしながらミキオと出口へ歩いていった。
猫に別れを告げて(相手は気づいてないのだけど)あたしたちは歩きまわり、大きな本屋に入った。
カナエは小説を、他のみんなはマンガを主に読んでいた。
ジロウはなぜか図鑑のカタツムリのページを開いてはしゃいでいた。
本でタワーを作ったりドミノ倒しをしたりして、それから鬼ごっこもした。広々としたスペースを走りまわり、勢い余って本棚をいくつか壊してしまった。
おもちゃ屋を騒ぎながら見てまわって、そこから水風船を持ってきてぶらついていると霊園があった。お墓を一応探しまわってみても幽霊には出会わなかった。
蛇口があったので、そこで水風船のぶつけ合いをして存分に遊んだ。
そうして今日も日は暮れた。
水滴を滴らせたまま、駅前の人でごたごたした道を過ぎ、小さなトンネルをくぐり静かな裏道に入って〈歯車〉から逃げ歩いていると、黒い空に冴え冴えと月が浮かんでいるのが眼についた。
「月って、やっぱり綺麗ね」
とあたしは当たりまえのことを口にした。
「うん、遠いね」
カナエは月を眺めながら、微妙にずれた答え方をした。
「近かったら怖えよ」
とジロウが笑い、
「そんなに離れてるんだっけ」
とシンイチくんが訊いた。
しんがりの見張り役は今夜もミキオがしていた。昨夜はほとんどその役を果たしていなかったからだ。
「三十八万キロメートル、だったと思う。おおよそで」
生真面目にカナエが答えた。
「何万キロメートルなんていわれてもわかんねーよ」
また笑いながらジロウがいって、
「遠すぎるなあ」
とシンイチくんが呟いた。
「光の速さだと一秒ちょっとらしいけどね。八分もかかる太陽に比べてずいぶん近い。地球の衛星で、宇宙のスケールからいえば、寄りそう伴侶ともいえる。要はさ、なにを基準にするか、その尺度によって、遠いとも近いともいえるってことで──」
カナエはまたとうとうと語っていた。
「……まあ、遠いだろ。走っていけるわけでもねーし」
「当たり前でしょ」
「月まで逃げたら〈歯車〉も追ってこないかなあ」
「来るんじゃねーかな」
「粘着質だもんね」
「どこまででも来るのかあ」
とんとん、とユキがあたしの腕をつついた。あたしがユキの方を見ると、ノートになにか書きはじめた。
ゲームセンターではボールペンだったが、文字が細くて見えにくいので太めの油性ペンに持ちかえていた。
ユキはいまは明るいベージュ色の鞄を背負っていた。少女マンガの棚を眺めていた女の子の持ち物だ。ちょうどいいや、と思っていただいてきたのだ。ノートとペンを使わないときはその中に入れ、熊のぬいぐるみと鶴の折り紙も入っている。気に入ったようだった。
(ねんちゃくしつってなに)
「しつこいってことよ。なんていうか──べったりついてくる感じ」
あたしの説明はあやふやなものだが、ユキは納得してくれた。
ネンチャクシツ、という言葉の響きが気になったのだろう。月の話よりそんなところに引っかかる辺り、ユキもよくわからない。
「そういえばカナエも鞄とか持ったら? 本いっぱい入れてさ」
「ん──いや、いいかな。たくさん持ち歩く気もないし」
「中身、朝になったら消えてたりしねーか?」
「消えないよ。功志がガチャポン集めてたとき大丈夫だったから」
「──ああ、そうだったか」
シンイチくんの言葉は思いがけないものだった。シンイチくんから功志くんの話題が出たことと、その言葉で遠慮深い笑顔の記憶がよみがえったことが。
そうだ、そんなのを集めてる時もあった。男連中がトイレで下品な馬鹿騒ぎをやらかしたりしていた頃だ。そのときの彼はもの柔らかで、賢そうな男の子だった。暴力的でもなんでもなかった。ミキオと気が合って、いろいろな遊びをふたりで考えだしたりしていた。
でもそれはいまとなっては遠い。彼は少しずつ変わっていき、いつも苛立っているような様子を見せるようになった。そしてもっとも攻撃されたのがシンイチくんだった。
「来るぞ」
ミキオがいった。
ふり返ると〈歯車〉は立ち止まっていた。電柱からのびる蛍光灯の白い光の下にぬっと立っているその緑色の姿はいつ見ても不気味だ。やはり、それを見るとおぞましい気分になる。
ユキがノートを鞄にしまうと、〈歯車〉は走りだした。
きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし。
あたしたちは走って逃げる。
走っているときのあたしたちは無口だ。
息が切れることはない。〈歯車〉は不可解なほど遅い。だから会話をしながら走ることも危険というほどではない。
それでも〈歯車〉が走って追いかけてきているときはいつもたいてい無言だった。
ユキの背中を見てあたしは走っており、カナエ、シンイチくん、ジロウも前にいる。ミキオだけが後ろにいた。
ヘッドライトが眼を射して、タクシーが前からやって来た。すぐにあたしたちは避けた。
そのまま〈歯車〉の方へ向かってタクシーは走っていった。
とんっ、と〈歯車〉が跳躍した。その甲冑をまとったような体躯が二階建てくらいの高さまで上がる。
タクシーが過ぎ去ったタイミングで〈歯車〉は地に降り立った。頭の歯車はゆっくりとまわりつづけている。
あたしは前を向き、ミキオの隣にならぶようにしてまた走りだした。
高さをものともしないようなあのジャンプ力なら、跳ねるだけであたしたちに追いつけるんじゃないだろうか?
アレはなにを考えているのか──考えなんてあるのか──どういうつもりなのか。
相手はいつでも追いつくことができる。そんなふうに思うとまた気分が悪くなってきた。
いや、自分でいってたじゃないか。〈歯車〉のことなんて気にしなくていいんだ。アレのことを考えてもどうにもならない。
六人で夜の街を走っていく。
交番の前を、居酒屋がある通りを、路地裏を走っていく。
夜にたたずむ人たちは、あたしたち六人とはなんのつながりもなかった。通りすぎていくだけだ。
楽しそうに笑っている人。一人でなにかを待つように立っている人。壁によりかかり、倒れそうな人。その人を介抱している人。大きな声をはりあげている人。どこかへ急いでいる人。すわりこんでケータイをいじっている人。どの人も関係なかった。
夜ほど生きた人間との関係なさを感じる時間はなかった。
その黙ったまま逃げまわっている時間の中で、他の五人の背中や横顔を、ふっている腕を、たまに後ろをふり返る姿や、そんなはずはないのに息が切れたふりをしておどけたりするのを眺めながら走りつづけていると、奇妙な一体感を抱くことがあった。
死んでしまったこともわけもわからず追われていることもどうでもよく、世界に自分たちしかいないことを不自然と考えながら自然に感じる、おかしな感覚。
疲れも汗もないのに走ることが頭をぼんやりさせていくような、夢を見ているような感覚。
昼間の遊びのときに感じるものとも、それはまた違う気がした。
「止まった」
シンイチくんがいった。
みんなも後ろの〈歯車〉をふり返って、走るのをやめた。
ミキオを除いて。
……万引きGメンの気分というのは今のあたしみたいなものだろうか。
やる、やる、と待ちかまえていて、やった! と反応するこの感じ。
一昨夜のように走りつづけるミキオにあたしはぴったりとついていった。
「ミキオ! ミキオ!」
呼ばれてもミキオはふり返ることなく、わき目もふらずに走っていく。
四人を置いてあたしたち二人は先に進みつづけた。
「ミキオ! ねえ!」
「なんだよ」
「なんだよじゃなくて。だからさ、なんで先に行くのかって!」
答えはしても、ミキオは止まりはしない。
緑の光がちかちかときらめいて、新しい〈歯車〉が前に現れた。道の真ん中に突っ立っているのをあたしたちはそれぞれ左右によけて進み、またならんだ。
動き出した二体目の〈歯車〉は歩いているようで、あの迫ってくるような足音は聞こえてこない。
「ちょっと……。とりあえず、止まってよ!」
「やだよ」
「なんで? どういうつもりなの?」
「どーでもいいだろ」
いつにもまして無愛想だった。いきなりものすごく不機嫌になっている。
あるいは表にしなかっただけで、ずっとそうだったのかもしれない。水風船を顔にぶつけられて笑っていたのに? いや、夜は別の世界なのだ。
「──もしかして、〈歯車〉にわざと追いつかれようとしてるの?」
危ぶんでいることを口にする。そうとしか考えられないのに、なかなかそれをいうことが出来なかった。
ミキオは答えない。
「そうしてそこに功志くんがいるとか、本気で信じてるの?」
それにも答えない。ミキオ自身、自分の考えをわかっているのだろうか。
「でも功志くんみたいに真っ向から突っこんでいったりはしないでしょ? それはさ、信じきれていないからじゃない?
──あたしもカナエと同じ意見かもしれない。消えてしまって、その先にはなにもないって、いいきることはできないけど……。でも、ミキオがそんなことをして、功志くんにまた会えるとか、そんなふうには全然思えない。あれが天国に案内してくれるなんて考えることもない。だからさ──」
「苛つかないか?」
こっちを見もせずにミキオはいった。
「……なにが?」
「気づいたら声が出なくなる、神経をすり減らすように追いかけられる、眠れない──全部だよ。何でだ? 何でおれたちはこうなんだ? 何のために?」
「それは……」
死んだから、といいかけてやめた。そういうことを訊いているのではないのだろう。
「……けど、そんなのいまさらじゃない」
「そうだな。もう慣れたよ。でも苛つかなくなったわけじゃない。きっと理由なんてないんだろう、こんなふうに存在することに。うんざりするんだよ、そういうの全部に」
話すというより、なかば独り言のようにミキオは語っていた。
「無茶はしない」とカナエはいっていた。なにを根拠にそういっていたのかはわからないが、いまのミキオの様子はどう見ても無茶を決行してしまいそうだった。
四つ辻の角に三体目が現れた。
ミキオはそれに突っこんでいったりはしないが、少し近すぎるような進路を通っていく。あたしはもっと大まわりに避けてからついていった。
「うんざりしたからって、死ぬの?」
「もう死んでるだろ」
「だから、そうじゃなくて! わかってるでしょ? 消えたいのかってこと。……そりゃ、確かに死んでしまって、幽霊だけど、でも、ここにいるんだよ?」
「なあ、本当に眠りたいと思わないのか?」
またその質問だった。ひどくこだわっている。
「思うっていったじゃない」
「切実にだよ」
「あたしなりに切実だけど」
「おれは辛いんだよ、正直。ユキがああなったことをうらやましいとも思った。意識が途絶えてたっていうのならさ。ずっと眼がさめてるってのが、おれは耐えがたくてしかたがない。苦痛でしかたがない。気が狂いそうなんだよ」
「……でも、他のみんなも同じじゃない」
「だから、どうして平気なんだ? おれだけおかしいのか?」
それと似たようなことを功志くんもいっていた。冗談であるかのように、軽い調子で。
ちょっとした言葉でも、彼がいなくなってしまったことで引っかかるものになっていた。棘のように記憶に残っている。
「おかしくなんかは──」
「いや、おかしくていいんだよ。かまわない。そんなの、別にどうだっていいんだ」
遮るようにいって、走るスピードを上げた。
こっちの言葉を待ってもくれない。不安がうずいてくる。
だけど捨て鉢のようではあっても、とにかく話はしてくれている。それが、途切れるのが怖かった。
「──ミキオ。あたしさ、黙ってたけど、嫌な死に方したの。殺されたの。首を絞められて」
とにかく話を続けようと、あたしはそんなことをいっていた。
「相手の顔とかはわからないんだけど、すごい力でぐぐぐっ、て──その感覚は残ってる。苦しくて、意識が薄れていって……おぞましいよね、そんなの。
死に方の良し悪しなんてどう考えていいのかわからないけど、生きるのをさ、誰かに無理やり断ち切られたなんて……。でも、いまはアレにやられること以外は死ぬ──じゃなくて、消えることはないでしょ?
だったらさ、やめようよ。どんな人生送ってたのか知らないけど、首を絞められて終わり、それだけじゃなかったのは奇蹟みたいなものだとあたしは思ってる。こんな状態でもみんなと過ごせて。死ななかったら、あたしたち友だちになることもなかったのかもしれない。それはさ、なんていうか、すごいことで、価値があることなのよ、きっと。理由があるとかないとか関係なく。だから、なんていうか──」
いままでいわなかったこともいって、思いつくままに話して、そこで途切れてしまった。
だけど、いいたいことは伝わるだろうと信じた。
でも──
「知ってたよ、そんなの」
とミキオはうんざりしたようなままいった。
「──へ?」
あたしは間抜けな声を出してしまった。
「死んだときの話をかたくなに避けて、顔面蒼白にして首さすってたら、なんとなくわかるよ、そんなの。サチの話はその通りだし、いいこといってると思うよ。でもさ、もう、どうでもいいんだよ」
その声ははっきりと、生きることへの興味のなさを示していた。
──きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし──
あの音が聞こえる。まだ遅い。まだ大丈夫だ。
それなのに不安は高まっていく。
ミキオとあたしは走りつづけて、そして後ろの足音は遠くなっていった。
通りがかったショーウインドーのガラスにあたしたち二人の姿が映った。
吸血鬼は鏡に映らないそうだ。あたしたちとは違う。あたしたちは、自分の姿を見ることができる。それでも、鏡に映りはしても──生きてる人にとっては映っていないのと同じで、あたしたちはいつ消えてもおかしくない、弱々しい存在でしかないんだ。
頭によぎったそんな考えをふり払い、ミキオに必死でついていった。
でももうなにをいえば止めることができるのか、わからなかった。
どうでもいいといいつつも、こんなまわりくどさで自殺しようとするのは矛盾している気がした。なにせ走りまわっているのだ。そこには込みいったやる気さえ見られるといっていい。
なにもかもにうんざりしているようによそおっても、本当は違うのではないか──。
四体目の〈歯車〉が坂道のガードレールのそばに現れた。
あたしは十分な間をあけて通りすぎるが、ミキオはすれすれを走っていった。
ミキオは一瞬、体勢を崩した。だがすぐに立て直して坂を上っていく。
〈歯車〉に近づきすぎると得体のしれない悪寒に襲われるらしい。あたしは体験したことはないが、いまのはそれによるものだろうか。
あたしは懸命にミキオの背に追いすがった。
──でも、たとえ生きたくないというのがよそおったものでしかないとしても、このままだとミキオは取り返しがつかなくなる。功志くんの二の舞になる。また、知っている人が消えてしまう。また、仲間がいなくなってしまう……。
「ミキオ!」
叫んで、あたしはミキオの腕をぐっ、とつかんだ。力を込めて無理やり立ち止まらせた。ミキオはたたらを踏んでふり返った。
「あたし、ミキオが好きなの!」
絶叫していた。
「────は?」
ぽかん、としてようやくミキオがこっちの顔を見た。
よほど意外だったのか口をあんぐりと開けている。あたしの方もおどろいていた。
えっ、あたしってミキオのこと好きだったの? ──いや、そういうことにしてしまえ!
「そう、前から好き……なのかな。だから、そう、それで、残っていてほしいの。好きだから」
さっきよりなおさら陳腐なことをいってる気がする。なんだか変な成り行きだった。なんでこんな状況で告白することになってるんだ、あたしは。
ミキオはぽかんとしたままだ。その視線が、「何いってんだろうこいつ?」というようなものに思えた。
……それを見ると急にムカムカしてきた。
こんなやつのどこが好きなんだ?
「──大体、うんざりしてるなんて嘘じゃない! あんた、本気で笑ってたし、楽しんでたでしょうが! それがあるのにうんざりしただなんていうのは甘えなのよ! 死んでようが何だろうが、生きてるうちは生きなさいよ!」
「──あぶねえっ!」
ミキオがあわててあたしの腕をつかんで、引っぱった。
はっとしてそのまま走りだす。
後ろを見ると、思っていたよりも近くに〈歯車〉が迫っていた。
あたしも変になっていたのか、一瞬それがいることを忘れていた。
腕をつかまれたまま一緒に走って坂道を抜けた。
〈歯車〉から遠ざかり、安全といっていい距離をとる。
そのまま二人して黙ったまま、しばらく走った。
夜道の風景はいままでと同じだ。でも、不安の波がだんだんおさまってきたからか、さっきとは違う澄んだものに見えてきた。
不思議だった。なにも変わっていないのに、そんなふうに見えてくるのが。
唐突にミキオがくすくす笑いだした。
「──なに、笑ってるのよ」
またムカムカしてくる。
「……いや……ごめん、なんか……笑えてきて……くっ……」
そういって、また、くっ、くっ、と笑いつづける。
その笑いはぎくしゃくとしていたが、冷たいものではなかった。
「ごめん」
ともう一度いった。
呆れるような気持ちになったが、しまいにはあたしもおかしくなってきて、ちょっと笑ってしまった。
どうでもいい、だったのに、あぶねえっ、だからな。
やっぱりどうでもよくはないのだ。
功志くんとは違うのだ、ミキオは。あんなふうにはなれっこないのだろう。自分から向こう側へ、踏み越えるようなことは。
物思いにふけりながら一緒にとことこと走っていると、もう完全にいつものような何事もない夜だった。
──生きてるうちは生きる。
そんな言葉、本当はいうべきではないのかもしれないな。
他人の苦しみなんて、わかるわけが、ないのだから。
でもいいや。とりあえずミキオは大丈夫みたいだし。終わりよければすべてよし。結果オーライだ。
……いや、笑われて終わりというのは、やっぱり釈然としないような……。
ふと見ると、ミキオは後ろをふり返って〈歯車〉を見つめていた。
「おれには、できないのかな」
残念そうに呟いて、ミキオはつかんでいたあたしの腕を離した。
朝になり、〈歯車〉は消えた。現れるときの発光とは違って、すっと消えてしまう。あまりにも呆気ないから、最初からいなかったような気にさえなる。毎朝のことだけど。
あたしとミキオは霊園に向かった。
なんの待ち合わせもなくはぐれたら、最後に遊んでいた場所に戻るようにしている。覚えようとしてはいないのに、道がわからなくなることは不思議となかった。生きていたときの記憶の在り方とはずいぶん違う気がする。
もしも、六人でいることが嫌になったとしたら、いつでも逃げられるわけだ。戻らなければ。
ジョギング中の人にいたずらをして、おじさんが散歩させている犬とたわむれ、自転車を走らせて何度か人にぶつかってしまったりしつつ、あたしたちは霊園に辿りついた。
お墓に囲まれてみんなは待っていた。
ジロウとユキがサッカーボールを蹴って遊び、シンイチくんはなぜだか木の上で携帯ゲーム機に熱中し、カナエは本を読んでいた。
「おかえり」
と上からシンイチくんがいった。
カナエも「おかえり」といい、ユキは手をぶんぶん振ってよくわからない身振りをした。ジロウはボールをミキオに向かって蹴ってきて、「うわっ」とミキオは顔面すれすれでかわした。
前と同じように、やっぱりみんなは心配とかはあまりしていないようだった。
そんな雰囲気に触れると、あの不安や、夜の深刻さが、幻みたいに思えてきた。馬鹿馬鹿しいことで騒いでいたような気さえする。
ミキオもそう感じたのか、苦笑していた。
「ただいま」
とあたしは小さな声でいった。
なんだかもう全部笑い話みたいで、泣きたいくらいの気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます