雨上がりの……
ザーッと降ってきたのは、ほんの数分だけのことだった。すぐに傘を叩く雨粒は、ポツポツと優しくなっている。
あたしたちは、あれからしばらくひと言も口をきいていない。
ツカサに言われたことを、雨粒が傘を叩く音を聞きながら考えてしまう。
間違ってはいないかもしれない。
あたしは、自分のことに必死になったことが記憶になかった。というよりも、誰かのために必死になることが、あたしのためになっていた。
だから、自分のために働いても長続きしなかったのかもしれない。働かなくても、あたしは生きていけるから。
後になって、そうだったことに気がつかされることもある。って、ついこの前、サヤちゃんが教えてくれた通りじゃないか。
あたしたちは、自分が考えているほど、自分のことをよく知らないのかもしれない。
少なくとも、ツカサにとって、あたしはそういう人間なんだ。それだけは、はっきりしている。
「あのさ……」
ツカサがようやく口を開いたのは、公園とアパートのちょうど中間のあたりだった。どうやら、あたしは思っていたよりも遠くまで来ていたようだ。
「サヤちゃん、ハンバーグでお祝いしてもらうことにしたってさ。どうせなら、好きなものがいいって。ミコトを探しているときに、スマホに連絡してくれたんだ」
「へぇ、サヤちゃん、強いね。自分でちゃんと解決できたんだ」
サヤちゃんは、本当にすごい子だ。
ポツリポツリと降っていた雨がやむ。
先に傘を閉じたツカサが、軽く笑った。
「ミコトのおかげだってさ」
「たいしたことも話も聞いてやれなかったのに?」
「そうだよ。たぶん、誰かに話がしたかっただけじゃないかな。俺も、話しながら、自分の考えを整理するタイプだし」
自分でも、意外なくらいスムーズに会話が進んでいる。
ただし、もうチカコのことには簡単に触れられそうにない。そんなことはない。あたしがほんの少し勇気を出せばいいってわかっているから、そんな言い訳がましいことを考えてしまうんだろう。
あたしは、こんなに臆病で慎重な人間じゃなかったはずだ。もっとしっかりとした決断力があると思いこんでいた。もしかしたら相手がツカサだから、こんなに臆病で慎重になっているのかもしれない。
「家族ごっこはなんだかんだで、楽しかったよな。ミコトがいなかったら、あんなに楽しくなかっただろけど」
「サヤちゃんには悪いけど、もっと続けばいいって考えないこともなかったな。シシッ」
「そのくらい、楽しかったもんな」
ようやく笑顔になったと、ツカサがホッとしてるのがわかる。
「サヤちゃんって、ミコトに似てるなって最初は思ったんだよなぁ」
「は?」
思わず足を止めると、ツカサも足を止めてあたしが歩き出すの待ってくれた。
「でも、そうでもなかったね。サヤちゃんは、ちゃんと誰かに助けを求めることができるし、逃げ出すこともできる。俺には、そんなことできなかったのに……」
「だよな。まだ小学五年生、なんだよな」
もし、チカコが助けを求めたり逃げ出すことができれば、あんなことにはならなかったかもしれない。
初めて、チカコのことがかわいそうだと思った。ずっとずっと大嫌いで憎くてしかたなかったのに。
ツカサは、ずっとチカコを助けたがっていた。あの日だって、通学路でもないのに、なぜ踏み切りにいたのか、想像できてしまうんだ。もし、ツカサがチカコの手を引いてわたしたちの前に友だちだと連れてきたら、もしかしたら、仲良くなれたかもしれない。正直、少しだけうらやましかったりしたんだ。先生を怒らせるようなことを平気で口にして、間違っていないと胸を張っていられた頑固さに、あこがれていたんだ。
まだ空に太陽は戻らない。
雨が止んだ途端に、汗と雨で濡れた髪や、シャツの不快感が何倍にも跳ね上がった。湿度のせいで、乾かないし。でも、今は不快感なんて気にしていられない。
今は、こじれた関係を修復する時なんだ。そう確信している。もう二十年以上もこじれた関係を解きほぐして、もう一度しっかりきれいに結び直す。今しかないと、根拠もないのに確信している。
「ツカサは、ガキ大将だったよな」
「あー、そうだったかも」
「それが、今じゃヘタレ野郎で……」
「あー、そうだな」
本当は、ガキ大将というよりクラスに一人はいたスポーツができる背が高い人気者だ。あたしがどんなに、ツカサに一番近い女子のポジションをキープするために努力したのかなんて、まだ知られたくない。
「ミコトは、女の子らしくなかったよな」
「どういう意味だよ」
「女子って意識しなくても友だちでいられたって意味だよ」
心臓が跳ね上がった。よくある効果音で表すなら、ドキンッだ。
また足が止まってしまったのに、今度は待ってくれなかった。慌てて追いつくけど、気のせいかツカサの歩くスピードが上がっていた。
「それも、どういう意味だよ。てか、なんか……」
期待してしまうじゃないか。
「そのまんまだよ。一緒にいて楽しかったし、ずっと一緒にいたいって思ってた」
乱暴な口調は、怒っているというより、照れ隠しみたいじゃないか。
これは、ますます期待していいのだろうか。
ツカサも、もしかしてあたしと――けど、過去形だった。でも、今なら現在進行形に変えられるんじゃないか。
「なぁ、ツカサ。あたしは、もうチカコのこと忘れてほしい」
「……」
ツカサの横顔を見上げることはできない。でも、耳を傾けてくれている。いつも怒って遮って来たのに。今日は耳を傾けてくれている。ツカサが言ったとおりだ。ツカサがチカコを悪く言うなって怒って泣いたから、あたしは避け続けてきた。話すことだけじゃなくて、チカコのことを深く考えることも。
「あたしらも、小学五年生だったんだ。大人が味方してくれないのに、誰かを助けるには、力不足だったんだよ。サヤちゃんみたいに、大人を頼る勇気があったら、違っていたかもしれないけど、あたしらにはどうすることもできなかっただろ」
「わかっている。そんなこと、今さら言われなくても、わかっている」
ツカサの声は、静かで落ち着いていた。その声だけで、あたしはちゃんと受け止めてもらえたのだと、信じられた。本当は、こんなものじゃなかった。もっとチカコに対しては、自分でも嫌になるほどドロドロとした感情があったはずなのに。だから、蓋をしてきたはずなのに、開けてみたらほとんど残っていなかった。時間が経ってしまったからか、この夏の家族ごっこの影響か、ツカサのように話しながら気持ちを整理できたからなのか、他にも理由はあるかもしれないし、理由は一つじゃないかもしれない。まぁ、理由なんかどうでもいい。
とにかく、今のあたしの心は、さっきまで感情的になっていたのが嘘みたいに晴れやかだ。もしかしたら、さっきの通り雨に降られるうちに流れ出していったのかもしれない。
水たまりに少しずつ空の青がうつるようになってきた。
ツカサはなんて言おうか、言葉を探しているようだ。空気中に言葉が隠れているわけがないのに。昔からこうだ。返事に困ると、こうして視線が宙をさまよう。すぐに言い返せないところは、もともとヘタレな要素があったのかもしれない。あたしは沈黙は好きじゃないけど、この時間は好きだった。
いくつ、水たまりを避けて歩いてきただろう。もうすぐアパートの前のコンビニの看板が見えてくるころだ。
ようやく、ツカサは言葉を全部探し出したようだ。
「チカちゃんのことで、俺が病むことないことくらいわかってたんだよな。だけど、だからって忘れるのもなんか罪悪感があってさ……正直、もうはっきり思い出せないんだよ。チカちゃんの顔もさ……」
「まぁ、無理に忘れることはないけど、いつまでも罪悪感抱えてるのはどうかと思うよ、あたしは」
「そういう、ことなんだろうな」
困ったように笑いながら、ツカサは頭をかく。
割り切ってしまえば、楽になる。
頭ではわかっていても、割り切ることが怖くて抱え続けてしまう。人間って、そういうものかもしれない。あたしだって、ツカサのことを、過去の男と割り切ってしまえば、楽だったに違いないんだ。タトゥーを入れることもなかっただろうし、もっと別の生き方をしていたかもしれない。ツカサが言うように他人のために必死になることもなく、自分のためにありきたりな人生を送っていたかもしれない。
大きな水たまりを避けるように進んで、ツカサが隣にいないことに気がつく。
「ミコト、ちょっとストップ」
振り返るのと、ツカサの明るい声が響くのと、ほとんど同時だった。
「そこ、動かないで」
明るく弾んだ声は、住宅地の路地には場違いだった。子どもならまだしも、三十四の大人が無邪気な明るい声を上げるには、あまりにも場違いだった。
軽く助走をつけて、ツカサはあたしが避けるように進んだ大きな水たまりを飛び越えた。
「よっと!」
水たまりを飛び越えたツカサの顔には、純粋な達成感があった。軽くガッツポーズまでしてみせるのが、なんだかおかしい。
「ミコト、さっき家族ごっこ続けてもって考えないこともなかったって言ったよな」
「言ったな」
「もう一度、しようか」
「いや、サヤちゃんはもう……」
「そうじゃなくて、ミコトともう一度新しく始めたいって言ってるんだ」
「……」
ツカサの目は、もう子どもじゃなかった。真剣な大人の目だった。
「今度は、『ごっこ』じゃなくて、本物で始めよう。つまり、その……結婚しよう」
世界が止まるって、きっとこういうことを言うんだろう。
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