傘がない
気まずい沈黙がどのくらい続いたのか、あたしはまったく覚えていない。
ツカサもツカサで、思うことがあったんだろう。
沈黙を破ったのは、どちらの声でもなかった。
情けないことに、あたしのお腹が空腹を訴える音だった。ずっと目をそらしていたツカサが、ぎょっとするほどの音で恥ずかしくなった。
「……そんなに見るなよ」
「悪い。ちょっとびっくりしただけで……」
ますます気まずくなった。
ツカサの視線に釣られるように壁掛け時計を見れば、正午過ぎ。
サクラのおかげで気分転換と覚悟ができたとはいえ、まだちゃんとした朝食を用意する余裕はなかった。買っておいたことも忘れていたシリアルで軽くとったのが、失敗だった。もともと、朝食は軽めのあたしだったけど、ツカサとサヤちゃんのためにと張り切っていたせいで、胃袋の感覚がおかしくなっていたのかもしれない。
「コンビニで何か買ってこようか。ツカサも腹が減っただろ」
「あ、いや、行かなくていいよ。そろそろ……」
ピンポーン
「あ、来た。ちょっと待ってろ」
「え、あ、わかったけど……」
玄関に向かうツカサの足取りは、しっかりしている。
心配するほどではないのかもしれない。
気のせいだろうか、美味しそうな匂いがする。
しばらくして、ツカサはピザの箱を抱えて戻ってきた。
「サヤちゃんが来るって言うから、頼んでおいたんだ」
「あ、そうなんだ」
「食べていけよ。俺一人じゃ食べきれないし」
「ありがとう」
ツカサはあたしのぶんのコップも用意してくれた。まだ処分していなかったんだな。
「いただきます」
家族ごっこをするうちに、手を合わせるのが習慣になっていた。
もくもくと食べる。
「ミコトって、本当に食べることが好きだよな」
突然、何を言い出すのかと顔を上げて初めて、ツカサにじっと見られていたことに気がついた。
「いや、別に深い意味はないんだ……ミコトって本当に美味しそうに食べるよなって思ってさ」
たしかに、あたしは美味しいものを食べるのが好きだ。高級感なんていらない。SNS映えもいらない。ジャンクフードでも、美味しいのが一番だ。
「ミコトが来てくれて、本当に助かったよ」
「たまたまだけどな。サヤちゃんがあんな顔して飛び出してきたら、誰だって放っておけないだろ」
ツカサはもう食べられないと、ウェットティッシュで指先を拭う。まだ三ピースしか食べてないのに。
「俺は、誰だってとは思わないけどね。どんな顔してたのか知らないけど、きっとサヤちゃんのことを見て見ぬふりをする人のほうが多いに決まってる。たまたまでも、ミコトが通りがかってくれたから助かったんだよ。俺じゃ、サヤちゃんの相談に乗ってやることもできなかったしな」
ああ、やっぱりと納得してしまった。
「ツカサ、お前、どこから聞いていたんだ」
「……全部。悪い。久々に過呼吸起こして、体中が痺れて横になるしかなかったんだ。ミコトに抱き起こされたのも覚えている」
「だったら、もっと早く声かけてくれてもいいじゃないか」
そうすれば、こんな気まずいことにはならなかった。
ツカサは視線をさまよわせて、見えない空気の中から答えを探し出そうとしているようだった。答えは、自分自身の中にあるものなのに。しばらく空気中の中を探し回っていたけど、見つけられなかったらしい。一度目を閉じて、ツカサは自分の中から答えを正直な答えをすくいあげた。
「ミコトがチカちゃんのことをどう思っていたのか、聞きたかったんだ」
「……なんで」
びっくりするくらい、あたしの声は硬かった。あれほどツカサにチカコのことを忘れさせようと決意してやってきたのに。
腹立たしいったらない。
こんなにツカサに腹を立てたのは、久しぶりだ。
「だから、あそこで口を挟んだんだな」
「悪い。俺、臆病だからさ。サヤちゃんに幻滅されるのが、やっぱり怖くなってさ」
プツンと何かが切れる音を聞いたような気がした。たぶん、堪忍袋の緒とか、そういうもの。コップが倒れるほどの勢いで座卓を叩きつけた音よりも、不思議なことに大きく聞こえてきた。
「ふざけるなよ!」
頭が真っ白になった。
サヤちゃんには話せなかったことがある。
チカコの自殺のショックで、ツカサは変わってしまった。彼が元に戻ろうと苦しみながらもがいていたことも知っている。ツカサのために、あたしはできることはなんだってやってきたつもりだ。
日常生活をスムーズ過ごせるようになったのは、小学校を卒業してからだ。
大人たちが想像していたほど、ツカサは弱くなかった。あたしは、それがなんだか誇らしかった。
けど、ツカサはどんなに日常生活を取り戻しても、性に対する強い忌避感だけはなくならなかった。
チカコの自殺の原因になった保健体育の授業で、セックスのこともあつかっていたんだろう。あたしは想像するしかないけど、間違っていないはずだ。
そうでなかったら、あの時ツカサと――
気がついたら、アパートを飛び出していた。
立ち止まって、ようやく気がつく。最後に肩で息をするくらいがむしゃらに走ったのは、いつだっただろう。
「……馬鹿みたいだ」
近くに小さな公園があったことを思い出して、足を運ぶ。
いつの間にか、どんよりとした雲が広がっていた。
公園には、すべり台とブランコ、それからベンチが一つ。
「最悪」
ベンチに腰を下ろした途端に、ポツリポツリと降ってきた。
降り出してきたというのに、動けない。
車はツカサのアパートの駐車場。
それでなくても、スマホや鍵をあいつの家においてきてしまった。
「何やってるんだろ」
ポツリポツリが、ポツポツに変わってきた。すぐにでもザーッとなりそうだ。
でも、どうでもいい。
今は動けない。
「いたぁ!」
「え?」
ツカサの声が聞こえた。まさか、幻聴じゃないかと思ってたら、傘をさしたツカサが息を切らして目の前に立っていた。
「いきなり飛び出していくなよ。ほら、これ」
ツカサが乱暴に押し付けてきたのは、赤い『M』のネームタグがくくりつけられたビニール傘だ。
「これ……」
「ミコトの傘。捨てなくて正解だったよ」
サヤちゃんとスーパーまで歩いて買い物に行った帰りに、雨が降ってきたときに買った傘だ。
「いつまで濡れてるつもりだよ。サヤちゃんもミコトも、雨に濡れるのが好きだよな」
「好きなわけないだろ」
さすがに頭にきて傘を広げる。
すると、ツカサは安堵と申し訳なさを混ぜた情けない表情になった。
「本当に、ごめん。俺のせいなんだろ……俺が、チカちゃんのこと悪く言うなって言ったんだよな」
すぐになんのことを言っているのか、わからなかった。
「ミコトはさ、本当に自分のことより他人だよな。だから、さっきはちょっと安心した」
「は?」
「ミコトもちゃんと自分のことで怒るだって、ちょっと安心したんだよ。いつも、誰かのために怒ったり必死になったりするじゃないか」
まだ何を言っているのか、わからない。
あたしは、ツカサが言っているような人間じゃない。あたしは、楽しく面白く生きていたいだけだ。たまたま不自由しないだけのお金を持っているだけ。そうでなかったら、真面目に働いてありきたりな人生を送っているはずだ。
そう自分の意見をまとめて反論する前に、ツカサは傘を持っていないほうの手で頭をかきむしった。
「とにかく、帰るぞ。いくら夏だからって、このままじゃ風邪引くだろ」
きょとんとしているあたしの手を引っ張り上げて、強引に立たされた。
雨は、ポツポツからザーッに変わっていた。
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