降りそうで降らない
「ねぇ、ミコト。はっきり言って、今のあなたには、そうとうイライラさせられているの」
「申し訳ないと思っているんだけどな」
ピンクの軽自動車のハンドルを握るサクラには、申し訳無さと感謝の気持ちでいっぱいだ。だが、今はこれ以上あたしにどうしろと言うんだ。
「早く割り切れるように、努力するよ」
「そうじゃないから」
本当に特にあてがあるわけでもなく、ただ生まれ育った街を車で巡っているだけだ。
「ミコト。あのね、そうじゃないの。わたしは割り切ってほしいわけじゃないの。むしろ、その逆よ」
「逆?」
「そう、逆。がつーんって言ってやりなさいよ。チカちゃんのことなんか、もう気にするなって。いっそのこと、『あたしがチカちゃんのこと忘れさせてやる!!』って、押し倒しちゃえばいいの」
「いや、だめだろ、それは」
「ミコト、あなた一体、何を遠慮してるの?」
「えーっとそれはぁ……」
鋭い舌打ちをしたサクラは、たまたま近くにあった公園の駐車場に車を止めた。整備されたため池の周りにはジョギングコースがあって、広い芝生広場に、アスレチックフィールドもある、広い公園だ。ゴールデンウィークとかなら、無料スポットとして家族連れでそこそこ賑わう。だが、今は夏だ。
「わかってる。言わなくてもいい。あなたは、ツカサと関係が修復不可能なくらい壊れるのが怖いのよ。だから、遠慮してるんでしょ。死んだ人間に遠慮するとか、馬鹿でしょ。あぁもぉおおおおおおおおイライラするぅううううう!!」
キレイに手入れされた爪で、サクラは頭をかきむしる。
「落ち着けって、サクラ」
「誰のせいだと思ってるのよ、まったく!! ちょっと歩きましょう」
今日は日差しがきつい。
そんな日にあるきたがるようなやつじゃないのに、よほどイライラしているようだ。その原因があたしだというなら、つきあうしかない。
「暑ぅ」
先に音を上げたのは、サクラだった。まだガラガラに空いている駐車場を出ていないというのに、これはないだろう。
たしかに暑い。まだ八月で、今日はよく晴れている。だから、当たり前のことじゃないか。ツクツクボウシが鳴き声に、少しだけ夏の終わりを感じるものの、入り口のモニュメントに設置してあるデジタル温度計は、今日も猛暑日であると告げている。そんなモノがなくても、猛暑だということは、体でわかるっていうのに。
「前言撤回。カフェでお茶しましょうよぉ」
「おいおい」
「だってぇ」
「せめて、休憩所まで頑張れよ。サクラが歩きたいって言ったんだろ」
「そうだけどぉ」
そういや、昔からサクラは暑いのが苦手だったな。
サクラの弱音を聞き流しながら、あたしも汗を流しながら、ガラス張りの無料休憩所にたどり着いた。予想に反して、無人だった。ちらほら、この暑い中ウォーキングやアスレチックに挑んでいる猛者を見かけたりしたのに。理由はすぐにわかった。休憩所内は、期待していたほど涼しい。冷房をかけているんだろうけど、ガラス張りのせいでほとんど効果がない。むしろ、空気がこもっている。
とりあえず、日陰になっているベンチにサクラを座らせて、自販機で二本缶コーヒーを買って戻る。
「なんで、こんなに暑いのよぉ」
「夏だからだろ。ほら」
「サンキュ」
パタパタとハンカチを扇いでいるサクラは、缶コーヒーを一気に喉に流しこんだ。生き返るぅとか言うくらいなら、外に出なければよかったのにと苦笑しながら、あたしも缶のプルタブに手をかけた。
「で、わたし、本当に理解できないんだよね。なんで、そんなにチカコに遠慮しているのかさぁ。死んだ人間を悪く言いたくないのはわかるけどさ。でも、いつまでも引きずってるのはおかしいでしょ。こうして、あんたは傷ついている。それも、日常生活に支障をきたすくらい傷ついてるのよ。まだ自覚ないみたいだけど」
サクラは暑さにへばりながらも、当初の目的を忘れてくれなかったらしい。あたしとしては、それを期待したんだが当てが外れた。
「うっ、苦っ……」
「あんた、それ、ブラックじゃない。まったく、微糖と間違えるなんて、まだまだ駄目じゃない」
サクラが呆れて、間違えて渡した微糖の缶を振って見せつけてくる。苦手なブラックコーヒーに顔をしかめながら、返す言葉を探し出した。
「サクラの言っていることは、頭ではわかっているんだよ」
「わかっていても、行動できないなんて意味ないじゃない。なんなら、わたしがツカサに言ってあげてもいいのよ。チカコのことなんて忘れて、ミコトとくっつきなさいって」
「それは、勘弁してほしいな」
これじゃ、堂々巡りだ。サクラはたぶん、熱中症でぶっ倒れるまで粘るだろう。もしかしたら、計算づくだったのかもしれない。
フワッとした可愛い外見に似合わず、案外強情で計算高いところもあるんだよな。苦手なブラックコーヒーが、ますます苦くなった気がする。これは、あたしが「はい」と答えなきゃいけないんだろう。ケンジの退院のこともあるし。
とはいえ、わかっていてもなかなか「はい」が言えない。
汗が、首筋を這うように流れ落ちる。
なぜか蛇を連想してしまった。蛇は嫌いだ。怖いんじゃなくて、憎いとかそういう感情が湧き立つ。不快感が鎌首をもたげる。と同時に、左の鎖骨にある蛇のタトゥーを意識してしまった。
今では、本当に存在したのかもあやふやな男子中学生との束の間の邂逅。あたしの前世が蛇だとかなんとか、言ってきたあの少年は、まだ蛇に恐怖心を抱いているのだろうか。あのときは、蛇への憎しみが同族嫌悪なのかと根拠もなく納得してしまった。いや、あのときは白昼夢という根拠が、たしかにあったんだ。
指先でなぞったこのタトゥーがなければ、あの少年ごと白昼夢になって忘れてしまっていただろう。
あの時、一度はしっかり自分の嫌な部分と向き合えた気がしたんだ。
もう一度、汗ばんだシャツの上から、蛇のタトゥーをなぞる。
今、もう一度、あたしが一番大嫌いな蛇――自分――に向き合うときじゃないか。
「あたしは、たぶん、ツカサのほうから言ってほしいんだ」
「と、言いますと?」
雲が出てきたのか、急に薄暗くなってきた。
そういえば、今日の天気予報を確認していなかったな。
『死んだチカちゃんのことを悪く言うな!』
小学生じゃあるまいし、顔を真っ赤にして泣きながら怒っているツカサが、ふっと脳裏をかすめた。
あのときは、ひどい顔してるなとか考える余裕はなかったけど、今思うと、これでもかというくらいひどい顔だ。たぶん、あたしだって同じくらいひどい顔をしていただろう。
後にも先にも、きっとあれが最初で最後のひどい喧嘩だっただろう。というか、あれっきりにしたい。もうあたしは、三十四だ。十七歳じゃない。あのころみたいに、若くない。先のことを考えるし、リスクも考える。
けど、もういいじゃないか。
ハナちゃんがガツンと言ってくれたおかげで、そう思えた。
「ツカサが、自分でケリをつけてほしいんだよ。チカコのことは、あいつのせいじゃないだろ。あのクソ教師が追い詰めたんだろ。だから、そのうち昔の話になるとおもってたんだよ」
「まぁ、そうだよねぇ。そもそも、ツカサのやつ、チカコとほとんど話したこともなかったじゃん」
「だから、あたしはチカコが許せないんだよ」
自分でも驚くほど、すとんと言葉が出てきた。もっとずっと、ひどい声で言ってしまうと思っていたのに、拍子抜けするほど静かで淡々と休憩所に響いた。
さっき雲行きが怪しいと思ってたのに、今ではすっかり空が重苦しくなっている。
「降ってくるかな」
「降ってもどうせすぐに止むわよ。ほら、ミコト、続けて続けて」
「わかったよ」
日差しが遮られたからと言って、すぐに冷房が効果を発揮してくれるわけではないようだ。まだまだ、じっとりして暑い。
「何をすればいいのかなんて、わかってるんだよ。あたしも、はっきり態度をしめせばいいってことくらい、わかっているんだ。だから、サクラの言うとおりなんだ」
「じゃあ、何をそんなにグズグズしているの?」
「それは……やっぱり怖いからだろな」
まるで他人事のように言って笑う。
今にも降り出しそうで降らない空は、まるで大事なことを踏み出せないあたしみたいじゃないか。
苦いコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がって両手を突き上げる。
「でも、いつまでも怖がってても、サクラたちに心配かけるだけだし、今月中にはどうにかするよ」
「今月中?」
「そ、今月中。夏が過ぎる前にね」
「そこ、夏が終わる前、じゃないの?」
「いいんだよ。過ぎるで」
結局、雨は降らなかった。
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