親友

 ハナちゃんが怒るのも、無理はなかったと思う。


 昨夜は、チカコのことに触れないように話すうちに、あたしはツカサへの想いまでもごまかしていたんだな。


 ほとんどベッドの上でゴロゴロしていたというのに、久しぶりにまともに寝たなんて妙な気分だ。ベッドで充実感に浸りながら、ハナちゃんに言われたことをまた考えている。


 ハナちゃんは返す言葉を見つけられないあたしに、ため息をついて帰っていってしまった。

 気まずい雰囲気から逃げるように、ミキも帰っていった。

 それから、リョウさんも気にするなと笑いながら明日の仕事があるからと帰っていった。


 あたしは、ハナちゃんにはっきり言ってもらえて、ようやく今度こそ目が覚めた。ハナちゃんの問いかけは、まさに強烈なビンタのようだった。

 いったい、いつからあたしらしくなくなっていたんだろう。

 この家に帰ってきてからじゃない。もっと前、夏祭りよりももっと前、八月の初めにサヤちゃんの言葉で意識しすぎるよりも前だ。

 たぶん、不在着信の通知でツカサの名前を見たときから、あたしは浮かれていたんだ。

 自覚がなかっただけで、今ならわかる。

 ツカサは、たぶんあたしは誰に対しても同じように家族ごっこをしたと考えているかもしれない。でも、それは違う。あたしは、ツカサだから、サヤちゃんにもあれだけお節介ができたんだ。


 横目でベッドサイドテーブルに置いてあるデジタル時計を見ると、『08:48』。


 そろそろ起きて、日常を取り戻さないと。


「……ハナちゃんには、嫌われちゃったかな」


 ぼやいて、ベッドから抜け出そうとしたが、失敗した。ガシッと音が聞こえてきそうなほど、しっかり右手首を掴まれたのだ。


「ぅうん、どこ行くの?」


「トイレ。しっこだよ」


「しっこだなんて、はしたなぃ。あ、おはよ、ミコト」


 サクラはもう片方の手で目をこすりながらも、あたしの手首をしっかり掴んで離してくれない。


「おはよ、サクラ。手ぇ、離して」


「しょうがないなぁ……すぐ戻ってきてよ」


「はいはい」


 なんで、トイレに行くだけでこんな目に合わなきゃならないんだ。


 用を足して、洗面台の鏡の中のあたしに向き合うと、昨日にくらべてずいぶん顔色がよくなっていた。いや、逆に昨日がひどすぎたんだな。最近は、その時は気がつかないで、あとで思い知ることが多すぎる。それだけ、余裕がないってことだろうか。


「やれやれだな……」


「ミィコォトォオオ」


「はいはい、今行くよ」


 サクラがいつまでもおとなしく待ってくれるはずがない。


 昨夜、サクラだけが残った。心配だからと残ってくれたのは、申し訳ないけど嬉しい。

 サクラは、小学生の頃からの親友だ。彼女には、たくさん支えられてきた。チカコの自殺せいでツカサが不登校になったとき、初めての告白の不安を打ち明けたとき、散々な別れをして立ち直るのに時間がかかったとき――彼女がいなかったら、今のあたしはいない。そのくらいサクラは大切な親友だ。


 大切な親友なんだが、よくよく考えてみれば、昨夜は一緒のベッドで寝ることはなかったんじゃないか。今は入院中の夫のケンジが出張しているときとか、喧嘩したときとか、このベッドでセックスした回数は少なくない。ケンジは、サクラほど性欲がない。サクラがあたしとセックスしていることを、彼は承知している。初めは抵抗があったようだけど、セックスの回数が少なくてイライラが抑えられないよりはマシだと気がついてからは、むしろ彼のほうからサクラを押し付けられていると感じることも少なくない。何年か前に、レズ風俗のレビューか何かを読んで、ケンジのやつは夫公認で通ってる女性もいるらしいと、ドヤ顔で言ってきたりした。そのほうが、結婚生活がうまくいくケースがあるなら、大歓迎といった感じで。もしかしたら、そういう性癖の持ち主かと思わないでもないが、結婚五年目の二人は愛し合っている。


 ベッドで仰向けになっているサクラを見下ろして、ため息が出る。


「で、いつまでここにいるんだよ」


「今日の午後、ケンちゃんが退院するの。お迎えに行くまではここにいる」


「今日の午後な」


 ベッドサイドテーブルで充電しておいたスマホに、ハナちゃんからメッセージが届いていた。


『本当にごめんなさい!』


『すみませんでした』


『相手のこともよく知りもしないで、失礼なこと言いました!』


『本当にすみませんでしたm(_ _)m』


『俺の言ったことなんか、忘れてください』


 そんなに謝るくらいなら、言わなきゃよかったのに。


「シシッ。ハナちゃんはかわいいなぁ」


「ん?」


「昨日のこと、すげー謝ってきてる」


 体を起こしたサクラにも、スマホを見せてやる。


「ハナちゃんらしいね。あの子、いつも後で後悔するタイプよね」


「後悔は後でするものだろ」


 日本語がちょっとおかしい。


『気にしてないから、もう謝るなよ』


 サムズ・アップしているクマのスタンプも添えておく。それから、ついでにもうひと文追加する。


『今度、カノジョ紹介してくれよな(๑•̀ㅂ•́)و✧』


 二度と恋愛なんかしないと誓ってたハナちゃんの心を射止めた婚約者は、どんな人だろうか。気にならないわけがない。

 それにしても、だ。


「ハナちゃんが言ったことも、もっともなんだよなぁ」


「え、ミコト、もしかしてまだ気にしてるの? 昨夜はショックだったみたいだけど、今はケロッとしてるから、わたしてっきりもう気にしてないって思ってたんだけど……」


 顔色を変えたサクラはベッドから身を乗り出して、ピンクのネグリジェの胸元を開く。


「おっぱい揉む? スッキリするわよ」


「……遠慮しておくよ」


「えー」


 唇を尖らせて不満を訴えるサクラのおっぱいは魅力的だが、揉むだけではすまないことくらいわかる。だからこうして、スツールに腰掛けてベッドから距離を取っているんじゃないか。


「昨夜は、ショックだったというより、目が覚めて考えさせられた感じかな」


「そう、だったの? じゃあ、スッキリしているのは……」


「一晩考えて、やっぱりツカサのことは、ハナちゃんが言ってた高嶺の花だからってわけじゃないってハッキリしたからね」


「やっぱり、好きなんだね」


「まぁ、でも、今回も割り切るしかないかなぁ」


「え? ちょ、どうして?」


 サクラがますます身を乗り出してきた。


「セックスできなくてもいいじゃない。わたしみたいなのもいるわけだし、ツカサだって知っているでしょ、わたしとケンちゃんのこととか……ミコトのセックスフレンドのこととか。ツカサにその気があれば、いいじゃない。あいつだって、少なくともミコトのこときらいじゃないはずだし……」


「チカコが邪魔するんだ」


 まくし立てるサクラに、あたしはチカコの名前を口にしてしまった。


「チカコが、また邪魔したんだ。あと少しだったんだ。あと少しでヤレたんだ」


 ハナちゃんたちにチカコのことに触れられなかったのは、死んだ人間に自分の嫌な部分を全部ぶつけてしまいそうだったからだ。

 前回もあたしたちの関係を台無しにしたあの子が許せない。憎い。死んでいるから、直接憎しみをぶつけることもできない。ただひたすら死んだ人間相手に憎しみを募らせてしまう自分が、一番許せない。


「まったく、世話が焼けるんだから」


 出かけるから着替えてと、サクラが頬をつねってきた。


「いてっ。どこに出かけるっていうんだよ」


「場所なんかどこでもいいわよ。閉じこもっているより、たまには外に出たほうがいいってこと」


 クローゼットの中から、サクラは勝手にあたしの服を見繕う。


「これ、言わないつもりだったけど、言っておくわ。ハナちゃんには、ちゃんとチカコのこと教えておいたからね。」


「いつ?」


「ミコトが寝てから。あんたが話さなかった理由もちゃんとね」


「まじか」


「だから、謝ってくれたんじゃない。そもそも、あんたがちゃんとぶちまけておけば、ハナちゃんだってあんなこと言わなかったでしょうよ」


「あー……なんて言ったらいいのか、本当に、そのありがとうな」


「案外、ぶちまけたら大したことなかったりするんじゃないの? チカコが自殺したのだって、もう二十年以上前のことよ」


 そう言われて、初めてそんな気がしてきた。


「顔洗ってくるから、これに着替えて。気分転換にドライブ行くわよ」


「わかった」


 今のあたしには、気分転換が必要なのかもしれない。

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