水入らず
サヤちゃんが、家族と向き合って頑張っているというのに、俺はいつものように仕事をしていた。
ボーッとしてることが多いと社長に、普段からよく言われる。だから、社長と一緒に仕事するときは、意識的にボーっとしないようにしている。けど、今日は、どうもうまくいかなかったようだ。何かトラブルでもあったのかと、久しぶりに心配されてしまった。あまり私生活まで干渉しない社長にそう言われると、ミコトのことを相談したくなってしまった。もちろん、相談なんかできるわけがなかったけど。
「お疲れ様でしたぁ」
「ああ、気をつけてなぁ」
適当にごまかしても、変な気を遣わせるだけだとわかっている。だから、ちょっとしたことで悩んでいるだけだと、そのうち解決すると言ってしまった。何をすれば解決するかわかっているのに、なかなかそれができないだけだ――とまで、言ってしまった。けど、それでよかった。社長に踏み込まれずにすんだ。
「サヤちゃんは、うまくいったみたいだな」
スマホに、母さんとタクミから送られてきたサヤちゃんと両親の笑顔の写真を見て、気持ちを切り替えてから、自転車のスタンドを蹴り上げる。
どんなことを話したのか、俺は知らない。ルミさんがちゃんとサヤちゃんに謝ることができたのかとか、サヤちゃんが自分の気持ちをちゃんと伝えられたのかとか、気にならないわけがなかった。でも、その写真を見れば、どうでもよくなった。
ただ、サヤちゃんが笑顔で家に帰れる。それだけで、この三週間の家族ごっこは無駄じゃなかったと証明されたようなものだ。
今晩は、サヤちゃんは自分の家で過ごすことになった。
ゆっくり美味しいものでも食べながら、この三週間の話をするんだろうな。
「うん。トイレの便座とか、恥ずかしい話はしてないよな」
まぁ、それで場が和むなら、笑い話にされるのも悪くないか。
家族写真のサヤちゃんの笑顔を思い返しては、胸が温かくなる。
サヤちゃんとの三週間を振り返りながら帰った俺は、大事なことを失念していた。
「ただい……ま」
「おかえり」
すっかり習慣になっていた「ただいま」に、応えたのはミコトだけだった。当たり前だ。今夜はサヤちゃんがいないのだから。
今日の夕食は、チャーハンだとか昨夜言っていたような気がする。しっかり俺の帰宅時間に合わせて作ってくれるようなことまでしてくれている。
それは、嬉しいことだ。
だが――
「ミコト、いたんだ」
「なんだよ、その言い方」
「悪い」
今のは、俺が悪かった。サヤちゃんがいないのに、いてくれたのが意外すぎてつい失言をしてしまったんだ。
「サヤちゃん、今夜は帰らないって、母さんから連絡いかなかったのか?」
「きたよ」
「そう……」
プライパンをガスコンロの上においたミコトに、なんでいるのかなんて言えない。
「着替えてくるな」
結局、寝室に逃げてきてしまった。
どうする。
どうする。
どうすればいいんだ。
激しく動揺しているのがわかる。もう、パニックと言っていいのではないかというくらい、動揺している。
サヤちゃんがいなくなったら、すぐにでもどこかに遊びに行くやつだと思ってた。入院中の友人の夫もいることだし、じっとしているなんて思えなかった。それなのに、違ったようだ。
やっぱり、サヤちゃんが指摘してたように、ミコトは俺のところに……いやいやいや、期待するなよ、インポ野郎。俺がミコトに何をしたのか、覚えているだろ。思い出せよ。俺は、なんて言って、ミコトと別れたのか、思い出せよ。
「ツカサぁ、チャーハンできたぞ」
「あ、ああ」
どういうわけか、ミコトの声を聞いたら、急にパニックがおさまる。そういえば、前にもこんなことがあった。
あれは、たしか――
ミコトは、中華料理店の店主直伝のチャーハンだとかなんとかで、自信作だと言ってきた。実際、美味かった。おかげで、必要以上にミコトを意識しなくてすんだ。
問題は、その後だった。
サヤちゃんがいないだけで、こんなにもミコトが気になるとは想像もしていなかった。
寝袋を用意してる間も、ミコトのシャワーの音が気になってしかたがない。
いつもタンクトップからちらりと見える左の鎖骨の
「だめだ。考えるな」
いっそのこと、性欲すらなければよかった。
夏祭りの翌日に、しっかりけじめをつけておけばよかった。そうすれば、こんな情けないことにはならなかったはずだ。想定できたはずの現状に、情けない思いをせずにすんだんだ。
「っていうか、もう遅すぎるのかもな」
思えば、ミコトから告られてつき合い始めたあの頃に、チカちゃんのことを整理してけじめをつけておくべきだったんだ。そうすれば、今頃こんな冴えない人生を送ることもなかったはずだ。
「馬鹿だよな」
成人式で再会したミコトは、以前にもまして多くの人に愛されるようになっていた。もともと持っていた人を惹きつける何かが、開花されたのだと感じた。と同時に、もうただの幼なじみになったのだと、寂しいようなひと言では表しきれない複雑な気分になったのを覚えている。
今までのことを振り返っていると、すぐそばでシシッという笑い声が聞こえてきた。
「うわっ!」
「そんなに驚くことないだろ」
タオルを首にかけたミコトが、いた。
「サヤちゃん、いちおう、荷物取りにとか、明日は戻ってくるんだろう?」
「そういうことになってる」
「じゃあ、今夜は夫婦水入らずだな」
「そういうことに……ってなんだよ、夫婦って!」
ミコトがさらっと言うから聞き流してしまいそうになって、焦った。
「シシッ。家族ごっこ、だろ? あたしとツカサが、ママとパパの役。だから、夫婦じゃないか」
ミコトは、胸を強調するように腕を組む。
俺は、背中を伝った汗が、冷や汗なのかそれとも別のものかわからなくなっている。
「ミコト、あのさ……俺ができないの、わかってて言ってるよな?」
「一回失敗しただけじゃないか。リベンジしてもしてもいいだろう」
今なら、できるんじゃないか。
そう考えてしまった。
「リベンジって……」
でも、俺の中には、冷静で臆病な部分がしぶとく残って、彼女の誘いに乗ってしまいたい弱い部分に、こうささやく。
やめておけ、惨めになるだけじゃない。また、ミコトを傷つけるぞ。今はまだやめておけ――と。
葛藤するうちに、ミコトが体重をかけて俺を床に押し倒してきた。
鼻先をくすぐるまだ湿っぽい髪の匂い。
脱がせようと俺のシャツの中に潜り込んだ熱を帯びた手。
妖しく光る細めの目。
俺自身が、解けていく。
流されるわけにかないのに、流されたいと体の奥から望んでしまう。こんなの、卑怯だ。
独特な笑い声を聞かせてくれる唇は、こんなにも艷やかだっただろうか。唇を湿らせた舌の動きに、ドキリと体が反応してしまう。
「あたし、実はさ……」
「悪い。ミコト、やっぱり……」
ミコトの手が止まる。彼女が、何も言わずに続けてきたら、流されて惨めな思いをしていただろう。
結局、臆病で弱いんだ俺は。
「シシッ。やっぱ、無理かぁ」
返ってきたのは、あの独特な笑い声だった。蛇が嫌いなくせに、どこか蛇の呼吸に似ている笑い声。
たぶん、ホッとしてはいけない。そうわかっていたのに、俺は力が入っていた体中の筋肉を緩めてしまった。
「じゃあ、キスだけでいいや」
「えっ……」
ミコトが、こんなにもキスが上手いなんて知らなかった。
まだ残っていた劣情を燃え上がらせるほどの、ミコトの熱い唇と舌。
俺は、熱さで麻痺しかけた思考のまま、ミコトの背中に両腕を回す。
ミコトのたった一人の特別な男だったら、どんなによかったか。
「おやすみ、ツカサ」
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