見送り

 背中が痛い。

 起きてまっさきに思ったのが、それだ。


 重たいまぶたを押し上げると、緑のスリッパを履いた足が見えた。

 細いくせに簡単に折れそうにない足は、ミコトのものだ。

 それから美味しそうな味噌汁の匂い。


「あぁ」


 昨夜は、薄っぺらいラグマットの上で寝てしまった。朝食を用意してくれていることにも気がつかないほど、ぐっすり眠りこけていたらしい。そのくせ、体は痛いし疲れが残っている。寝袋でもずいぶんマシだったのだと気がつかされた。


 ぼんやりと昨夜のキスの余韻にひたっていると、スリッパが近づいてきた。


「お、ツカサ、起きたか?」


「ああ、まぁ。起きた……てか、おはよ」


 上体を起こすだけで、かったるい。


「シシッ。寝癖、ひどいぞ。もうすぐできるから、顔、洗ってこいよ。サヤちゃんに笑われるぞ」


「あー、わかった。そうする」


 安物の壁掛け時計を見れば、顔を洗って朝食を食べ終えるころには、サヤちゃんがタクミたちと荷物を取りに来てしまう。

 すっきりしない体をげんなりしながら、洗面所に向かう。


 びっくりするほど、ミコトはいつもどおりだった。

 昨夜のキスは、俺の都合のいい夢だったんだろうか。


 鏡に映る間抜けづらに問いかけてしまう。


「柔らかかった、よな」


 生々しく残った感触と熱。


 顔を洗っても、タオルで痛いくらい顔をこすっても、こびりついた記憶は消えてくれない。

 そもそも、消えてほしくないのかも、よくわからない。


「まいったな」


 これでは、ミコトから離れられないではないか。


 カンカンカンカン……


「けど、まだけじめをつけていない」


 頬を叩いてシャキッとしようとしたけど、あまり効果はなかった。


 ナスの味噌汁に、冷やっこ。

 明日から、どんな朝食を食べればいいのか、想像できない。サヤちゃんが来る前の生活に戻るだけだと、わかっている。それなのに――


「ごちそうさまでした」


 たった三週間で、変わってしまった。


 サヤちゃんも、三週間で大きく変わったはずだ。ルミさんも、タクミも。

 ミコトにとっての、この三週間はなんだったんだろうか。いつもの楽しい時間にすぎなかったんだろうか。尋ねてみたいが、実際に言えたのはまったく別の言葉だった。


「ミコト、ありがとうな、本当に」


「いいって、いいって。そんなに、あらたまるなよ」


 たぶん、ミコトは俺以外の誰かから頼まれても、同じことをするのではないだろうか。ミコトの笑顔を見て、あらためて俺は特別ではないのだと思い知った。

 俺は、なんでもないように朝食の片付けをするのに、努力が必要だった。


「出勤前に出てくんだろう?」


「まぁ、そのつもり。ツカサが寂しいって言うなら、まだいてもいいんだけどな」


「……冗談だろ?」


 素直になれなかった俺の背中に、ミコトの独特な笑い声が刺さる。


「まぁな……あ、サヤちゃんが来たみたいだな」


 タイミングよくサヤちゃんの到着を知らせるインターホンが鳴った。


「ミコト、おはよぉ」


「おはよ、サヤちゃん」


 俺も手を拭いて玄関に行くと、サヤちゃんが両親にミコトを紹介していた。


「ミコトはね……」


 邪魔をしたら悪いし、ミコトがまとめてくれた段ボールを取りに引き返す。


 サヤちゃんは、ミコトを好きになってる。タトゥーもあるし、ちょっと独特な雰囲気もあるから、ミコトになついてくれるかどうか、最初はとても不安だった。


 ダンボールに詰まったサヤちゃんの荷物を抱えながら、玄関から聞こえてくるサヤちゃんの声に微笑ましい気分になる。


「シシッ。サヤちゃん、そんなに褒めても、何も出ないぞ」


「いいよ。ミコトに、いっぱいいいこと教えてもらったり、いっぱいいいことしてもらったから」


 ダンボールを抱えたまま、話に入りこむタイミングがなかなかつかめない。ミコトの後ろで所在なさげに立っている俺に、タクミが助け舟を出してくれた。


「サヤ、ツカサおじさんにもお礼を言いなさい」


「わかってるのに。ミコトともっと話してから、お礼いうつもりだったもん」


「サヤ」


「はーい」


 タクミに強い口調で言われたけど、サヤちゃんの笑顔は崩れない。


「おじさん、本当にお世話になりました」


 ダンボールを受け取ってサヤちゃんは、深々と頭を下げる。

 ルミさんもあわせて、頭を下げてくる。


「本当に、サヤがお世話になりました。本当に、本当に、ありがとうございます。ツカサくんと、ハラさんのおかげで、サヤと向き合えました。本当にありがとうございます」


 夏祭りに会ったときよりも、ルミさんは堂々としている。やっぱり、直接会って話すことも大事なことだったに違いない。


「僕も、サヤが女の子だからって踏みこまなかったからね。これからは、僕もしっかりしていかないとって、思い知らされたよ。本当に、今回はありがとう。いくらお礼を言っても足りないくらいだ」


 今度、あらためてお礼をしたいと、タクミは続けた。


「じゃあ、おじさん、仕事に行かなきゃだし、もう帰ろう」


「そうだね。玄関先で、いつまでもしゃべっているわけにもいかないし」


 タクミは、サヤちゃんからダンボールを受け取って、ルミさんと先に駐車場に向かう。


「サヤちゃん、行こうか」


「うん」


 俺とミコトはサヤちゃんを見送るために、三人で駐輪場に向かう。


 タクミとルミさんは、荷物を車に積んで先に駐車場を出ていく。サヤちゃんは、家出した日に乗ってきたピンクの自転車で一人で帰る。

 自転車にまたがったサヤちゃんは、眩しいくらいの笑顔で俺たちを振り返った。


「じゃあ、ミコト、おじさん、わたし、帰るね」


「ああ、またな、サヤちゃん。シシッ」


「また何かあったら、今度は俺に連絡してから逃げておいで」


「うん」


 サヤちゃんには、俺とミコトの連絡先を教えてある。

 本当は、また何かあってはいけないのだけど。

 でも、俺の心配とか気遣いをよそに、サヤちゃんは笑う。


「シシッ。何かなくても、普通に遊びに来てもいいよね。ミコトの家にも泊まりたいし」


 まったく、そのとおりだ。


「もちろんだよ」


 俺とミコトの声がそろう。


「またね」


 手を振って、サヤちゃんは自転車をこぎ始める。


「またね」


 ピンクの自転車が見えなくなるまでは、たかが知れている。けど、その短い時間でも、俺とミコトはしっかり見送った。

 これで、家族ごっこは終わってしまうんだな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る