喫茶スカーレット、再び

 サヤちゃんの課題の練習は、もちろん成功した。男の俺には、よくわからないこともあった。でも、母さんと一緒に来た兄夫婦は、大絶賛していた。特に母さんなんて、涙ぐむほど絶賛して、ちょっと引いてしまった。

 これで、サヤちゃんのこれからの生活に少しでも役に立ってくれるなら、それだけでもう充分すぎる。


 翌朝になっても、ミコトはまだ戻ってこなかった。

 どうやら、彼女が特に親しくしている女友達の夫が交通事故にあったらしい。幸い命に別状はなかったらしいが、もうしばらく病院で女友達と一緒にいることにすると、夜遅くに連絡があった。


 ずっと朝食を作ってくれていたミコトがいないので、俺はサヤちゃんと喫茶スカーレットにやって来た。

 サヤちゃんと二人で来るのは、三週間ぶりだ。そう、たったの三週間しかたっていないのだ。

 サヤちゃんは、スカーレットのバナナスムージーが好きになっている。


「サヤちゃん、とりあえず明後日に決まったから」


「うん、わかった」


 なんでもないことのように、サヤちゃんは明るく笑ってうなずいた。


「加賀美のおばさんもいてくれるんでしょ?」


「もちろん」


 まずは、サヤちゃんとルミさんに話しをしてもらわなければならない。そうでなかったら、やっぱり俺は安心してサヤちゃんを送り出せない。

 夏祭りの会場では、たしかに大丈夫だと感じた。それなのに、もう不安になっている。


 明後日、サヤちゃんの家で家族会議を開くことになっている。俺は、盆休みが明けてしまうから見守ることはできない。


 ぬるくなったコーヒーは、いつもより苦い。


「おじさん、わたしね、実はすぐに帰りたくなったんだ」


「ん?」


 ポツリ、ポツリと、サヤちゃんは、この三週間のことを振り返っていく。

 彼女は俺の肩越しに、仲がよさそうな家族連れを眺めている。三週間前のようなうらやましそうな視線ではない。純粋に仲がいい家族を眺めているだけだろう。


「ママは、お祖母ちゃんのことが大好きで、わたしのことなんてどうでもいいんだと思ったんだ。ものすごく、腹が立った」


 そういえば、サヤちゃんから直接聞くことはあまりなかった。たぶん保護した翌日に、このスカーレットでそれとなく聞いて以来なのかもしれない。


「腹が立っただけじゃなかった。ぐちゃぐちゃしてて、我慢できてたはずなのに、できなくて、それでパパに話したら、ママと喧嘩になって、もっとぐちゃぐちゃになって、逃げちゃった」


 それで、俺の家に来たわけだ。


「おじさんに、帰りなさいって言われたら、帰ろうって思ってたんだ。でも、おじさんは変な人でさ」


「まだ、変な人なのかよ」


「うーん、内緒!」


「ひでぇな」


「シシッ」


 笑い方が、ミコトに似てきたな。


「楽しかったよ。ミコトも一緒だったし、家族ごっこ、楽しかった」


 でもねと、サヤちゃんは続ける。


「でも、やっぱり、おじさんもミコトはパパとママじゃないし、わたしも娘じゃないし、本物じゃないんだなって、ずっと思ってたんだ。でも、そう思えたのも、おじさんたちと家族ごっこしたおかげだし、楽しかったし……」


 ほとんど残っていないスムージーを音を立ててすすって、サヤちゃんははにかんだ。


「おかしいね。おじさんと前に来たときは、おじさんが何言ってるのかわからなかったのに、今日はわたしが何言ってるのかわからなくなっちゃったや」


「いいよ。充分伝わったからさ」


「シシッ」


 その笑い方、やめた方がいいなんて、もう言えないな。そんなことを考えながら、スマホを確認する。さっきから、何度も確認しているけど、何一つ通知が表示されない。SNSに晒すような面白みのある生活も送ってないので、アカウントは放置状態。メールは、重要なものなんてほとんどこないから、来ても通知すらされない。

 テーブルの上においた途端に、スマホが気になりだす。


「おじさん、さっきもスマホ見てたけど、わたしの話、聞いてくれてた?」


「聞いてたよ。サヤちゃんが、お家に帰りたがってるのは、よくわかったから」


「ま、そうなんだけどさぁ」


 ぶすっとむくれるサヤちゃんに、さすがに申しわけなくて、スマホをポケットにしまう。


「それで、おじさん、ミコトから連絡きたの?」


「サヤちゃん……はぁ、余計な気を遣わないの」


「はぁい」


 コーヒーがますます苦くなってしまった。


 結局、ミコトから連絡が来たのは昼過ぎてからだ。そして戻ってきたのは、俺とサヤちゃんが昨日彼女から送られてきた買い物リストをヒントにして夕食を作っていたときだった。


「ただいまぁ。二人とも、悪かったな」


 出かけていったときと、同じ赤のタンクトップにデニムのショートパンツ。一晩以上、友達につきっきりだったんだから、当然か。それにしても、彼女は笑顔で疲労を隠しきれていない。


「おかえり、ミコト。シャワーでも浴びてきたほうがいいんじゃないか?」


「うん、わたしもそうした方がいいと思う」


「じゃあ、そうするよ」


 ミコトはバタバタと慌ただしく浴室に向かう。

 交通事故で病院に運ばれたものの、友達の夫はそのうち退院できるらしい。


「おじさん、またため息ついてる」


「またってなんだよ」


「ため息つくと、幸せが逃げちゃうぞ」


「サヤちゃん、それは違うよ。胸にたまった不幸せをため息で吐き出しているんだ。吐き出さないと、不幸せがたまるばかりで心にも体にも悪いからね」


「へぇ、そう言われてみればそうかも」


 誰から聞いたのかも曖昧な話を、それらしく話すだけで、サヤちゃんは納得してくれた。俺も、そんな感じで納得したような、懐かしさが襲ってきた。もしかしたら、俺がサヤちゃんくらいの年頃で、聞いた話なのかもしれない。


「さて、ミコトが出てくるまでに作っちゃおか」


「うん!」


 今日の夕食は、ハンバーグだ。

 サヤちゃんから聞いた話では、ミコトはあまりハンバーグは作りたくないらしい。それでも、残り少ない家族ごっこの間に、サヤちゃんの好物を作ろうとしてくれてたんだ。


「できたね、おじさん」


「うん。ちょっと不格好だけど、焼けたね」


 いびつなハンバーグを皿に盛り付けながら、サヤちゃんと笑い合う。

 まるで測ったかのようなタイミングで、シャワーを浴びたミコトがさっぱりした様子でやって来た。


「いただきまぁす」


 こうして声をそろえて手を合わせるのも、もう残り少ないんだな。

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