カレーライス

 喫茶スカーレットを出たころには、サヤちゃんはすっかりミコトになついていた。おそらく、ミコトがもっている人を惹きつける魅力のおかげだろう。サヤちゃんと一対一だったときよりも、ずっと気が楽になった。だから、スカーレットでのことも、きれいにとはいかないが水に流すことができた。


 ふた駅離れたショッピングモールだって、ミコトが車を持っていたから行けた。最初はマイナスでしかなかったけど、帰りの車の中ではゼロを通り超えて、ミコトの存在はプラスになっている。

 サヤちゃんは、行きの車では俺と二人で後部座席に並んで座っていた。帰りは当たり前のように助手席――つまり、運転席のミコトの隣りに座っている。女二人のショッピングに振り回された俺は、後部座席でグロッキーなのに、二人はずっとしゃべってる。

 サヤちゃんは、全然おとなしい可愛い女の子なんかじゃなかった。もっとも、一年に二回くらいしか会わなかったころの印象だったし、親戚の集まりだったりで、おとなしくなっていただけだったのかもしれない。それにしても、だ。女の子はよくわからない。学校のこと、アニメのこと、アーティストのこと、漫画のこと、友だちのこと……家族のことは避けているけど、サヤちゃんはよくしゃべる。ミコトは、サヤちゃんの話しを聞いてうなずいたり、笑ったり、一緒に唇を尖らせたりと、忙しそうだ。忙しそうだけど、少しも無理して合わせている感じしない。俺はこんな風に自然体に接するなんて無理だ。

 もういっそのこと、ミコトの家に行ったほうが、サヤちゃんのためになるんじゃないかと考えだした時だった。サヤちゃんの無邪気な問いが俺の胸に刺さった。


「ねぇ、ミコトはおじさんの元カノなの?」


「ちょっと、サヤちゃん?」


 いきなり何を言い出すんだ。思わず身を乗り出してしまう。


「ま、そんな元カノって言えば、そうだよな? ツカサ」


「そうだけど、そんなんじゃないだろ、俺たちは」


「シシッ。腐れ縁って感じだよな」


 そう、幼なじみの腐れ縁だ。

 ミコトは、なんでもないことのように続ける。


「一応つき合ってたけど、あたしたちが高校生の頃だしね。元カノっていうには、古すぎる。だから、腐れ縁。それも、保育園の頃からのな」


「保育園から? へぇ、なんかすごい」


「シシッ。ま、それだけ、いろいろあったんだけどな。なぁ、ツカサ」


「まぁね。いろいろ、あったしね」


 本当にいろいろあった。いい思い出ばかりじゃない。そう考えると、腐っているにしても、よく縁がつながっているなと他人事のように感じる。

 乗り出していた体を、シートに投げ出す。

 本当に、いつ縁が切れてもおかしくなかったのに、な。


 サヤちゃんは、とりあえず納得したのかまた話題を変える。

 たとえば、ミコトの仕事のこととか。


 原美琴の仕事、か。

 ミコトは、いわゆる不労所得者だ。成人する前に家族が事故死。親戚も疎遠になっていたらしいとか、詳しいことまでは聞いたことはないけど、彼女は相当な資産と土地を相続している。俺のアパートだって、彼女のものだ。

 一人で生きていくには、充分すぎる資産を持っている。

 うらやましいと思った時期もあるけど、今はそうは思わない。


 ぼんやりと考えているうちに、アパートの駐車場についた。

 先に玄関で待ってるサヤちゃんとミコトは、まだ元気だ。俺は、こんなにも買い物に疲れているのに、この差は何なんだろうか。


「ただいまぁ!」


 誰もいないとわかっているだろうに、サヤちゃんは明るい声が玄関に響く。なんだか、とても新鮮だった。そういえば、俺も子どものころは、玄関を開けたら誰に向けてというわけでもなく、言っていたような覚えがある。あのころの俺は、返事なんかなくても平気だったんだな。誰もいないから、返事をする人がいないからと、無駄だと考えるようなってしまったのだろうか。


 パンパンに膨らんだエコバッグを手にしてるミコトは、ダイニングキッチンで軽く目を見開く。


「あいかわらず、物が少ないなぁ。シシッ」


 座卓と、ビーズクッション、食器とかしまっているカラーボックス、冷蔵庫、それから今朝届いたダンボールと、その中身。六畳のダイニングキッチンには、そのくらいしかない。


「いいだろ、俺はビンボーなんだから」


「どうだか。さて、カレー作るか」


「わたしも、手伝う」


 女二人で夕食作りを始めたので、俺は買ってきた物を床に置いて寝室に引きこもることにした。昨夜はサヤちゃんに譲ったベッドに吸い寄せられるように、横になる。


「物が少ない、か」


 何が悪い。母さんからも、よく言われる。昨夜はさすがに言われなかったけど、よく言われる。


 ――カンカンカンカン


 ああ、そうか、そうだった。

 何かを失うのが、怖いんだった。


 降りてくる遮断機。止まらない赤いランドセルのあの子。


 あの子は、ミコトだ。

 どうして、泣いているんだっけ。ミコトが声を押し殺して泣いている。


「なぁ、ミコト……」


 ベッドから体を起こして、床にうずくまっているミコトに手を伸ばす。とたんに、ミコトがぐにゃりと歪む。ミコトだけじゃない、部屋全体が歪んでいく。気持ち悪い。なにか、忘れている気がする。

 ぐにゃりぐにゃりと、俺の体が歪んでいる。思い出せ思い出せと、耳ではなく頭の奥で、ぐわんぐわんと責めてくる。

 気持ち悪い。やめてくれ。

 と、左半身が何かにぶつかる。


「いって」


 ベッドから転がり落ちたようだ。


「……寝てたのか」


 ごろりと床の上で仰向けになる。

 なにか、夢を見ていた気がする。いや、寝てたんだから、夢くらい見るだろう。なんだか、夢の中身を忘れたらいけない気がしたけど、そんなわけはない。ただの夢なんだから。


 すっかり薄暗くなっている。

 カレーの匂いがする。そうだった。ミコトが夕食はカレーにしようと、言ってたな。


 眠っていた割には、疲れが残っている。なんとなくだけど、夢のせいだ。覚えていないけど、いい夢じゃなかったのは間違いない。

 けだるい体を床から引き剥がすと、ダイニングキッチンからサヤちゃんの声がした。


「おじさん、カレーできたよぉ」


「今行くよ」


 今朝までのサヤちゃんなら、遠慮がちだったに違いない声も、今ではすっかり明るい女の子の声だ。

 ミコトのおかげだ。最初はどうなることかと思ったけど、俺だけじゃこうはならなかっただろう。なるにしても、サヤちゃんの夏休みだけじゃ時間が足りない。


 正方形の座卓の上に用意してあるカレーライスは、焦げ目のついたナスやピーマンなどがカレーの上にのせてある。

 ミコトが、ここまで自炊能力があるとは想定外すぎる。戸惑うなというほうが難しいけど、作ってもらったので顔に出さないように気をつけながら、今日買った座布団の上に座る。

 待ってましたと、サヤちゃんが手を合わせた。


「じゃ、いただきます」


「シシッ、いただきます」


「いただきます」


 そろわなかったけど、それはそれでいい。


「あ、美味い」


 ひとくち食べて、自然に言葉が出てきた。しまったと思ったときには、もう遅かった。俺の左側から、シシッと笑い声が聞こえてきた。


「なんだよ、意外そうな顔するなって。あたしのほうが、一人暮らし長いんだしさ」


「悪い。ミコトが料理作るところ、想像できなかったしな」


「おいこら、家庭科の調理実習とか、同じ班だっただろうが」


「いつの話だよ。まったく」


 本当に、いつの話だ。そもそも、ミコトは滅多に自分の家に帰らない。毎晩飲み歩いているか、誰かとセックスしている印象が強すぎて、家庭的な姿が想像できなかったんだ。彼女に惹きつけられている人は、現在進行形でも百人はくだらないと、俺は考えている。

 右側で美味しそうに食べているサヤちゃんが、くすっと笑う。


「サヤちゃん、俺、何か変なこと言ったかな?」


「ううん。夫婦みたいだなぁって思ったの」


 あいまいに笑って、カレーを頬張る。むずがゆいこの気持ちを、言葉にしたくない。

 だが、ミコトは違った。


「あたしとツカサが? 普通だと思うけどなぁ」


「普通なの?」


「普通、普通」


「普通ってなんなの?」


「サヤちゃん、すごいこと訊いてくるなぁ」


 サヤちゃんとミコトの会話は、しばらく途切れそうにない。

 違うんだとは、言えなかった。

 ミコトとは、二人きりで会うのをずっと避けてきたんだ。今だって、サヤちゃんがいるから、抵抗なく彼女としゃべっていられるんだ。第三者がいないといけない関係なんて、夫婦とはほど遠い。

 そもそも、ミコトの普通ってなんだ。ごまかしているのか、なんなのか。少なくとも、俺の普通とは違う。


「あ、そうそう、ベランダの洗濯物、しまっておいたから」


「……まじかよ」


 そこまでしてくれなくても、ミコトが帰ったあとにしまうつもりだった。下着まで女のミコトの手に触れられたなんて、ちょっとした拷問ではないか。性に奔放なミコトのことだから、気にしないだろうけど、俺が気にする。

 とはいえ、俺以外はまだ食事中だ。あとで、しっかりミコトに言っておかなければならない。

 他にも俺が留守の間に、してほしくないこととか、今のうちにしっかり言っておくべきだろう。ルールを考えていると、サヤちゃんがスプーンをおいた。


「おじさん、さっきミコトと話してたんだけどね」


「ん?」


「家族ごっこなのに、ミコトだけ夜はいないっておかしいんじゃないかってさ」


「えーっと……」


 それはつまり、ミコトも我が家に居候するということだろうか。そんなことは――


「シシッ。あたしは、サヤちゃんが帰れるようになるまで、昼間だけじゃなくて、朝昼晩二十四時間ここで生活してもいいよって話」


「うん。でも、おじさんが駄目だって言ったら、駄目だからって」


 すぐに返事ができなかった。はっきり言って、ミコトに声をかけたのは、ほとんど思いつきだった。彼女は刺激を求めるようなところがあるから、サヤちゃんの存在はきっと関心を引くと軽く考えただけだ。


「サヤちゃんは、ミコトにいてほしんだね」


「うん」


「そっかぁ」


 軽く考えただけだから、謝礼とか大事なことを考えていなかった。

 正直、助かるは助かる。やっぱりサヤちゃんは女の子だから、そういう気配りが俺にできるとは思えない。実際、ミコトのおかげで一気に、サヤちゃんの表情も豊かになったわけだし。


「あ、謝礼とか気にしなくていいからな。あたしのほうが、無理させたって気にするからさ」


「ミコトは金持ちだからな」


 しかも、時間も持て余すくらいだ。何か、適当な職を見つければいいのだろうけど、彼女は長続きしなかった。


「わかった。サヤちゃんのためだしな」


「やったぁ」


 サヤちゃんは、両手を上げて喜ぶ。


 そんなサヤちゃんは、家族ごっこと言っておきながら、俺とミコトをパパママと一度も呼んでいない。この子にとってパパとママは、やっぱりタクミとルミさんだけなんだろう。早く帰れるようにしてあげたい。

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