最初の朝
翌朝、俺は小さな悲鳴で目が覚めた。とはいえ、起きぬけの鈍った頭では、悲鳴は夢だったような気もする。
火曜日で、休みだしと寝返りを打とうとして、うまくいかなかった。
「あっ、そうだった」
たちまち昨夜のことを、思い出す。
親戚の女の子を夏休みの間、預かることになったんだ。
そのせいで、義姉さんから押し付けられた寝袋で寝たんだった。
「サヤちゃん?」
いない。と思ったら、背後のドアが開いた。
なぜか、涙目でご機嫌斜めなサヤちゃんがそこにいた。
「お、おはよ」
「……おはよ」
「えーっと……」
なんか、怒っている。
昨夜、また階段を二段飛ばしで慌てて帰ったら、母さんにサヤちゃんになんて格好をさせているんだとどやされたのを嫌でも思い出す。姪のお下がりの白っぽいパジャマに着替えてたサヤちゃんをみたら、ぐうの音も出なかった。
そういや、パンツはさすがにお下がりじゃないよなと、余計なことを考えてしまったのは、きっと寝起きで頭がすっきりしていないせいだ。
思ってたより快適だった寝袋から出るのを、サヤちゃんはずっと怒ったような顔でにらんでいた。
「えーっと、サヤちゃん、おじさん、なにかしたかな?」
「……が……ってた」
「ん?」
聞き取れなくて聞き返すと、サヤちゃんはいよいよ顔を真っ赤に染める。
「トイレの便座!! 上がってた!!」
「えーっと……」
いまいちよくわからないでいると、サヤちゃんはドスッと音を立てて床を踏みつける。
「ちゃんと下げておいて!!」
「は、はい」
わけがわからないまま、首を縦に振ってしまった。
ムスッとした表情を崩さずに、サヤちゃんは鷹揚にうなずく。
「わかればよろしい」
「はっ。ところでサヤ大尉、床を蹴るのはお辞めになったほうがよろしいかと、下の部屋に響きますので」
「では、ツカサ軍曹も以後気をつけるように」
正座して敬礼してみれば、サヤちゃんも腕を組んでノリにあわせてくれた。普通に嬉しくなっていると、大げさなくらいわざとらしいため息が降ってくる。
「……てか、なんで大尉なの?」
「なんとなく」
「ふぅん。おじさん、やっぱり変わってるね」
「ハハハハハッ……ソンナコトないヨ」
一度ノリに合わせてくれたあとで、これはきつい。
とはいえ、のんきに凹んでいる場合じゃない。横目で見たベッドサイドにおいてある置き時計は、もう七時をまわっている。
八時半に、母さんがサヤちゃんに必要なものを持ってきてくれることになっている。
「あらためて、おはよう、サヤちゃん」
「おじさん、おはようございます」
仕切り直しにあいさつして、ようやくサヤちゃんの表情がやわらいだ。
「えーっと、着替えるなら出ていくけど?」
「うん、着替える」
まだ慣れない。
当たり前か。昨日まで一人暮らしで、心の準備も何もないままサヤちゃんを預かることになったんだ。ぎこちないのはしかたない。
「顔を洗ってくるか……」
いつの間にか増えてしまった独り言も、どうにかして減らさないとな。
サヤちゃんに変わってると言われるのは、なかなかこたえる。
顔を洗って洗濯機のスイッチを入れると、洗面所にサヤちゃんがやってくる。白いTシャツに、青いハーフパンツ。いつもの可愛い女の子とは、また違う雰囲気だ。服が違うだけで、こんなに変われるのは、ちょっとうらやましい。
狭苦しくなったので、サヤちゃんに洗面所を譲る。
昨夜、母さんと義姉さんの魔の手が入ったとはいえ、もともと物が少ないダイニングキッチンだ。そんなに様変わりしていなくて、あらためてほっとする。
朝食は、あとで喫茶店かファミレスに行こう。冷蔵庫の中身が深刻だ。ついでに、食器もどうにかしないと。
「母さんが持ってきてくれればいいけど……」
必要な物を書き出してみるけど、三つで止まってしまった。明日は普通に仕事だし、足りないものは今日買っておきたい。
女の子と生活するのに必要なものなんて、そう簡単に思い浮かぶわけがない。足りなかったら言ってくれと、タクミから渡された十万円。もちろん、使わせてもらう。安月給の俺なりに、節約して一人暮らしをしている。サヤちゃんの面倒を見るお金なんて、いきなり捻出できるもんじゃない。それでも、できるだけ少ない額に納めたいと考えるのは、貧乏じみているだろうか。
三つ止まりのメモを睨んでいると、サヤちゃんがやってきた。
前髪の寝癖が気になるのか、何度も手で撫でつけている。
「おじさん、朝ごはんは?」
「ごめんね。急だったから用意できないんだ。あとで、ファミレスとか喫茶店で、どうかな」
「うん」
ビーズクッションではなく、サヤちゃんはその横に正座する。
「おじさん、本当にありがとう。私のわがままのせいでこんなことになっちゃって……」
「そんなにかしこまらなくってもいいから」
女の子にあらたまって頭を下げられるのは、困る。というか、ビビる。というか、俺がなんか悪いことしたみたいで、焦る。
「サヤちゃんのパパからちょっと話は聞いたけど、大丈夫だから」
「……うん」
自分で言っておいてなんだけど、なにが大丈夫なのかわからない。そもそも、タクミの父親という立場からの話を聞いただけだ。サヤちゃんの言い分は違うかもしれない。それこそ、まるで見当違いなほどズレていることだってありえる。
だからといって、俺から無理に聞き出すわけにもいかない。
不安そうにうつむく女の子を励ます、俺。なんだこれ、昨日までは想像もしなかったシチュエーションじゃないか。
「俺も、彼女とかいないし、独身だし、一人暮らしだしで、サヤちゃんに迷惑かけるかもしれないけど、サヤちゃんがウチにいるのは、ぜんぜん迷惑じゃないから、ね。追い出したりしないからね」
ちょっと嘘ついたけど、サヤちゃんを追い出さないというのは、本当。
女の子が壊れやすい存在だって、知っているから。
「えーっと、俺も退屈してたし、こう、ほら、あれ、あれだよ、サヤちゃんとの二人暮らし、楽しんでみようかなぁってさ」
だんだん、自分でもなに言ってるのかわからなくなってきた。
「サヤちゃんは、ほら、田舎のおじいちゃんちにお泊まりに来た感じで、おじさんちで過ごしてくれればいいからさ」
「やっぱり、おじさん、変わってるし面白い」
情けないうろたえぶりに、サヤちゃんはクスクス笑い出す。
そんなに笑うことないと思うけど、笑ってくれたならよしとしよう。
母さんは時間よりも前に来た。それも、三十分早い八時に来た。
その前に、母さんからメッセージアプリで昨夜あれからタクミの家を訪れて、誘拐したとパニックに陥ったルミさんを説得するのにどれだけ苦労したかなどなど、未読に戻したくなるほどの長文が送られてきた。長文の最後に、予定よりも早く行くとそっけなく取ってつけたように書かれていた。まったく、母さんらしすぎて苦笑する。
今回は、母さんも一緒に来た兄さんも、仕事があるから玄関で受け取る程度ですんだ。
「じゃあ、なにかあったらすぐに電話するんだよ。あたしが出られなくても、サトルに……」
「わかってる。わかってるから」
母さんは、玄関をなかなか閉めさせてくれない。頼りになるのはいいけど、しつこい。しつこいから、頼りになるのかもしれないけど、後ろで曖昧な笑みを浮かべている兄さんも、早く連れてってくれないかな。
「ちゃんと連絡するから、じゃあね!」
「ちょっと、ツカ……」
結局、強引にドアを閉める羽目になった。
「加賀美のおばさんって、肝っ玉母さん?」
そうじゃないと思うけど、笑ってごまかすしかない。
急いで洗濯物をベランダに干している間に、サヤちゃんはダンボールの中身を確認している。母さんが持ってきたダンボールの中には、学校の宿題とか、そういった勉強道具が入っている。
サヤちゃんのワンピースとか、俺が買いに走ったMサイズのパンツ(もちろん、母さんと義姉さんから厳しいダメ出しがあった)は、昨夜母さんが持ち帰って洗濯をしてくれたはずだ。だが、毎回母さんに取りに来てもらうわけにはいかない。
少ない洗濯物を干して、ベランダから戻る。部屋のすみに転がっていた黒いボディバッグを背中に回す。赤いロゴが入った紺色のキャップも、忘れるわけにはいかない。今日も、日差しがきつそうだ。
「行こうか。お腹すいてるでしょ」
「ううん……やっぱり、うん、かな」
笑顔で首を縦に振る。少しは、サヤちゃんの遠慮がなくなった気がするんだ。
「ついでに、買い出しも行くからね。あとは……」
「あとは?」
「昼間のサヤちゃんの居場所探し、かな」
玄関の鍵をしめた俺を、ふくれっ面のサヤちゃんが見上げてくる。
「えー、おじさんちでいいよ」
「いやいや、おじさんだって仕事あるし」
「パパとママだって、働いてるし。留守番くらいできるもん」
「いや、でもね……」
親戚とはいえ、サヤちゃんは預かっている子どもだ。なにかあったらと考えてしまう。
俺が住んでいるアパートは、それほど防犯設備がしっかりしているわけじゃない。
「じゃあ、公民館とかは?」
「無理。あんなところ、ガキがうるさくて、無理」
「ガキって……」
サヤちゃんは、おとなしい女の子だと思っていた。どうやら、違ったらしい。
「友だちの家とかは?」
「それも、やだ。子どもでも、気を遣うんだからね。大人にはわからないだろうけど」
サヤちゃんの子ども用のスマホは、距離を置かなければならないのにパパとママが連絡を取っては台無しということで、タクミが持っている。なので、ダメ元の友だち案は無しの方向で。そもそも、両親と距離をおいていることを、友だちはまだしも大人たちは話のネタにするだろう。それは、非常によろしくない。やはり、友だち案は無しだ。
駐車場で足を止めて、サヤちゃんはキョロキョロと何かを探し始めた。
「おじさんの車って、どれ?」
「あー、ないよ」
「ええー!」
信じられないと、サヤちゃんは目を丸くする。
「俺、ビンボーだからね」
「じゃあ、どうやって食べに行くの?」
「えっと、歩いて」
「マジで?」
「マジで」
自転車という手段もあるけど、サヤちゃんのピンクの自転車のペースに合わせられる自信がない。それに、のんびり歩いても一番近い卵サンドが絶品な喫茶店まで十五分程度。
「散歩だよ、散歩」
「うへぇ」
げんなりした声を上げつつも、無理やり笑ってみせるサヤちゃんを見て、ふと幼なじみの顔が脳裏をよぎった。
「あ、いた」
「?」
歩き出した俺の横にあわてて並んだサヤちゃんに、俺は紺色のキャップをかぶせる。
「昼間、サヤちゃんの面倒を見てくれそうな暇人」
「一人で留守番できるのに」
「まぁまぁ……」
またむくれるサヤちゃんをなだめる俺の耳に、シシッという独特の幼なじみの笑い声が聞こえた気がした。
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