宇野家の事情
コンビニへの足取りは重い。
「ついてねぇ」
そもそも、俺がサヤちゃんの着替えがあるかたしかめる前にお風呂に入れたのが、失敗だった。だが、あんな濡れた服を着せたままじゃ、確実に風邪をひいてしまう。
雨上がりの空気は、不愉快なくらい蒸している。
もう雲はほとんど残ってないというのに、すっきりしない。
日が落ちて、人通りの少ない路地を場違いなくらい明るくしているコンビニ。もう二度と来れないんじゃないかって思ってた。
とぼとぼと道を渡る俺は、さぞかし情けなかっただろう。
引き返すという選択肢は、義理の姉に外に引き出されたときになくなっている。
三つ年上の従兄と何を話せばいいのかなど、考えるだけ馬鹿らしかった。そもそも、向こうが話があるって義姉さんは言っていたじゃないか。
だったら、さっさと済ませてサヤちゃんを連れ帰ってもらおう。もちろん、虐待とかそういう疑惑を抱いたままでは駄目だ。でも、そのあたりは母さんに任せればいいだろう。俺の手に余る問題だ。
「そういや、あの大荷物、着替えにしては…………あ、いた」
喫煙スペースにいる見知った顔を見つけると、不思議なもので少しは嫌な気分も晴れた。重い足取りに引き伸ばされている決まり悪い時間を縮めようと、駆け足で道を渡りきる。
「よっ」
あえて軽く声をかける。
「久しぶり、ツカサくん」
煙草の灰を落としたタクミは、ひどく疲れているようだった。落ち着いて見えるけども、そんなことはない。細いフレームの眼鏡が、若干ずり落ちているのにも気がついていないようだ。
「煙草、やめたって奥さんから聞いてましたけど」
「最近また、ね。先月くらいかな。本数は減らして、
「へぇ、そうだったんですか」
『女房』と口にしたとき、一瞬タクミの表情が苦しそうに歪んだ。途切れてしまった会話を埋めるように、彼は灰皿に煙草を捨てて、顔を上げる。
「立ち話も悪いし、車の中で話そう」
「話?」
彼は眼鏡の位置を直して、駐車場にあったダークブルーの車の運転席のドアを開ける。
「サヤちゃんを迎えに来たんじゃないのか?」
首をひねりながらも、タクミに続いて助手席に腰を下ろす。乗ったことのない車は、どうも苦手だ。カーフレグランスの甘ったるい匂いに、他人だと思い知らされる。
「まずは、礼を言うべきだった。サヤを保護してくれて、ありがとう。本当に、どれほど感謝していいのかわからない」
「保護ってほどのことでもないけどさ」
「ああ、おばさんから聞いたよ。サヤのほうから、ツカサくんのところに行ったんだってね」
彼のため息があまりにも大きすぎて、肺の中にあった空気を全部吐き出してしまったのではと、余計な心配をしてしまった。
先にとわたされた微糖のコーヒー缶は、どうも開ける気にならない。かといって、返す気にもならない。結局、両手で包み込んで膝の上に。
「どおりで見つからなかったわけだよ。行きそうなところ、全部探し回ったってのに」
「悪かったな。行きそうにないところで」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「わかってるよ」
わかっていたけど、なじりたくもなる。それだけのことが、夕方からあったんだから。
「まぁ、サヤちゃんは俺に追い返してほしかったみたいだしな」
「なんだそれ」
「なんとなくそんな気がしただけ。そんな深刻なことじゃないのかなぁって」
だから、早く連れて帰ってくれとはっきり言えない自分が情けない。
「たしかに、僕からしたら深刻な話じゃないんだけどね」
「俺に話されても、困るんだけど」
なんだか嫌な予感がして、つい邪険に言い返してしまった。余計に居心地が悪くなるだけなのに。
タクミのほうも居心地が悪くなったのか、ひと言断ってから窓を開けて不快指数の高い空気を吸う。フロントガラス越しのコンビニの照明を、彼は眩しそうに目を細める。
「あのさ、サヤをしばらく預かってくれないかな」
「は?」
何を言われたのか、理解できない。
「ちょうど夏休みだし、サヤをツカサくんのところで預かって欲しいんだ」
「ゴメン、何言ッテルノカ、全然理解デキナイ」
片言の日本語を喋った似非外国人の俺がおかしかったのか、タクミはプッと吹き出して笑った。
「だよな。悪かった。けど、どうやって話せばいいのか、まったくわからなくてさ」
「イヤイヤイヤイヤ、俺ガ子ドモヲ預カルトカ、オカシイデスヨ」
「なんだ、ちゃんと理解できるんじゃないか」
「そぉおおおゆぅうううことじゃないって!! てか、なに笑ってんの?」
何がそんなにおかしいのか。タクミは腹を抱えて笑っている。
「いや、ちょっと、ツカサくんの喋り方がもう……」
「あのさ、サヤちゃんを迎えに来たならさっさと連れて帰ってよ。奥さんも心配してるんじゃないの」
「まぁ、そうなんだけどさ」
気がすむまで笑って、タクミはなにかが吹っ切れたようだ。
「僕にしてみれば、なんでここまでこじれたのか理解に苦しむくらい単純な話なんだけど、サヤはそうじゃなかったんだろな」
「いや、ちょっと待って。なんか聞いたら、断れなくなりそうな気がするんだけど」
「おばさんは、ツカサくんなら引き受けてくれるって言ってたんだけどなぁ」
「母さん、なに言ってるんだよ」
頭を抱えてしまう。
母さんなら、勝手に決めそうで怖い。
というか、なんだか、みんなして俺をからかっているんじゃないかって気がしてきた。それにしては手が込みすぎているけど。
「ドッキリ?」
「だったらよかったんだけどね」
首を横に振るタクミの顔は真剣そのものだった。
「もちろん、無理なら遠慮なく断ってほしい。僕だって、サヤを安心して預けたいしね」
本音を言えば、サヤちゃんが家出した理由を知りたい。という気持ちもあった。嫌な予感が的中したあとでは、断るにしても聞かなければならないような気がしてきた。もちろん、野次馬的な卑しさもないわけではないけど。
「僕からみれば、女房がサヤに謝ればすむ話だったんだけど、ここまでこじれるとは思わなかったよ。ことの発端は、サヤが肩を出している服を欲しいって言い出したことで……」
最近よく見かける肩開きの服を、サヤちゃんのママ――ルミさんは駄目だと言ったらしい。
「珍しく、サヤがごねたらしくて……らしくてってのは、僕はその場にいなかったからで……ほら、僕、男だろ。兄貴と弟はいるけど、女兄弟はいないし。だから、妹はほしかったけどさ……まぁ、そんなことはどうでもいいし、言い訳にしかならないだろうけど、サヤの服選びとか美容院とか、そういうのは女房に任せがちになってたわけで、言い訳なんだけどな」
「まぁ、それはしかたない気がする」
「だろ。わかるだろ。……で、話を戻すと、女房が駄目だって言った理由がどう考えてもおかしいんだよ。ツカサくんも、『おばあちゃんが、駄目って言うに決まっているんだから、駄目』っておかしいと思うだろ?」
「…………えーっと、それは嫌だな」
自分のためではなくて、いくら身内でも他の人が駄目だからっていうのは、おかしいと思う。
「どうやら、今までも女房は『おばあちゃんが』って言ってたらしい。もちろん、僕のオカンのほうじゃないからな。それが、二週間くらい前の話なんだが、どうもサヤは納得できなかったらしくて……てか、納得できるわけがないよな。たぶん、傷ついたんだと思う。今にしてみればだけど、自分よりもおばあちゃんのほうが大事なのかってさ。本当に今にしてみればだけど」
タクミは、話しながら自分でも整理しようとしているみたいだった。
視線をさまよわせながら、こじれた関係をほどく糸口を探しているような、そんなタクミの横顔が、コンビニの照明よりもまぶしかった。
この従兄は、しっかり問題に向き合っている。そのことが、たまらなくうらやましくて妬ましかった。
俺の一部分は、あの日の踏み切りから動けないままだというのに。
「で、
「その場に、ルミさんもいたの?」
「ん? ああ、そうそう、いた。まぁ、二人きりで話したところで、結局、ルミの考え方をどうにかしないとだから、遅かれ早かれって感じで……僕は、サヤの意思を尊重するべきだと言ったんだけど、どうしてあそこまで……」
げんなりした顔を見れば、なんとなく察しがついた。
「つまり、サヤちゃんは自分のせいでパパとママが喧嘩したんじゃないかって、逃げ出した、とか?」
「たぶん、そんな感じだったんじゃないかなぁ。昨夜は険悪なままだったし、今朝もギスギスしてたし、僕でも逃げるかも……」
短く唸った彼は、あらためて助手席の俺に向き直る。
「これは、女房の問題だと思うんだ。今で言う毒親ってほどじゃないかもだけど、たしかにあっちのお義母さんは、よく口出ししてくるし。そういうのは、やっぱりこれから先もよくない。中学上がって、反抗期とかそういう多感な頃になる前に、女房の『おばあちゃんは正しい』ってのをやめさせたいんだ。女房がちゃんとサヤを一人の人として向き合えるようになるまで、サヤを預かって欲しい」
「……事情はわかったし、たぶん、サヤちゃんと距離を置くってのは正しいんだと思うけど、なんで俺が預かることになるの?」
そもそも、そこだ。
独身男の俺よりも、母さんの家のほうが広いし、兄夫婦とその子どもたちも同居しているし、俺と同じで学区内だし、向こうのほうがずっと適した環境だ。
「長男のソウマくん、今年受験生だろ」
「あーなるほどねぇ」
ツカサの母さんの家が選択肢から外れた理由に、納得するしかない。
「俺の実家というのもあるけど、できればツカサくんがいい。女房の実家のほうを刺激したくないんだ」
「なるほどねぇ」
過干渉な嫁の実家が問題だというのに、刺激したくないというのはもっともだ。
「となると、近くで預けられる家は俺のところくらいってわけね」
「ツカサくんしかいない」
グイッと迫られても困る。眼鏡越しでも真摯なタクミの眼差しから、目をそらして首を縦に振ってしまったじゃないか。
「わかった。夏休みってか、お盆までなら……」
「ありがとう、ツカサくん。もちろん、早くサヤを迎えに行けるようする、約束する」
やっぱり、問題を解決しようとするタクミがうらやましくて妬ましい。
それから、いくつか段取りというか、サヤちゃんが帰りたいと言ったら引き止めないとか、蒸し暑い車の中で話し合った。
「ツカサくん、本当にありがとう」
「ああ」
結局飲まなかった缶コーヒーを手に車を降りて、なんとなく見上げたアパートの灯りに、思わず悲鳴を上げそうになった。
「げっ、なんで寝室まで灯りがついているんだよ」
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