どんぶりと深皿

 なんでサヤちゃんがいるのか、そんなことは俺が一番知りたいよ。


「なんか、家出したから泊めてくれって言われて」


『なんですぐにタクミくんに知らせないんだい。こっちは大騒ぎなんだよ』


「しかたないだろ。ずぶ濡れだったんだから……」


『ずぶ濡れ? あんた、サヤちゃん風邪でも引いたらどうするんだい』


 サヤちゃんのことで気が動転していたのか、母さんは俺の話をしっかり聞く余裕がなくなっている。いつもはこんなんじゃないけど、それだけ心配していたんだな。


「そう思って、今、お風呂入ってもらってる」


『あんたにしては、気が利くじゃないか』


「まぁね」


 今さっきパンツを買いにコンビニまで全力疾走したとは、言えない。

 サヤちゃんがいつ来てもいいように、ベランダに出る。

 夏の雨上がりの空気は嫌いだ。生ぬるくて、じっとりと肌にまとわりつく湿気にげんなりするけど、今は我慢だ。


『じゃあ、タクミくんに変わるから……』


「あ、ちょっと待って」


 どうやら、タクミがそこにいたらしい。意識しなくても、声のトーンが下がる。


「こんなこと言いたくないけど、ほら最近よくニュースになってたりだろ……ほら、あれ……」


『タクミくんは……』


 母さんも察してくれたようだ。電話の向こうで曇らせた顔が、目に浮かぶ。


 俺だって、虐待なんて他人事でいたい。そういう可能性を否定しきれない自分が、腹立たしいくらいだ。


「母さん、サヤちゃんは俺のところに来たんだ。友達とかいるはずなのに、ただの親戚のおじさんの俺だよ。遊び半分なんかじゃないだろ」


『……そうねぇ。なんかタクミくんも心当たりあるみたいだし、遊び半分ってことはないだろうね』


 今ごろになって、家庭事情ではなく、学校でのいじめが家出の原因という可能性に気がついた。けど、可能性が増えたところで、どうしようもない。どのみち、サヤちゃんのことは、俺の手に余る。だったら、余計なことまで考えるだけ無駄だ。


 うーんと考える母さんには悪いけど、お風呂から出てきたサヤちゃんがダイニングキッチンにやってきた。サーモンピンクのパーカーの裾を目一杯引っ張っても、小さな膝頭に届かない。少しだけ、ロリコンの気持ちがわかるような気がした。生唾を飲み込んだ音は、電話の向こうに聞こえてない、はず。

 気まずくなる前に、サヤちゃんに軽く笑ってみせる。不自然に見えなければいいんだけど。


「母さん、とりあえず母さんだけで来てよ。ほら、一応、女同士でってことで……」


『一応ってなんだい。まぁ、あんたじゃ頼りないし、今から行くよ』


「ありがと。あ、着替えとかなんか、持ってきてくれると嬉しい」


『着替え?』


「とにかく、サヤちゃんが来たから切るね」


『ちょっと、ツカ……』


 電話を切って、ベランダから戻る。

 サヤちゃんは、所在なさげに待っていた。たぶん、少しは電話している内容を聞かれたと思う。

 あらためてサヤちゃんを、よく観察してみる。さっきは、俺が冷静でいられなかったりで、余裕がなかった。とはいえ、前回会ったのは今年の正月に祖父母の家に集まったときだったはずだ。挨拶程度しか交わした覚えがないから、普段とどこが違うのかなんて分かるわけもない。可愛いなという程度しか印象を持っていなかった。そう、俺にとってサヤちゃんは可愛い女の子でしかなかったんだ。

 結局、俺にわかるのは、目が真っ赤になっていることだけだ。もしかしたら、お風呂の中でも泣いていたかもしれない。


「サヤちゃん、お腹すいてない?」


「うん……ううん」


 首を縦に振ってから、慌てて横に振る。


「いや、俺もまだ晩飯食べてないし、一人で食べるのもなんだから、さ」


「でも……」


「とにかく、座って、座って」


 ビーズクッションを座卓の前に置いてみせると、サヤちゃんはようやく遠慮がちに腰を下ろした。


 俺の不安が伝わっているんだと、ふと気がついた。電話の内容とか、すごく気になっているに違いないのに、サヤちゃんは尋ねてこない。いや、きっと尋ねたくても尋ねられないんだ。


「サヤちゃんの口にあうかわからないけど、今からパパっと作るから」


 スカスカの冷蔵庫から、麦茶のピッチャーを取り出す。コンビニでジュースや食べるものも買っておけばよかった。後悔してもしかたない。


「まずは麦茶。どうぞ」


「ありがと」


 コップになみなみ注いだ麦茶は、あっという間に空っぽになる。俺もマグカップに一杯の麦茶を飲んで、あらためて喉が乾いていたことに気がつく。水分補給という重要な単語も、頭の中から抜け落ちてたらしい。

 母さんに電話して、余裕が出てきたと思ったのに、どうやらまだまだらしい。そういうものかもしれない。その時は、落ち着いて冷静に対処しているつもりでも、後になって気づかされる。そんな感じ。

 表情筋が緩むのを実感しながら、麦茶のピッチャーを座卓に置いて夕食作りを始める。


「さっき電話してたのはさ」


「ん」


「俺の母さん……えーっと、加賀美のおばさん? おばあちゃん?」


「加賀美のおばさん」


「そう、加賀美のおばさんね」


 壁際の調理台に向かって、サヤちゃんに背を向けていられるおかげか、不思議なくらいスムーズに話せる。


「その加賀美のおばさん、今から来てくれるって。着替えとかも持ってきてくれるだろうし、それまでの辛抱だから」


「なんで、加賀美のおばさんが来るの?」


「なんでって……」


 なんて言えばいいのか。どストレートに、サヤちゃんが万が一でも虐待とかされていたら、いきなり両親のもとに返すわけにはいかないだろうって、配慮したなんて言えない。

 ベーコンを切って卵を二つ割っても、まだなんて言えばいいのか考えていた。そんな沈黙に耐えかねたのか、サヤちゃんがポツリと言う。


「おじさん、変わってるんだね」


「ん?」


 急に、変わっていると言われても困る。


「普通は、すぐに追い返すよ」


「あー、なるほどね。その発想はなかったなぁ」


 なんとなく、サヤちゃんがたいして親密ってわけじゃない俺のところに来た理由がわかった気がする。


 サヤちゃんは、たぶん一人じゃ帰れなかったんだ。


 電子レンジのスタートボタンを押して、どんぶり代わりになる食器を探しながら答える。


「俺、ずぶ濡れで泣いてる女の子を追い返すほど、ひどいやつじゃないよ」


「……ごめんなさい」


 謝らせたいわけじゃない。でも、少しは会話がスムーズになってきた気がして嬉しい。


「謝らなくてもいいよ。何があったのかは訊かないけど、家出したくなるようなことがあったのはわかってるつもりだから、さ」


 カレーとかシチューに使っている深皿くらいしか、どんぶりの代わりになるものがない。


「俺、実はサヤちゃんくらいの年頃に、学校に行けなくなった時期があったんだ」


「不登校?」


「そう、それ」


 電子レンジが軽い音を立てる。


「母さん……加賀美のおばさんは、俺が言うのもあれで恥ずかしいんだけど、世話好きで面倒見がいいからさ。悩みとかあったら、相談してみるといいよ」


「…………たいしたことじゃないから」


「たいしたことじゃなくても、いいんだよ」


 別に作っておいたソースと、レンチンした冷凍うどんとベーコンをどんぶりで混ぜる。二人前なんて作ったことがなかったら、意外と混ぜにくい。


 たいしたことじゃなくてもいい。チカちゃんのときだって、たぶん最初はたいしたことじゃなかったんだ。たいしたことじゃないうちに、誰かがチカちゃんに手を差し伸べていれば――


「よし、できた」


 どんぶりから、深皿にわけて完成だ。


「なにそれ?」


「カルボナーラうどんだよ」


 不思議そうにどんぶりを覗きこんだサヤちゃんは、首を傾げてまじまじと俺を見つめてくる。


「カルボナーラって、パスタ、だよね?」


「これは、それのうどん版。いけるから、ほら、温かいうちに食べよう」


「ふぅん」


 俺の自炊スキルの無さを痛感する。

 案外、サヤちゃんはそんなに大人しい子じゃないかもしれない。

 必死の笑顔を作って、とにかく初めのひと口を食べさせないと。


「ほら、冷めないうちに食べるよ。いただきます」


「……いただきます」


 いただきますなんて、久しぶりだ。最後に手を合わせたのは、いつだっただろうか。たったそれだけのことなのに、胸の奥が暖かくなる。


「美味しいだろ?」


「うん。意外と美味しい」


 空腹のおかげもあっただろうけど、サヤちゃんは長い髪を手で押さえながらカルボナーラうどんをズルズルと食べていく。


 どんぶりと、深皿。

 可愛い女の子と、三十過ぎの冴えないおっさん。

 ちぐはぐもいいところなのに、食べ終わった俺たちはどちらからともなく手を合わせる。


「ごちそうさまでした」


 なんだか、ちょっとおかしくて笑ってしまう。

 今日はじめてのサヤちゃんの笑顔は、ぷっくりした頬に浮かんだえくぼがとても魅力的だった。


「そういえば、サヤちゃんが髪をおろしているの、初めてな気がするよ」


「……うん。いつもママがやってくれてたから」


 髪に触れながらサヤちゃんの顔がたちまち曇る。

 地雷を踏んだかと焦る前に、インターホンの軽い音が響いてきた。


「あ、加賀美のおばさん、来てくれたみたいだから、ちょっと待ってて」


「……うん」


 せっかく笑ってくれたのに、また表情が固くなる。


 俺は間違えたのだろうか。やっぱりタクミに連絡すべきだったのだろうか。


「ツカサぁ、早く開けなさい」


「わかってる」


 玄関を開けると、そこには両手に大きな袋を下げた母さんと、実家で同居している兄さんの妻――義姉さんがいた。


「あれ、義姉さんも?」


「ツカサくん、お久しぶり」


「先に上がっているよ」


 戸惑う俺は、母さんにあっさりと押しのけられる。


「えっ、ちょっと待ってよ、母さん」


 義姉さんは慌てる俺の腕を掴んで、外に引っ張り出す。


「アパートの向かいのコンビニで、タクミさんが待ってるから」


「えーっと……」


「話があるんだってさ。ほら、義弟よ、さっさと行く」


 戸惑う俺の目の前で、バタンと俺の玄関の扉が閉まる。


 どうやら、二度と行きたくないと思ったあのコンビニに早くも行かなきゃならないらしい。


「マジかよ」

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