服がない
どうしてこうなった。
サヤちゃんは、母方の従兄の子だ。たしか、小学五年生だったはず。そもそも、正月とか一年に一度親戚の集まりかなんかで顔を見る程度のはず。家出したからって、頼ってこられるような心当たりはないはず。いや、まったくないって断言できる。
玄関でサヤちゃんがタオルで長い髪を拭いている間に、俺は風呂の準備をする。
あんなに濡れてたんじゃ、タオルで拭いたくらいでは風邪を引いてしまう。
「サヤちゃん、それで、その、なんで俺の家に?」
玄関に戻って、新しいタオルと交換しながら尋ねた。
「……近かったから」
「……うん。いや、そうじゃなくてね」
たしかに、近い。同じ小学校の学区内だし、自転車でなくても歩いて行ける距離だ。
そもそも、尋ねたいことがたくさんありすぎて、なんて言えばいいのか、わからない。相手が小学生だということも大きい。小学生と接する機会なんて、一人暮らしの独身男にそうあるわけじゃない。必死で言葉を探していると、サヤちゃんは沈黙に耐えかねたらしい。
「……前に来たことあったから」
「そう、だっけ?」
「うん。去年、パパと旅行のお土産持ってきたよ」
「あーあったね、そんなこと」
そういえば去年の八月の終わりくらいに、従兄のタクミが家族旅行の土産を持ってきたことがあった。そのとき、サヤちゃんも一緒にいたかどうかまでは覚えていない。そもそも、土産が何だったかも思い出せない。
「って、そういうことが聞きたかったわけじゃなくて」
「ん?」
いきなり、家出の理由を尋ねるのも厳しいし、さっき泣いてたしな。
「どうして、俺の家に来たのかってことなんだ。ほら、はっきりって俺、サヤちゃんとそんな仲良しってわけじゃないじゃん」
「それは……」
うつむいてしまった。
非常に気まずい。気まずすぎる。これでもし泣かれたりしたら、俺はどうすればいいのか。
「……あ、お風呂見てくるね」
結局、浴室に逃げる。
どうして、俺のところに来たのか。普通は、もっと身近な人のところに行くものじゃないだろうか。たとえば、友達とか。
「そもそも、小学五年、なんだよな」
そんな子どもが家出なんて、俺には考えられなかった。たぶん、遊び半分で友達ところに「家出」することはあっても、本気で家から逃げ出すような人を、俺は直接知らない。
「よほどのことがあったって、ことだよな」
それは、たぶん俺の身に余るようなことだ。
全開にしてあった蛇口を閉めて、玄関に戻る。
「サヤちゃん、お風呂入って。そのままじゃ、風邪ひくから」
「うん……くっしゅん」
「…………」
なんてタイミングでクシャミをするんだ。思わず吹き出しそうになったのをこらえながら、彼女を浴室に案内する。
「何かあったら、呼んでね」
「うん」
一応、そう言ってみたけど、呼ばれても困る。
なぜこんなに気を遣わなきゃいけないのか。
ダイニングキッチンに逃げこんで考えるけど、答えは決まっている。
「五年生、だもんな」
あの子が踏み切りで自殺したのも、五年生だった。
俺にとって、女の子は壊れやすい生き物だ。
カンカンカンカン…………
遮断器の向こうの赤いランドセルのチカちゃんが、サヤちゃんに変わる。
「うっ」
グラリと体が傾く。壁に手をついて、目を閉じる。
やけに息が荒いな、俺。こんなことしている場合じゃないだろ。
カンカンカンカン…………
放っておいたら、サヤちゃんも…………
「違う。そうじゃない。サヤちゃんは、チカちゃんじゃない」
深く息を吸って、赤いビーズクッションにずるずると沈む。
「タクミに知らせないと」
グレイの短パンのポケットからスマホを取り出した手は、震えていない。それだけで、余裕が出てきた。
『宇野
連絡帳に登録してあった従兄の番号に電話するは、これが初めてかもしれない。
ふと、さっきずぶ濡れで泣いていたサヤちゃんの姿を思い出した。
「よほどのことって、タクミに限ってって思いたいところだけど……」
最近、ニュースとかで話題になった児童虐待という言葉が脳裏をよぎる。
従兄に限って、そんなことはないと思うが、確信なんてない。
結局、サヤちゃんの父親ではなく、俺の母親に電話をかけることにした。
「……なんで出ないんだよ」
五回かけたが、電話に出ない。座卓の上の時計を見れば、まだ十九時すぎたばかり。家でバラエティ番組をダラダラと見ている時間帯じゃないか。通話中ならまだ諦めがついたが、出ないのはイラ立ちだけが募る。
「まったく、なにやってるんだよ、母さんは」
腹が減った。
「サヤちゃんも何か食べさせたほうがいいのかな」
たぶん、夕飯は食べてないだろう。それに、荷物も持っていなかった。
「ん? 荷物を持っていなかったってことは……」
サァーっと血の気が引く音が聞こえた気がする。
急いで浴室の方に向かう。なにげない水音に、心臓が跳ね上がる。脱衣かご代わりにと置いておいた洗濯カゴの中には、水色のワンピースとパンツ。パンツは、見なかったことにしよう。
「サヤちゃん、ちょっと訊きたいんだけど、いいかな」
「なぁに、おじさん」
少しはリラックスできたのか、さっきよりもずいぶん声が明るい。
「家出してきたって言ってたけど、着替えとかは、そのぉ……」
「あっ」
短い声で、察しがついた。
たぶん、サヤちゃんは計画的に家出したんじゃない。飛び出してきたんだ。
「持ってこなかった。どうしよ」
「…………」
俺がどうしようだよ。
また乾いていないワンピースを着せるわけにはいかないし、かと言って男一人暮らしのこの部屋に女の子の服はもちろん、女の服もあるわけがない。俺の服は……ないな。
こんな時に、母さんと連絡取れないし。
「ワカッタ。さやチャン、オジサンガドウニカスルカラ、ユックリオ風呂入ッテテ。イイネ」
返事も待たずに、俺は一度置いた財布をポケットに突っ込んで、アパートを飛び出した。
駐車場と反対側の道の向こうに、コンビニがある。なんか、シャツとかが置いてあったことを思い出して、全力で道を横切ってコンビニに駆け込む。
そして、すぐに絶望した。
「……ない」
ストッキングやネクタイ、トランクスにタンクトップとかはあるのに、女性下着――パンツがない。女の子用のパンツが置いてあるとは考えていなかったけど、女性用のパンツはあると思いこんでいた。
落ち着け、俺。どうする、俺。考えろ、俺。
頭をガシガシかいてもう一度棚を見ると、さっきは気づかなかったモノがあった。
「ショーツ? あ、これか」
パッケージのシルエット的に、黒いパンツらしきモノを発見した。とりあえず、Mサイズを買い物カゴに放りこむ。
それから、ショーツというなのパンツの横にあったキャミソールとバスタオルとフェイスタオルを一枚ずつ、歯ブラシと歯磨き粉のセット、お泊りセットとやらも思いつくものを買い物カゴに入れてレジに急ぐ。
レジの男性店員と目を合わせられない。
女物もパンツとかお泊りセットとかキャミソールとか、何か勘ぐられたらと思うと、とても目を合わせられなかった。もちろん、その他多くの客の一人だし、いちいち気にもとめない可能性が高い。頭では考えすぎだとわかっていても、俺は不自然にうつむいて顔をあげられなかった。もう二度とこのコンビニに来れない。
会計をすませて、また急いで戻る。
アパートの階段は、二段飛ばしで駆け上がった。
サイズは我慢してもらうけど、とりあえずなんとかなりそうな物は買えた。あとは俺のパーカーでも羽織ってもらおう。
帰宅するなり、パンツとキャミソールとバスタオルを開封して、お泊りセットと一緒に浴室に急ぐ。
「って、これだけじゃあれだろ」
一度寝室に、薄手のパーカーを取りに行ってから、急ぐ。
「サヤちゃん、下着とバスタオル、買ってきたから使ってね。その、サイズは我慢してほしいんだけど」
「わかった」
さすがに、ここで贅沢こねられたらブチ切れてた。
「で、お泊りセット。そのシャンプーとか色々入ってるやつも買ってきたから、ドアのところに置いておくね。あとは、俺のパーカーも、よかったら」
「ありがとう、おじさん。あ、さっき電話鳴ってたよ」
「電話?」
「うん、三回くらい鳴ってた」
「やっべ」
母さんだ、きっと。あわててスマホを置いたまま、コンビニまで行ってたようだ。
「サヤちゃん、ゆっくり温まってね」
「うん」
急いでダイニングキッチンに戻ったタイミングで、座卓の上のスマホが鳴り出す。
『なんですぐに出ないんだい!』
通話をタップするなり、いきなり怒鳴られた。理不尽だ。
「母さんこそ、なんで出てくれなかったんだよ」
『タクミくんところのサヤちゃんがいなくなって、大騒ぎなんだよ。たいしたようじゃなかったら、切るからね』
「ああ、なるほどね、そういうこと」
それこそ、さっき電話に出てほしかったと言いたくなる。急に力が抜けてきた。
「サヤちゃんなら、うちにいるよ」
『は? なんだって、あんたん所にいるんだい?』
「こっちが知りたいよ!」
思わず叫んでしまった。
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