この夏が過ぎれば

笛吹ヒサコ

ツカサ

雨上がりの夕暮れ

 それをフラッシュバックと呼ぶには、俺は鈍感になりすぎてしまった。


 カンカンカンカン……


 いつもの踏み切り。

 降りてくる遮断機。

 止められなかった赤いランドセルのあの子。

 それから――



 過去はいつも、ふとした瞬間に蓋を押し上げてくる。

『お支払い方法を選択してください』

 セルフレジのタッチパネルを操作しながら、ずいぶん色あせてしまったなと、ほんの少しの自責の念にかられる。

 それでも、俺は財布の中の小銭を数えながら支払いをすませていく。その間も、止まれなかった電車は――もういいだろう。

 過去に蓋をして、エコバッグを手にして次の客に場所を譲る。

 鈍感になることで自分を守ったというのに、鈍感になったことを後悔して、その後悔にも鈍感になっている。


「降ってきたなぁ」


 傘を持ってきて正解だった。

 買い物の最中では邪魔だった黒い傘が、無駄にならずにすんだわけだ。

 スーパーの傘立ての前にいた学生らしい茶髪の男と目があった。ほんの一瞬だけだったし、たまたま目があっただけだ。それなのに、相手はなぜか腹立たしそうにビニール傘を引き抜いて出ていく。なんだったんだろうと考えるよりも先に、年配の男性という形をした答えがやってきた。


「傘がない?」


 傘立ての前で彼が探している傘は、たぶんさっきの茶髪が持っていったのだろう。

 かわいそうだとは思うが、傘を持っていった犯人を教えるほど、俺はおせっかいじゃない。


「あぁ」


 俺に鈍感さだけでなく、あの茶髪の図々しさの何割かもあれば、こんな冴えない人生を過ごすこともなかったのかもしれない。

 自動ドアの外で傘を広げた俺は、たぶんひどく情けない顔をしていただろうな。


 一昨日、梅雨明け宣言がされたばかりだというのに、こうして急な雨に遭遇すると、あの宣言になんの意味があるのか不思議に思う。

 今日は月曜日。週末との区別も特にないわけだけど、週の初めから雨というのはそれだけで憂鬱さが増す。


「これで、帰る頃にはやんでたりしてな」


 雨なんか憂鬱で厄介だ。なのに、わざわざ傘を取りに一度引き返した手間を考えると、帰るまではやまないでほしいと矛盾した願いを持っている俺もいる。

 水たまりを飛び越えたり、逆に勢いよく踏みこんだり、そんなことをしていたのはいつのことだったか。


「まったく……」


 蓋をしている過去の幻影を見せつけられたあとは、どうもネガティブになってしまう。


「まったく……」


 独り言もこうして多くなる。


「まったく……」


 なにがまったくなのかわからなくて、クスッと笑ってしまう。


 ほんの少しだけ、目の前の水たまりを飛び越えてみたい衝動が首をもたげる。だが、そんなことをしても何も変わらないことくらいわかっている。


 結局、水たまりを避けながらいつもと同じ帰路を行く。

 夏の夕方は長過ぎる。家を出る前には、雲行きが怪しかっただけで、スーパーで買い物をしていた短い時間のうちに降り出した。それが今にも上がりそうな気配がし始めている。それらは、全部夕方のひと時の出来事にすぎない。


「やむな、これ」


 ついさっきは、帰るまでやまないでほしいと思っていた。だが、いざやむとなれば、それはそれで少しも残念ではなかった。


 さっきの茶髪の男は、十分程度待てば傘を盗まずにすんだのではないか。いや、そんなことはないか。なぜか俺が悪いことをしたかのようなあの目つきを思い出して、考え直す。十分でなくても、ほんのわずかな時間だって、あの男は待てなかったに違いない。


 雨がやんだのは、俺が住むアパートの駐車場の手前まで来たところだった。


 二階建てのそこそこ年季が入ったように見えるアパート。実際にはそれほど築年数は経っていなかったような気もするが、ほどよく街に溶け込んでいるライトグレイの外観に、ちょっとした居心地のよさを感じている。その中に1DKの俺の部屋がある。


 カンカンカンカン……


 今日はやけに過去が蓋をこじ開けてくる。

 雨が降って嫌な気分になっているからだろうか。


 だが、蓋をする前にあるものが目に止まって、めずらしく強制的に幻影は霧散した。


「ん?」


 それは、駐輪場に止まっていた見慣れない自転車だった。いかにも女児向けのピンクの自転車だ。おそらく持ち主は小学生だろう。だが、このアパートに子どもはいない。俺のような独身男性か、同性カップル、あとは老夫婦くらいしか、このアパートで見かけたことがない。もっとも、全部で十二部屋しかないけど、俺が知らない住人もいる。


「まぁ、そろそろ夏休みだしな」


 老夫婦の孫とか遊びに来たのかもしれない。適当に理由を作り上げて、勝手に納得する。


 部屋がある二階に上がると、奥から二番目の俺の部屋の前でうずくまっている女の子がいた。


「……」


 数秒、思考停止していたかもしれない。とにかく、頭が真っ白になっていたのは間違いない。

 すぐに我に返ったが、そうでないことを祈りながらびしょ濡れで膝を抱えている少女の名前を呼んだ。


「サヤちゃん?」


 ビクッと顔を上げたのは、やっぱり従兄いとこの娘だった。


「ツカサおじさん、あ、あの……」


 驚かせるつもりはなかったし、驚いているのはこっちのほうだ。それに、さっきの雨のせいか頭からずぶ濡れだったせいで気がつかなかったけど、どうやら泣いていたらしい。

 まったく状況が理解できなくて戸惑うばかりの俺に、サヤちゃんは深々と頭を下げた。


「家出したから、泊めてください」


「…………」


 絶句とは、たぶんこのことを言うんだろうなと、他人事のように頭のどこかで俺の声を訊いたような気がした。

 全力で逃げ出したい衝動をおさえて、ギリギリ踏みとどまった自分を褒めてやりたい。


「トリアエズ、風邪ヲ引イタラあれダシ……入ッテヨ」


 なぜか片言の日本語のような喋り方になってしまった。ガチャガチャと鍵を開けるのに、なぜか手こずる。


「お邪魔します」


「タオル、取ってくるから待ってて」


「うん」


 靴を脱いで振り返ったサヤちゃんの向こう――閉まろうとしていたドアの隙間から見えた夕日が、ハッとするくらい赤かった。

 まるで、何かの予兆のような夕日に息を飲んだのは、ほんの一瞬のこと。


「タオル、タオル」


 鮮やかな夕日と、突然やってきたずぶ濡れの親戚の女の子。

 俺の日常が、変わってしまう。そんな胸騒ぎがした。

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