第3話

めでたい


ああ、もう出ていかれるんですか? 


そうでしたね、明日には東京に帰らなくてはならないんでしたっけ。


……ええ、この土地はほら、この通りほとんど外から人からいらっしゃらないので……ふふ、ええ、お土産はここから見える湖くらいです。あれですね……とても大きいですよね、翡翠みたいに曇ってて、不思議な青緑で、霞んだような乳白色がかかってて、なんだか不思議な感じがして。


……いえ、なんでなのかは分からないんですけれど。


……そうなんですね、透明で青緑の滝もあるんですか……四国の方に。やっぱり学者先生は、そういういろんな事をご存知なんですね。


あの鯛の煮付けですか? ありがとうございます。肉厚で柔らかくて美味しかったでしょう?


……そうなんですよ、今朝上がったんです。


……もちろん海からのものではありませんよ。ここからはかなりかかりますから……


そうなんです。あの湖から上がったんですよ。 どちらも知りません。すいません…私の母…祖母くらいの世代なら、理由は知らないだろうけど、伝承の方なら知ってるかもしれませんよ。




湖と鯛について聞かせて欲しい?


そんな事聞いてどうすんだい?珍しいお客さんだねえ。


ああ、研究者さんなんだね。なるほど。 あの湖は元々海だったらしい。ほんとうにはるか昔、陛下の御先祖様が神様だった時代よりも……その名残なのか分からんけど、あの湖からはごくごくたまに鯛が捕れるんだ。


……そうそう、普通なら、鯛だけ。海の魚が捕れるってこと自体不思議な話なんだけど。それで、その鯛を食べると、若い男なら、とても腕のいい漁師になれるっていう話もある。もしかしたら「めでたい」とか「たいりょう」にかけてるのかも知れないね。先生、釣りはする?


しない?そうかい、これを機会に初めてみたらいいんじゃないかい?もしかしたら名手になれるかもしれないぜ。

でもなぜか、その鯛の目玉だけは食べてはいけないらしい。毒があったりすんのかは分からんが、ほら、魚の目って食感も見た目も不気味じゃないか。ヌルヌルとしていて、がらんどうで……それに、なぜかここの鯛は目まで赤かっただろ?


醤油で煮付けてて分かんなかったか。たしかに上手い食い方だしなあ……湖に住めるくらいだから、きっと特殊な変化なんだろうと思うがね。殊更恐ろしいというか…その食わず嫌いが、そんな言い伝えを産んだのかも知れないね。俺も身こそあれ、目は食べたことないんだから 。

……あ、そういえば母さんから聞いたことがあったな。俺がガキの頃、物心がつく前に一度だけ、その目玉を飲み込みかけた時の思い出話をした時に。母さんは俺よりも古いの人だから、かなり迷信深い人だったし、そういう伝説とか伝承なんかもよく知ってたんだよ。


今よりもずっと前、ある漁師の男が湖でいつもの様に網をかけてたら、鯛が釣れたそうだ。もちろんまともな道なんて、まあ今もまともとは言い難いが、勿論ありゃしなかった。だから海の魚なんてほとんど見たことがなかったわけだ。その初めて見る、目まで赤い美しい魚は、まあ間違いなく、ここで伝わる鯛だと思ったのだろうね。こりゃめでたい、と男は鯛といつもの魚を持って帰って、奥さんとその息子と一緒に食べた。その時、息子から目を離した隙に目玉をつるりと飲み込んでしまったんだな。


……そうそう、さっきの話。だかすぐには何も起きず、両親は胸を撫で下ろした。その日を境に、伝説の通り、男の網にはたくさんの魚がかかるようになった。今までは細々とした有様だったのに、朝市で売っても余り、干物にしても余り、村中の人達に配ったほどだったそうだ。羨ましい限りだねえ…次は息子も船に乗せて漁に出ると、今度は鯛ばかりではない、様々な見たことの無い魚まで網にかかるようになった。鯵とか鮃とか蛸とか、そういうやつだろうね。もしかしたら目玉を食べてはいけない、という話は、あまりに魚が取れすぎてしまって怠惰になってしまうから、ということで話されていたのかもしれないな。なんて言いながら、この子は海の神様とご縁を結んだのかもしれない、とたくさんの魚を前にそんな事を言ったそうだ。

……いやいや、ここで終わりじゃないぜ。勿論……

それから、息子を釣れて漁に行った、三度目の日の夜のことだ。男は奇妙な夢を見た。周りが乳白色に霞んだような、美しい青緑色に囲まれた空間で目を覚ませば、自分の横を唐紅の衣を着た美しい人達が過ぎ去ってゆく。不思議なことに足音はまるで聞こえず、明確な光源もないのにちらちらと、まるで水面のように、蛇の腹のように虹色にその衣は光るんだ……まるで夢を見るように……いや見ているのだがね……その人たちの行く方に足が自然と歩を進めていった。

どれくらいたったのか、いつの間にか周りは真っ暗に沈み、息苦しい程に闇に沈んでいた。その恐ろしさに夢中に走れば、眼前にひときわ美しい、珊瑚の唇と、桃色の頬と、薄紅梅の耳と、篝火のような瞳の人が立っていて、声をかける前に、その人は唇を緩やかに動かし、手招きした。

「あなたとのご縁は結ばれました」

は、と目を見開けば、その人の手は、どこから現れたか知らず、男の息子の肩に添えられている。男は息子を取り返そうとするが足が動かない。なんなら声も出ない。夢の中だからね。

「その目がないと、私の清い海水で磨かれていた瞳は、真水で腐れてしまう」

「返していただきます」

「さあ、海の都に参りましょう」

そうやって囁くと、瞬く間に泡となってふたり人は消え失せ、そこでその男は目を覚ました。とんだ夢だ、今も鼻に嫌な潮と水の臭いがする気がする……なんて。おい、朝だぞ……と隣の息子の布団に手をかければ、嫌な臭いがグッと鼻をつき、噎せ返るほどだ。ゾウっと立った恐怖と鳥肌を押さえつけて布団をはぎ取れば、そこには息子の死骸があった。

目玉が飛び出て水で酷く浮腫んだそれは、まるで水底に住む深海魚が陸に上がった様だったそうだ。

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紅白のはなし ウラカゼ @1121uaae

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