第2話
とある家
その家がいつからあったのかは知らない。
少なくとも、ランドセルを背負っている状態でそれが視界に入っていたことは確実だから、小学生の時分にはあったのだろう。
それは白い外壁の家だった。清潔な実験施設とも、近代的な美術館とも、宇宙人の落とした謎の施設とも見えた。閑静な、古くからある住宅街にあるのだから、恐らく家だろう。しかし、それすら断言していいのか迷う。それほどまでに無機質な、四角い、コンクリートと石英の建物であった。
不思議な事といえば外観もそうだが、その建物の不思議な性質にもあった。季節を問わずに虫がよくいるのだ。緑や紫にちらちら反射光の変わる黄金虫や、いやに黒光りする甲虫や鍬形虫、色の淡いステンドグラスのような数多の蝶々など、色々なものがよくいた。それらは、今より虫に対する抵抗感の無かったはずの幼心からしても―いや、細かい事に目の行きやすい、それ故かもしれないが―甚だ私の目には不気味に映ったが、それと同時に神秘的な美しさも感じられた。
夏の空気が揺らぐような熱と、人工的なまでに平等に降り注ぐ光と、あまりにも深い青空へ色を差すその白い家の光景は、重力を反転させ、海と砂浜を思い起こさせて、より私の喉の渇きを煽った。また白い外壁を蝕む生命としての緑色の蔦と、青い昼空を侵す非生命としてのその家の光景は、あまりにもよく出来た生け花のように思われた。そして、そこに宝石のように様々な光をはねっ返す虫たちの存在も相まって、その白磁の四角い家の奥には、季節を問わず甘いにおいを振りまく花が咲き乱れているのではないか、常春の庭があるのではないか、と想像が掻き立てられた。もしかしたら、天空の某とかいう遺跡がここにあったのかしらん。とも。
何はともあれ、その無機質で鮮やかな白は、私の記憶を今もなお侵している。
その家がいつから消えていたのかは知らない。
私の視点は高くなり、その視界からはあの白は消えていた。それに気づいたのは大学生の時分であった。早く昼寝をしたい。暖房の効いた部屋で思いっきり寝たい。 授業が午前で終わったその日、寝不足の心身で帰路を歩いていた。足早に坂を下る。真昼だと言うのに既に傾いた日差しは色の濃い光を投げかける。喉を焦がすような寒風が髪をあおる。
淡い青色のグラデーションを遮った白い外壁は無くなり、直に陽の光が目を焼く。酷く乾燥して傷んだ目にはきつく、目を伏せて地面を見れば蟻が角砂糖を運ぼうとしている。運べずにもがく1匹を見かねて、他の蟻達も寄ってくる。十匹ほどが集まってようやくその白い塊はどこかへ運ばれていった。そこでやっと、私はあの家がなくなった訳を知った。強く風が吹く。それはカラメルのような、甘い枯葉の匂いだった。
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