紅白のはなし

ウラカゼ

第1話

彼方より


今年の正月は寒くてしょうがなくて電気ストーブの温かい光だけが唯一の救いだったこの家は、今は青黒い影が大きく家に差すくらい、周りの緑が勢力的だ。去年に比べて、またその前の五月に比べて、ガラス窓から入る光が強い。気がする。この数日間で、田舎らしい広くて大きな庭に咲いていた様々な薔薇が目に見えて華やいでいる。近くで作られる濃い香りが、空気を入れるために開け放った窓から重く漂う。私にとってのゴールデンウィークの香りと言えば、このおじいちゃん家の香りだ。赤く熟れた、または紅く染まった、または明くほの光る、または朱く色付いた、または緋く爛れた、そして赫く燃える、薔薇達の香り。人工的にただ甘いだけじゃない、青さも含んだ濃い匂い。


「今年も一段とすごいね」

「ん、うん、そうだなあ」


おじいちゃんも見惚れていたらしい。ゆっくりと振り向いて笑う。


「久しぶりだなあ。また大きくなったんじゃないか?」

「いやいやもう成長しないから。おじいちゃんの方はどう?」

「俺の方は変わりないよ。変わったことと言えば……ほら、あれ、また植えたんだ」

「あ、あの小さいの。あれもバラ?」

「そうだよ」

「ほんとに好きだよねえ」

「うん」


西日におじいちゃんの未だに光の衰えない瞳が柔らかく輝く。老眼鏡の反射が眩しくて思わず目を瞬かせた。


「百合子は恋人できたのか?」

「ええ、聞かないでよそういうの。ていうか私女子高だからね。おあいにくさま、そういうご縁はないよ」

「おお、そうだったっけ」

「そうだよ」

「百合子は絹と雪乃に似て顔がはっきりしてて綺麗だから、もう居るものかと思ってたよ」

「はは、ありがと。彼氏は大学まで待っててよ、見せてあげるからさ」

「それまで生きてられるといいなあ」

「やだな、縁起でもない!」


ハーフみたいに明るい、西日に溶けるみたいな瞳、豊かな銀髪、若い頃さぞ美形だったのだろうと思わせる顔立ち、優しい声。きっと男女問わず、おじいちゃんは人気だったのだろう。絹おばあちゃんもぞっこんだったし。外国人が少なかった時代だったのだろうから、それこそハーフだと勘違いされたに違いない。そういえばおばあちゃんとの馴れ初めとか、学生時代の思い出とか、おじいちゃんの口から聞いたことない。まあそういうのは自分から話すものでもないのだろうけど。


「おじいちゃんはさ、学生時代にさ、彼女いたの?」

「ん?」

「彼女だよ、彼女! おじいちゃんぜったいモテてたんでしょ~?学生時代のそういうの、聞かせて!」

「んん、そうだなあ……ふふ」

「その反応は~!」

「俺が聞いたことだしね、じゃあ教えてあげるよ」


  ガチャリ、とドアが開いてお母さんが入ってくる。薔薇とはまた違う、爽やかな甘い匂い。ガラスのポットから香るアップルティーのものだ。


「あ、お父さん、ここにいたの」

「お母さん」

「お、雪乃」

「今からおじいちゃんが学生時代の話聞かせてくれるんだってー」

「そうなの? 私聞いたことないから聞きたいな」

「はは、雪乃が聞くとなると恥ずかしいというかな」

「なに、まずいことあるの?なぁんて」「

まさか、そういうことじゃないけどね。なんかこう、自分のアルバムを見られるような気分じゃないか」

「ふふ、確かにね」


カラン。溶けかけの氷にアイスアップルティーが注がれて揺れる。三つぶんのグラスが満たされた。


「まず百合子の憶測の話だけど、あれは間違ってるよ。俺はぜんぜんモテなかった」

「ええ!嘘!」

「本当だよ。手紙やプレゼントを渡された事だってないし、なんなら告白されたこともなかった。なんなら女の子と話しても長続きしなかった位だよ」

「それは女の子たちが怖気付いたり恥ずかしがったりしてたからじゃないの?」

「そうかな?」

「そうでしょ~」

「はは、もう今となっては分からないけどね。それにね、俺が学生時代に好きだったのはひとりしかいなかったんだよ。だからモテるモテない以前の問題だね。」

「え、その人が……」

「はは、絹ではないよ」

「流れ的にそうだと思った」


少し薄まったアップルティーで唇を潤す。結構意外だ。イケメンすぎたり美人すぎると逆に寄ってこないと聞くけどその口だったのか。


「その人に出会ったのは十七の時だったかな。学年が上がって、クラスが変わった時に初めて顔を見たんだ。」

「そうなんだね」

「うん。それまではまったく知らなかった。一学年の人数は多分、今より少し多いくらいだったろうけど、あまり友達の多そうなタイプじゃなかった。」

「狭く深く、のタイプなのかな」

「そうだったろうね。クラスが同じになっても話す機会はほとんどなかった。身体が弱いって訳じゃなかったんだろうけど、休み時間に外に出て遊んでた様でもなかったしね」

「へえ、おばあちゃんとは随分タイプが違う人だったんだーお嬢様だったのかな」

「はは、お嬢様ね……確かに家柄は良かったらしいよ。でもお嬢様……ふふ、ないない。だって、休み時間にラジオで聞いた落語の話を友達とするような上流階級の人はいないだろ?」

「珍しいの?」

「んーまあ、今ほど文化的価値があるものって感じには見られてなかったからね。」

「そうなんだ」

「俺はそこまで落語には興味はなかったけど、授業中静かにノートを取ってる横顔しか知らなかった俺からしたら、すごく新鮮で、気になったんだよ」

「ははあ」

「一目惚れだ!」

「当時はそうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないね。でも今は自信を持ってそう言えるよ。あの陶器みたいに整った、冷たいような、学生らしからぬ大人っぽい顔が、子供みたいに笑顔で埋められるのを見た時の胸の高鳴りったらなかったから。校庭からそれを見ちゃったものだからね、もうたまらなくなって叫びたいのを懸命に堪えたよ。」

「お父さんもそんな頃があったんだねぇ……」

「あったさ。その時から俺もラジオでの落語を聞くようになってね。必死に話のネタにしようとしてた。そこから少しずつ話しかけられるようになって、あの人は俺にも笑顔を見せてくれるようになった。 夜遅くに聞きながら、ああ、あの人も今聞いてるのかな、なんて思って嬉しくなったりもしたよ」

「あ、今もおじいちゃんが寄席に行ってるのはその人の影響なの?」

「はは、百合子、そうだよ、その通り」

「な、なんか恥ずかしくなってきた!聞いてる方なのに!」

「そうかい?確かに親の伴侶以外の人との惚気話は気まずいかもしれないね。まあ、そろそろ終わるよ。

今より少し後の季節かな。もう少し熱くて汗ばむ位だった気がする。向こうには、今はないけど、大きな薔薇園があった。知ってるかい?昔は温室とか薔薇園が色んな所にあったんだよ。そしてやはり今みたいに沢山の薔薇が咲いていた。俺とその人は小型ラジオを持って、やっぱり一緒に聞いていた。とは言えそれは「てい」でしかなかったけどね。俺と言えば、落語を聞いたり薔薇を眺めるふりをして、その人を盗み見たり笑い声を聞くのに必死さ。聞き始めて二つ目の話のオチまで聞いてから、俺はその気持ち的にも体温的にも熱いのに耐えかねて、売店にアイスクリームを買いに行った。それは当時では珍しい、薔薇の花弁の入ったやつだった。

でも俺はバカで、ひとつしか買わなかった。初めての二人きりだったから焦ってしまったんだよ……ふふ、ほんとうに若かったね。それでその人の所に帰ってからそれに気づいて、俺は急いでもう一つ買いに行こうとしたけど「いいから」と止められた。俺が心底好きだった笑顔を浮かべられて、動ける道理なんてなかったね。その人の白い肌が上気しているのとか、黒い髪が水に揺蕩うみたいに額に張り付いているのとか、クリーム色のアイスから赤い花弁を器用に引き抜く唇とか、ね。それが重く青黒い薔薇達の中に浮かんでいるような、その光景を」


一息にすっかり氷の溶けたアップルティーを飲み干す。


「俺は多分、この季節になる度に、必ず、思い出すんだよ。恋心としてではなく、夢を見た後のデジャヴュとか、何度も美しいものとして脳内で繰り返す映画みたいにね」


その瞬間、薔薇の匂いが鼻をくすぐった。こんなに近いのに、まるで遠くから、微かに香ってくるような。


「彼と、瑞樹と一緒に食べたそのアイスの味と、薔薇の匂いと一緒に、彼を必ず思い出すんだ」


しかし確実に、その赤色の、青くて甘い匂いは



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