月面広告

黄瀬 孝秋

月面広告

それは寒い日だった。


僕はドアに寄りかかりながら、ぼんやりと中吊り広告を眺めていた。神様の使いだとか、願いを叶えるだとかいう、胡散臭い自己啓発本だった。


わずかに揺れる下り電車の中、立っているのは僕ともう1人、僕とそっくり同じ制服を着ている、名前も知らない男子だった。


そいつは低い声で呟いた。


「間もなく月面〜、月面に止まりまぁす。お出口は左側です。ホームに段差がございますので、お下りになる際は十分ご注意ください……。」


僕は変な奴だなと思った。

濃紺の七人掛けに座って暗い顔で携帯をいじっているサラリーマンもOLも、誰もがそいつに気付かないふりをしていた。


するうち電車がゴトンと急停車して、彼はよたよたと横に歩いた。僕も少しつんのめったが、またすぐにドアに背を預けると、ため息をついて外を見た。


‪やれやれ、またか。


急停車‬は‪ここのところしょっちゅうだ。

ブーーッという非常停止ボタンの低い音が車内にも微かに聞こえてくる。

僕は何気なくドアの外を覗き込んで、そして目を見張った。


一面銀色の地平が広がっている。

岩で出来ているみたいにゴツゴツしていて、地下一階分くらいの巨大な窪みがいたるところにある。

CGで合成されたような、何にもない平原で、ドアはひとりでに開いた。


ピンポン、ピンポン、という警告音がしてドアが開いていくのを、僕は気配で感じた。

非常停止のブザーが急に鮮明に聞こえてくる。

冷気が首筋を撫で、僕はバッと後ろを振り返った。


誰もいなかった。やっぱり、銀色の岩場があるだけだ。

そしてその岩陰の方から、思わず鳥肌が立つような空気が流れ込んでくる。


寒いのとは違う。

触れられるとゾクゾクッとして背筋から痺れるような気配だ。


僕はドアの向こうに目をこらす。僕たちはやっぱりこの銀色に囲まれている。

四方八方岩場ばかりで、動くものもなかった。


僕がしばらく外をぼうっと眺めていると、チラリとドアの端で動いた影が見えて、僕は慌てて目をそらした。

何だろう、あれは?小さいような気がした。

動物だろうか?

いや……。


僕には嫌な予感がしていた。

草ひとつ無い、こんなところに動物がいるとしたら、それは何だ?


──亡霊かもしれない。


ドアのすぐ横にいる何かと目が合ったら、引きずり出されてどこかへ連れて行かれてしまうに違いない!

僕は直視する勇気がなくて、広告に目をやった。


僕が広告をじっと見つめていると、わずかに誰かの笑い声が聞こえた気がした。


やっぱり、何かいる……!


僕がいよいよ振り向けず、神様とやらの説明を繰り返し繰り返し目で追っている間にも、誰かの笑い声は絶えず聞こえてきた。

僕は目を見開いて、ただじっと広告を見つめていた。‬怖かった。

笑い声が静かな車内に響いてくる間、ありがたい本の中の神様は6回もこの世に復活していた。

僕が本のレビューを三つほど覚えてしまったころ、車内はまた静かになって、乗客の溜息がひとつ聞こえた。


車内は重苦しい空気に包まれていた。こんな夜に電車に乗っている客なんてほとんどが疲れた会社員か学生だ。

おまけに緊急停止で家に帰るのは遅くなるし、ドアからはゾクゾクする冷気が流れ込んでくる──そうか、ドアか。


僕の街を走る電車はいわゆる田舎電車で、こういう長時間停車のときにドアは半自動式になることが多い。押しボタンで乗客がドアを開閉できるのだ。

僕は開いたままのドアのすぐ横の席に座っているサラリーマンを見た。こんなに室内が不気味な空気に満たされているというのにぐっすり眠っている。

……僕がやるしかない。


僕はおそるおそる向かい側のドアへと向かった。‬

ドアが閉まったら、車内は完全に安全になる。だいぶ落ち着くだろう。



‪「あ!!!や、君もおいでよ」‬


‪「は……?」‬


‪僕がおそるおそるボタンへ向かって手を伸ばすと、外から陽気な声がした。

同じ制服で、同じ電車に乗って、訳の分からないことを呟いていた、おかしな男子高生の声だ。


でも、どうして外から?

まさか、そこへ降りたのだろうか。

蛍光灯も駅名表示もないそこへ。

‪「お前もほら、早くこっちへ来いよ」‬


僕がどうしていいか分からず固まっていると、彼はまた言った。‬


‪「同じ高校のよしみで、せっかくだしいいことを教えてあげよう。

よーく見てみろよ、こっちは月なんだ。ほら、Moon。どう?」‬


‪「どうって言われましても……。」‬


‪僕はもごもごと答えた。

もし彼が上級生だったなら、無視することで後々良からぬことがあるといけない。

しかし思い返してみれば、先程見た彼自身は僕よりも大人っぽく見えたけれど、背丈や顔立ちの幼さは僕とほとんど変わらなかった。‬


‪「ほら、月って、お前も初めてだろ?こういう、特別な日だけ行けるんだ。とんでもなく素晴らしいところだぜ。な、降りてみろよ」‬


彼は心底楽しそうに言った。

骨ばった手がドアの影からぬっと現れて手招きする。

身体はどこに隠れているのだろう?


‪「ほーら、見渡す限り銀の砂だ。遊んだら楽しいぞ。

体が軽くなって高く飛べるし、山も海も遊び放題だ!もしかしたら、宇宙人にだって会えるかもな」‬


‪彼はいたずらっぽく言って、僕は幼少期を過ごした家の近くの砂浜を思い出した。

確かに砂浜で遊ぶのは楽しい。

幼馴染みの女の子と砂の城を作って遊んだのを思い出す。



しかし、行くわけにはいかない。‬


‪「あの、もう遅いから、寄り道するわけには……。」‬


‪「つまんない奴だなあ。

じゃあこういうルールにしたらどうだ?

ここで降りれば、次にここに電車が止まるまで時間は進まないんだ。

どうだ、それならいいだろ?」‬


‪「いえ、でも……。」‬


僕は右目でズボンから引きずり出したスマホを見た。もう19時半を回っている。

母親からLINEが届いていた。


[分かった、気をつけて帰ってきて]‬


電車が緊急停止したから遅くなると一報を入れたばかりだった。今日は部活で疲れたし、明日は朝から数学の小テストがある。

とにかく早く帰りたかった。‬


‪「あの、今日はいいです。」‬


僕が銀色の地面を見つめながら答えると、ドアから覗いていた手はがっくりと垂れた。‬


‪「どうして…どうしてそんなに頭が固いんだ?」‬

はぁー、と溜息をつく。


「明日にこだわる必要はあるのか?」

語気が強くなっている。‬


‪「い、いえ…そういうわけでは……。」‬


‪僕はそう言いながら、少しずつ指を押しボタンへ向かわせた。‬


「なあ、お前、俺たちは遊んじゃいけないのか?

家に帰って、勉強して、大人しく寝て、また同じように学校に行って、授業して、部活して、また帰って、また勉強か?お前はそれが楽しいのか?


夢はなんだと聞かれるが、俺たちが夢を語れば現実を見ろと言われる。

お前が今したいことはなんだ?

俺が何でも叶えてやるんだぞ?!」

「あの!さ、寒いんで閉めます。じゃあ」


震える指で、僕は思い切って閉と書かれたボタンを押した。ピンポン、ピンポン、と警告音が鳴ってドアが閉まっていく。‬


‪「お前は、ここに確かにある今よりも不確かな未来を取るのか?

俺は今ものすごく楽しい、でもお前はどうだ?お前が待つ未来が来るなんて限らない。

お前はお前の未来を信じ──」


ドアの向こうの彼は早口でまくし立てていたが、とにかくドアは何事もなかったかのように閉まった。



彼の手を残して。


僕はボタンに触れたまま固まってしまった。

顎が震える。

何度も瞬きをする。


彼の手が、ドアで切断されて、




ボトリと床に落ちた。


目をそらせずに、僕はその手を見つめていた。

項垂れたままの手首。

血は流れていない。

まるでゴムでできたおもちゃみたいだった。


呆然と突っ立っていた僕はまた大きくよろめいて、いつの間にか電車がまた動き出していたのに気づいた。

揺れに合わせて僕はふらふらと足踏みし、彼の手はゴロゴロと車内を転がった。‬


‪「間もなく、………駅に止まりまぁす…お出口は左側です……。」‬


僕はビクリと体を震わせた。だがそれはただの気だるげな車掌のアナウンスだった。

ぼんやりと電光掲示板を見上げると、次は僕が降りる駅の一つ手前の駅だ。

‬降り口は反対側、とある。

僕は安心してドアにもたれかかった。


ガタン、と電車が止まる。

僕はまたよろめく。

三人くらいの会社員がぱらぱらと座席を立ち、ドアに向かった。


停車の弾みで、ゴムの手はポーンと飛び出して反対側のドアへと向かっていく。

スマホを見つめたままの乗客の、黒いローファーの尖った先に、おもちゃの手が当たった。‬


‪「あっ……!」‬


かすれた声が出た。

しかし、誰も僕の方など気にしない風にして、そのままホームへ降りていった。


僕が手首の肌色を目で追った先には、寒風が吹き込んでくる真っ黒なホームが見えて、僕がぐるりと見渡しても、もう手は落ちていなかった。‬


‪「ど、どこに……」


僕はふらふらと開いたままのドアに歩いて行った。

両手で手すりを掴み、電車とホームの隙間を覗き込む。


細くて深い、真っ暗な闇が見える。

僕は目を凝らした。

しばらく睨んでいれば目が慣れてくるだろう。

あれを、あれを拾わなきゃ。




「ピンポン」


「ああぁあぁぁあああ?!?!!」


痛い!!!

僕は思わず大声で叫んだが、すぐにその声は途切れた。僕の首が、首が、ドアに切られようとしている…!


喉が痛い。

息が苦しい。




──死ぬ。



僕の視界はチカチカと光った。

その光の中に、こちらに向かって伸びる手がはっきりと見えた……。






僕は幸い、最寄りの病院に運ばれて意識を取り戻した。

どうやら同じ電車に乗っていたサラリーマンが、ドアに首を挟んだ僕を見て非常停止ボタンを押してくれたらしい。

母親から「何でそんなことしたの!」と怒られたが、僕にはよく分からない。

僕はただ、手がどこかに行ってしまうのを止めようとして……。


とにかく、僕の首は軽傷で、次の日には退院してその次の日からはいつも通り学校に通い始めた。あれっきり電車が月に停車したこともないし、今ではあの日のことは夢なんじゃないかと思っている。あの日、僕が月に行った証拠はどこにもない。

僕の首と手首にぐるりと一周、赤い痣ができただけだった。

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