11.蝶人の説得
- まえがき -
ほとりの羽は、羽ばたかなかった。しかし、ほとりを水のように包み込んで、無傷でステージに着地した。
そして、ほとりはマルコをサーカス団から連れ出すために、ふたたび説得を試みる。
#はばたかない羽
ほとりの飛び降りに息を飲んだ観客は、羽が生えると唸り声を上げた。
広がった透明の羽は光を浴びて、七色にきらめいていて、落下のあおりを受けて光の粒子が飛び散っていく。
――お願い、飛んで。動いて。
しかし、ほとりがいくら心の中で念じても、羽は蝶のように羽ばたいてはくれなかった。
目を開ければ、狭く映っていたステージの床が、どんどん広がって迫ってきていた。
ほとりは、なりふり構わず、手を鳥の羽のようにばたつかせたが、つむことができない空気が指の間を通り過ぎていく。
――もうダメ。ぶつかる。
ほとりは、とっさに腕で顔を覆った。
#ほとりを守る羽
静寂に包まれた。
衝撃を感じなかった。痛みもない。
手足の指先まで、しっかり感覚もあった。
ほとりは、顔を覆った腕を降ろした。
水中からキラキラ光る水面をみているようだった。
体を包み込んでいたのは、ほとりの透明な羽だった。
――羽が私を守ってくれた?
辺りを見回すと、水面の波がピタッと止まり、一点の曇りのないレンズのように視界が澄みわたる。
観客の視線がステージにはなく、目を泳がせ、宙を漂わせていた。スポットライトも照らす対象を探していた。
空中にまかれた光の粒子が、雪のように舞い落ちてきていた。
ほとりは右腕を広げると、ほとりを包んでいた羽が背後へと広がった。この時、背中で羽が動く感覚を初めて感じとった。
左腕も広げると、もう片羽も広がった。
ステージに立つほとりに気づいた観客らが、歓声と拍手をいっせいに上げた。
何もせず落下しただけのほとりは、困惑していた。
#マルコへの説得
もう一つスポットライトが生まれ、宙を舞うララを照らしていた。マルコは、何度か周回してほとりの元へとやってきた。
空中からほとりを見下げるマルコは、瞬きをする。
「消えた。いつの間に、下に降りてきたの?」
マルコが目を丸くして聞いてきた。
「消える? 私が?」
マルコは頷いた。
ほとりは、羽に包まれたことで衝撃から守られ、外からは見えなくなっていた。
まだ飛べるかはわからなかったが、羽を動かすことはできるようになった。新しい自分を手に入れた気持ちになった。
「ねぇ」
気を取り直したほとりは、片手をマルコに差し出した。
マルコは驚いて後ろへ下がってしまった。けれど、視線はほとりから逸らされていない。
「ミクロスさんから私の話を聞いていると思う……あなたの力を貸してほしいの。私と一緒に来てほしい」
マルコの目が変わらず泳いでいる。
ほとりは、これではマルコを説得などできないと思えた。拳を握った。
#本当の名前とほとりの本音
「もっと広い空を、その大きな羽で飛んでみたくない? あなたならもっと高く自由に飛べる」
マルコの羽は、ほとりの羽よりも大きかった。
「高く、自由に?」
「そう。天井のないどこまでも続く空を、自分の意思で飛んでみたくない?」
「え、あ、でも……」
マルコは、宙吊りにされた通路にいたミクロスをチラッと見た。
止まりかけているステージに、観客も普段の演目と違って困惑していた。
「マルコさん。いえ、あなたにも本当の名前があるでしょ?」
ほとりの言葉に、マルコはハッとして表情を固めた。
「仮の名前で、この狭い空間を一生飛び続けたい?
それとも自分の本当の名前で、もっと広い空を自由に飛んでみたくない?」
「本当の名前で、空を……」
「そう。あなたの本当の名前は?」
ほとりは、一歩マルコに近づいた。
「私の名前は……マ……マル――」
「私の名前は、ほとり。あなたと同じ蝶の羽を生やした妖精。
私は、ここよりもずっといいウトピアクアを作りたい。そのために力を貸して欲しい」
ほとりは、一瞬、嘘を言ってしまったと思った。これは、明日架の目的。
しかし、自分の目で見た理想とは思えない理想水郷に、ほとりは自分の理想水郷を作りたくなっていた。
「でも、私は羽があっても飛ぶことができない。
半人前というか、もう人でもないけど、あなたみたいに立派な妖精として飛ぶことができない。
ねぇ、私に飛び方を教えてくれない?」
ほとりは、真剣なまなざしで、もう一度、マルコに手を差し出した。
マルコは、頭上を見上げ、ミクロスの様子を伺った。
二人の間に言葉はなかった。
やがて、ララは、戸惑いながらもほとりに近づいていく。
「私の本当の名前は、ララ・クランシー」
ほとりは、手を握られ、その小さな震える手を強く握り返した。
#ララと飛ぶ
ララが羽を一度羽ばたかすと、ほとりの足が床から離れ、ほとりは、うわっ、と言ってララの手を両手で握り返した。
「本当に飛べないの?」
「えぇ、本当に。ありがとう。ララ」
宙に浮く二人の少女蝶々に、歓声が上がった。
二人は、宙吊りの通路に立つミクロスの高さまで上昇した。
「逃しはせんぞ、マルコ」
ミクロスは、鋭い目つきで、腰につけていたナイフを抜き、二人を見定めて構える。
「え、ミクロスさん? ちょっと話しが違う」
サッと、ララが大きく羽ばたくと、さらに上昇する。
ミクロスは、二人に向かってナイフを投げつけた。ナイフは、ほとりから少し離れたところを通過して、テントの屋根を突き破った。
ふたたびミクロス見ると、目元に涙を浮かばせていた。
テントの屋根が外側から、さっきのナイフで引き裂かれていく。めくれて、雲る夜の空とともに、ユーリが顔を出した。
「ほとり!」
「ユーリ」
「二人とも、早く」
しかし、ララもそこから動かず、ほとりの顔に水滴が落ちてきた。
「ララ?」
ララは、ほとりの手をぐっと握りしめて、天井付近を回る。
蝶人の羽から舞い散る光の粉は、ステージから見上げるフリークたちに降り注いだ。
それは、ステージを締めくくる紙吹雪のようだった。
ララは、一周回ると、ユーリのあけた穴から飛び出て行った。
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