10.飛ぶ決意

- まえがき -

ほとりがミクロスに連れて行かれたところは、ステージの上の宙づりにされた通路だった。


公演中に、マルコを連れて逃げろと言う。


ほとりは、通路の先端に立たされて、スポットライトを浴びた。




#お目付役


 薄暗い通路を進むに連れ、ステージで流れる音楽が、だんだん大きく聞こえてくる。


「いいか。これからお前さんを新しいフリークとして紹介する。


 適当に羽を見せて、マルコを連れて逃げろ。演出は、わしの方でしてやる」


「私が、ステージに出るってことですか?」


「そうじゃ。それが最適な方法じゃ」


「急すぎます。わざわざそんなことしなくても、裏から逃してください」


 ほとりは、立ち止まろうとしたが、ミクロスの底知れない力によって引っ張られていく。


「それができないから言っておろう。もし、裏から出たとして、フリークとして知られたお前さんは、さらにマルコに近づくのが難しくなるぞ」


「それは……」


 ――サーカス関係者は、必死に私のことを探すだろう。


「裏には警備がいるし、公演がない時はお目付役が、ずっとそばでマルコを見張っておる。それらすべての目を欺くには、公演中がいい」


「お目付役?」


「わしじゃ」


 ミクロスの顔だけが振り返った。笑顔だった。


「だったら、なおのこと、ララさんを説得して逃がしてくれれば」


「説得? わしがして何の意味がある」


 突き当りまで来ると、上へと伸びるハシゴがあった。


「ステージに出たら、マルコを説得するなりして、飛んで連れて行け。さ、こっちじゃ」


 ミクロスは、身軽にハシゴを登り始めた。




#宙づりの通路


 ハシゴを登るのに躊躇していたほとりだったが、早くしろと、急き立てられハシゴを登り始めた。


 ほとりは、もう一度自分自身に、なぜここに着たのかを問う。初めて見たこの理想水郷を思い返した。


 一段一段上がるたびに、自分の思っていた理想は、ここにあっただろうかと、振り返る。


 ハシゴを登り終えると、宙吊りになった細い板の通路に立つミクロスから、手を差し伸べられた。


 その手を取ると、ぐっと引き上げられ、自分の動きで揺れる板に、しゃがみ込んだほとり。


「もし、マルコさんを連れ出せたとして、そのあとミクロスさんやサーカス団の人たちは、どうなっちゃうんですか?」


 ほとりは、ミクロスを見上げて聞いた。


「今の心配より、その後を心配するとはな、お前さん。お前さんが理想水郷を作ってくれるまでは、なんとかなるじゃろ」


「私の理想水郷……」


 ミクロスは、表情を和らげた。慣れたように揺れる宙づりの板通路を歩いて行く。


 ステージ裏からステージへと伸びていて、簡易的なロープの手すりを頼りに、ほとりもあとをついていく。


 真下のステージを見ると、フリークたちが水を飲むシーンを演じていた。


「まだ小さな子供が、自分の体を見せて、働かされている。フリークが生きて行くには仕方ない。


 こんな好奇の目に晒され続けて、鳥かごのような狭いところを飛ぶより、同じ仲間のいる広い空を飛んだほうが、マルコのためにもなる」


 ほとりは、ミクロスがまるでマルコの親のように見えた。


「長年面倒を見ているとな、この子には可能性のある道を進ませたいと思う。


 ここまで来てくれたのは、お前さんが初めてじゃ。


 だから、ワシは、お前さんにマルコを託したい。お前さんの行動力を見て、そう思った」


 ほとりは、誰かに影響を与えるようなことをしたとは思えなかった。


「じゃが、マルコがそっちへ行くかどうかは、お前さん次第だ。でも、お前さんの強い意志が、すべてその通りになるだろうよ」


 ミクロスは、強く頷いてみせた。そして、狭い板通路の端に寄ると、足下が揺れて、斜めになる。


「そろそろ、出番だ。わしの前に立て」


「え、でも……」


 不安定な場所で、もたもたしているほとりは、手をミクロスに引っぱられ、抵抗のたびに揺れる通路の先端へ追いやられてしまった。


「ちょっと待ってください、ミクロスさん。本当に、ここから、私、どうしたら」


「羽を出して、飛べばいい。マルコも飛ぶから一緒になって宙を舞え。客はしばらく静かに見ているさ。


 その間に、マルコを説得しろ。そしたら、わしが逃げ道を作る」


「えっ、そうじゃなくて、私っ」


「そうじゃったな、お前さんの名前を聞いてとらんかったな」


「浅葱ほとりです。いや、そうじゃなくて」


「名前、違うのか?」


「名前は、それなんですが――」


「浅葱ほとり。いずれ真の理想水郷を作る者として覚えておこう」


 ミクロスは、笑って見せた。




#ほとりの飛ぶ決意


 ほとりは、飛べないことを言い出せずにいると、ほとりはスポットライトに照らされた。光を嫌うように客席から顔をそむけた。


「今宵、また水の犠牲者となった少女が発見された。人ならぬ姿に耐えられない少女は、その醜い姿を呪って、自ら命を絶とうとしていた」


 崖の上にいるかのような、ピューピューと冷たい風の音ともに、ナレーションが入った新しい演出によって、会場がざわついている。


 ミクロスは、スポットライトの当たらない後方に下がって、手で追い払うように飛び降りろと、何度も合図を出している。


 ほとりは、足元のステージを見下ろした。その高さに恐怖はなかった。


 フリークたちが小さく見える。もちろん、マルコもそこからほとりを見上げている。


 ――飛べないままでいいのか。


 ミクロスが言っていたように、思い一つで、ここまで来たようにほとりは思えた。


 彼女を助けるために。理想水郷を作るために。


 飛ぶことへの意思が弱いのかと思い直したほとりは、立ち位置を直した。


 肩の力を抜き、近い天井を見上げて目をつむる。


 ――私は、自分の羽で 飛びたい。飛びたいんだ。


 一度息を吐き、ゆっくり腕を広げ、足首を軸にして前方へ体を傾けていく。


 ほとりの体が傾くに連れて、観客がどよめいていく。


 確実に飛んでいるイメージと、ただ落下してしまう弱い意志が、心の中でせめぎあい、まるで時の流れがゆっくりとなったように、一瞬一瞬のことを把握できていた。


 空気が、頬を、耳元を、横切って、髪をなびかせる。


 真っ逆さまになったほとりは、手を首の後ろに回し、首筋を指でなぞった。


 ――この極限状態なら、きっと。


 ほとりの水のような透明な蝶の羽が、広がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る