第129話:己ノ道ヲ決メルハ己
いつもちょっとボリュームの調整がおかしいのでは、という大きな声を発する粗忽さんの口。
そこから漏れる音が、今は空気の抜けるようなものでしかない。
「ふ――ふふぅぅぅ」
まず膝が泥について、そこから支えられずに手をつこうとしたのだろう。しかし前に出された両腕は、その役目を果たさなかった。
油を注しすぎたのか、抵抗する様子もなく肘が曲がって、粗忽さんの小柄な身体の前半分は泥に浸かった。
あのままでは窒息する。もう身体をひっくり返す力もないのか。
そう危惧していると、さすが他人の百倍も根性を溜め込んだ人。どうにか腰をねじり、脚を投げ出して身体をひねった。
「はあ、はあ……」
とても荒く、力強いとは言えない息。しかし窒息死だけはしなさそうだ。
「ちっ、どいつもこいつも!」
荒増さんの目が、忙しく動いた。結果、やることは同じ。毒づいて、伽藍堂に剣を向ける。
もうこれといって、新たな打ち手は思いつかないらしい。
「おい、てめえら!」
と思いきや、粗忽さんの部下が呼ばれた。先ほど眠気に負けて倒れた隊員を助け起こし、彼らも万全の状態とはほど遠い。
「くそ。四神のやつは、どこ行きゃぁがった! てめえらは、女二人を連れて行け! そこのちっこい二人が、護衛してくれる!」
「いや、それではあなたが!」
そうだ、それでは荒増さんはたった一人でここへ残ることになる。伽藍堂と仙石さんが、その逃亡を許したとしてだけど。
「うるせえ。てめえらが居て、ものの数になると思ってんのか」
「……分かりました」
苛立ちまぎれそのものという言い方に、隊員は眉をひそめた。そのまま二拍ほどの間があって、感情を押し殺したかすれる声で了解を答える。
「構いませんよ――この部屋から出たところで、死ぬのが何分伸びるかというに過ぎません」
こちらも苦しそうな仙石さんが、逃亡を黙殺すると言った。返事をした隊員は荒増さんに小さく頭を下げて、自分たちの隊長の下へ駆け寄る。
粗忽さんが肩に担がれて、別の隊員は見外さんに肩を貸した。
涼しい顔で荒増さんの剣撃を受け流す伽藍堂も、それを視界の端に眺めるだけだ。
「……ん。ま、待て」
痛々しい行軍を止めたのは、気絶していた筈の粗忽さんだ。
おとなしくするように言う隊員に、弱々しい声ながらも「降ろせ」ときっぱり命令する。
「こ、ここで――死にたいという、も、物好き以外は――退出して良し」
「粗忽隊長――」
私はここで死ぬから、お前たちは帰れ。粗忽さんの言ったのは、そういうことだ。
僕が部下だったら、そう言われてどうするか。だとしたら父の子でなく、纏式士でもないだろう。それならお言葉に甘えて、帰るかもしれない。
ここまでになると、命が惜しいとかそういうことでなく。この場に居るのが怖いと思う。むしろ今、そう感じていないのが不思議だけれど。
「てめえ、人が親切で帰れって言ってんだ。素直に帰りやがれ」
「や、やかましい。貴様の親切を受けるくらいなら――兵部卿の頭に落書きでもして、し、死罪になるほうがまだマシだ」
震える脚でなんとか立ちつつ、粗忽さんは腰に手を伸ばした。思った位置に行かないのか、何度か宙をさまよわせて、ようやくそこへ何もないことに気付く。
弓はさっきまで手に持っていて、どこかに落としたのだろう。この泥の地面では、探しようがない。
ならばと長十手が抜き放たれた。いつもは頼もしいその姿が、ふらふらと十手の重さによろめいている。
「解せませんね。どうしてそこまで、意地を張るのですか。そんなことをしても、あなた――あなたに得はないでしょう。衛士として与えられた役目以外に、なにがあるというんです」
僕も同じ疑問を持っていた。たしかに粗忽さんは、ここを自分の城だと言った。
でも実際のところ、ここは衛士として管理を任された場所。責任感の強いのはすごいけれど、命を賭してまでやることではないと思う。
どんな答えがあるのか、少なくとも二人が強く意識を向ける中。粗忽さんは、あぶら汗まみれの皮肉な笑みを見せる。
「ないな」
「えぇ?」
その態度は、はっきりこうだと理由を示すと思ったのに。粗忽さんの答えは真っ向から裏切った。
「わ、私も中央の出身とはなっているが、ここら辺りとは比べものにならん田舎だ。誰かに憧れたとか――に、入隊して、尊敬すべき上官に会ったとかいうことはない。まして、塞護を勤務地にしてくれと言ったこともない」
どうして僕の知人たちは、強がることに懸命なのか。「なにもない」とひとこと言えばすむところを、歯を食いしばって言葉を捻り出していく。
「だが……」
「だが?」
「私は自分で衛士になると思い、生涯の友もそれを手伝うと言ってくれた」
なるほどそうか、とは思う。でも理由になっていないとも思う。
「それだけですか? それでは説明になっていませんが」
「……そうか。これで分からんなら、どれだけ説いても貴様には――」
馬鹿にした息が漏れて、粗忽さんは咳き込んだ。
僕にも分からない。諦めかけたところに、とんだお節介な声が鳴る。
「教えてやる! なにをやんのか、てめえで決める。そうしたら、どんなごまかしも通用しねえ。だからそれを曲げねえってのが、面白えんだよ!」
「貴様ぁっ! 人の想いを勝手に語るな! 貴様に同意されるくらいならば、貫徹など今この時にやめてやるわ!」
ごまかし。
偉大な父の教え。その言いつけに従うことが全て。でもそれは、僕の決めたことではない。
ごまかしなのか?
誰かこの疑問に答えを。そう考えてしまって、ごまかしでなくとも甘えではあるかなと思う。
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