第128話:傷付ケドモ終ワラヌ

「まし……なり……ましなり……」


 マシナリ? いや違う。この声は、荒増さんを呼んでいる。この幼い男の子が、寂しがっているのが僕に伝わってくる。


「荒まっ――!」


 叫ぼうとして、伽藍堂に口を塞がれた。当人からすれば、自分の口を自分の手で覆っただけ。いとも簡単なことだ。

 そうして僕を黙らせて、荒増さんの顎をつかみ、左腕一本で宙吊りにする。


「御石!」


 それを見て、なのか。防御に徹していた仙石さんも打刀を動かした。


「てめえ――仙石! 自分に納得したんなら、おとなしく……してやがれ!」


 大太刀も押さえられている荒増さんが、左腕や脚をじたばたとさせる。だがその長い手足でさえ、伽藍堂に僅か届かない。

 怪人は腕の長さも変えられるらしい。皮肉と嘲りの好きな老人らしく、ほんの手の平ひとつ分ほど。


「納得、ですか。考えるべきところがあると思い、思考を重ねましたよ。その意味では、いま納得していると言って間違いはありませんが」


 思考の結果がやはり敵対だと、彼は行動で示す。

 ――うつろつぅろ、つろつぅろ。うつろうつろ、うつうつろ。つぅろつぅろ、うつろつぅろ。

 ほとんど抑揚のない、聞いただけで眠くなりそうな式言が響く。

 幻覚? 樹脂から樹皮に変わってはいても、硬質であったことに変わりない床が柔らかく沈んでいく。

 これは、水田だ。

 水が張られて、まだ背の低い稲が空を仰ぐ。柔らかな風の音と、どこかで遊ぶ小鳥の声が心地よくて。


「いかん、寝るな!」


 痛烈な声が轟く。その主は粗忽さんだ。言ったその人も脚がもつれて、たたらを踏みかける。何度も頭を振り、襲っているらしい眠気を払おうとする。

 耐える隊長を置いて、脱落した隊員は受け身もせずに倒れ込む。その顔は水田に沈み、浅い水面に泡が立って消えていく。

 そのままでは、溺れてしまう。分かっていても僕は動けず、粗忽さんも身体の自由が利かない。


「ちいぃっ! 大過、やれっ!」

「はぁい!」


 元気のいい、小さな子どものような返事と共に見外さんが姿を見せた。

 いやたぶん透明になっていたとかでなく、例によってあの人の霊驗である、よそ見の効果だけれども。

 見外さんは一人ではなくて、誰か小柄な人影を両手に抱えていた。それは静歌。左腕に電磁砲を備えた、機械人形。

 ドッ――と。空気が急激に圧縮された音と解放される音。電磁加速された砲弾が風を切る音。それらの一纏めにされた濃密な一音が鳴る。

 弾の行方など、目で追えるものではなかった。だが静歌が腕を向けている方向を辿れば、刹那にも満たない僅かな時間で削り取られた壁面が赤く燃えていた。

 もちろんその火はすぐに消えて、穴も修復されてしまったが。その場所と静歌との間には、当然に標的である仙石さんの身体があった。


「貴様もだ伽藍堂!」


 その一瞬で粗忽さんは、はっきりと意識を取り戻したらしい。弓を引き絞り、すぐさま放つ。同時に伽藍堂が「クフッ」と笑うのが聞こえた。

 化学薬品の反応によって起こる爆発が、僕と視界を同一にする伽藍堂の全身を包む。

 けれども動じない。物理的にも、感情でも。そもそもこの怪人が、痛みとかそういうものを感じるのかという疑問さえ生まれる。


「これならまだ、先のほうが温かったの」


 当たり前に余裕綽々、あくびをしそうな伽藍堂。両手が塞がっているために、反撃は茅呪樹に任せるようだった。

 視線をちらと動かしただけで、粗忽さんの周囲に蠢く影が見え隠れし始める。


「ヌウ――?」


 だが、急激に景色が移動した。神出鬼没の老人も、意表を突かれたのは間違いない。足下の泥が前方に、ずるずるっと飲み込まれていく。

 それはおそらく、粗忽さんの矢が狙ったのは伽藍堂でない。水田の深く柔らかい泥に大きな穴を空けたのだ。

 しかしあくまでそれは伽藍堂を多少驚かせて、視点を僅かに下降させただけ。

 ――ただし、荒増さんが足場を得るのには十分な落差だった。


「ふ、う、うぅぅぅ……やってくれますね」


 それとほぼ同時に、仙石さんが苦しそうな呻きを上げた。さすがというべきか、咄嗟に回避を試みたのだろう。あの至近距離でさえ電磁砲は直撃してなく、狩衣のわき腹辺りがごっそりと抉りとられている。

 激しい出血が見えて、左の手がその部分を押さえていた。致命傷ではないにせよ、大きな傷を負ったようだ。


「ふぅっ!」


 油断があったのか、仙石さんが人間離れしているのか。鈍った筈の身体が信じられない速度でバネを溜めて、跳んだ。

 二体の式徨も彼の多彩な式も使われず、握られた打刀が直接に見外さんを捉えた。


「たっ、大過ぁぁぁ!」


 粗忽さんが叫んだのと、荒増さんが頼りない床を蹴って拘束を解いたのとは、ほぼ同じタイミングだった。

 両手の空いた伽藍堂は、荒増さんを追わない。代わりの獲物、いや一矢を報いた褒美ということか。

 槍のように指先を窄めた右腕が、二十歩ほども離れた位置に立ち尽くす粗忽さんの背中に伸びる。


「――ぅぶっ」


 それは刺すと言うよりも、侵食するという様だった。粗忽さんの背に、仙石さんよりも大きな風穴が空く。

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