第117話:用ウニ躊躇フ奥ノ手

 霊は少しも変わっていない。荒れる気持ちの中に、少しの安堵を感じた。


「おいで、紗々!」


 霧のようで、雪のような、光り輝く細粒。それはどんな女性の髪よりも細い糸になり、おぼろげに人の形を成していく。

 縦横に織られた光は帯となり、その輝きが治まるとそこに紗々は現れる。


「ああ我が君、お呼びにより罷り越しました。久しく御身を離れた愚昧なる我が身なれど、願わくはご命令を賜りたく――」

「紗々、僕は戦うことにしたんだ。どうか手伝ってほしい」


 凛々しく引き締まった顔に、人の感情が差し込んでいく。


「……はい主さま。紗々はいつでも、主さまと共にありますよぅ」

「ありがとう――平織ひらおりの盾、十重合とえあわせ!」


 最初に紗々と出会ったのは偶然だ。蔵の中の糸車に取り憑いていた。

 どうしてそうなったのか、聞いたことはない。聞いても分からないかもしれないけど、次に機会があれば聞いてみよう。


「畏まりましたぁ!」


 紗々の繰る霊の糸は複雑に折り合わされて、僕の周りをすっぽり包む円筒になった。それを十枚重ねもすると、刀も銃弾も通さない盾となる。

 相手が妖や式士で、霊を使う場合は力比べだ。強力だけど、紗々の消耗が激しい。


「粗忽さん、さがってください」

「本気でやり合うつもりか?」

「危ないからです。さがって」


 僕を狙うべきかと、銃口の向きと視線で一人の隊員が尋ねた。しかし粗忽さんは、待てと視線で制止する。

 隊長に忠実な彼らのことだ、僕がなにかすれば、そこは命令がなくとも防衛に動くだろう。


「紗々。操糸そうし

「畏まりましたぁ。でもあれは、マシナリがないと難しいのではぁ?」

「大丈夫。ここにある」


 織南美は右手に。左手の手袋の指先を、噛んで引き剥がす。

 父に見限られた動かしようのない証拠として、あまり見たくない義手。なければ困るけれど、意識的に見ないようにしていた。


「家族はいつも面倒な話を持ってくるって。僕としては賛否が半々だね」


 僕もほんの少し前まで知らなかった。姉の作った左手が、マシナリとしてな機能も備えているなんて。

 心那さんから依頼を受けたとき、実はと明かされた気持ちは何とも表現し難い。


十式じっしき、起動。剣符」


 教わった起動動作をすると、これまで使ったことのないどこかに火が入った。見た目にはなにも変わらないけど、ほんの少し痺れたような感覚があった。


「粗忽さん、さがってください! 舞え胡蝶!」


 粗忽さんと部下たちの合間を縫って、胡蝶を飛ばす。

 あれ、目標設定はどうやるんだ。

 操作対象や移動目標を設定する為の、画面が見当たらない。物理的なモニターも、光学投影式のそれもないのだ。

 ――いや、あった。視界に直接、処理情報が見える。飛ばした胡蝶を見て、どう動かすか考えるだけで指定が完了する。


「なにを⁉」


 攻撃されるものと思っていたらしい粗忽さんは、僕の見据える方向の壁に振り返る。バイザーも下げて、見えた筈の物に粗忽さんは素早く対応を指示した。


「側面退避!」

「紗々、盾を前に!」

「はいっ!」


 壁に近いところに居た隊員たちは、さすがに慌てた様子で距離を取る。その背中に滑り込ませるよう、平織りの盾を壁と重ねた。

 さらにそのすぐ内側へ、細かく移動を操作出来るようにした胡蝶を。

 そこに、巨大な拳が横殴りを炸裂させる。


「あれは?」

「仙石さんの式徨、煉石です。物理的な障害は無視してきます」

「厄介な――」


 胡蝶には、僕や粗忽さんの霊の配置パターンを写してある。直接に目視出来ない状態では、それが偽物とは分からない筈だ。

 狙いどおりに胡蝶が狙われたけど、その一撃で樹皮の剥げた天井に大きく亀裂が入った。壁面だけを守っても、いくらも持たないらしい。


「分かってると思いますが、この隙に萌花さんへ危害を加えるなら、盾をその守りに使います」

「私を脅すとは、いい度胸だ」


 状況は悪くなるばかりだ。打開の方法を絶え間なく考えている様子の難しい顔に、苦い笑みが見えた。


「それと、言い忘れてましたが本隊は壊滅しました」

「なにぃ⁉ それでは籠城しても意味はないということか」

「さあ。致命的な被害を受けたのは間違いありませんが、そのあとのことは知りません」


 やれやれ。と粗忽さんは言いつつ、汗と埃に汚れた前髪をかき上げる。それからため息とは決して呼べない、力のこもった息を僕に吹き付けて笑う。


「まあ、さっきまでの腐ったみたいな空気よりは余程いい」


 煉石の攻撃は、横からも縦からも続いていた。

 あと何回、持つだろう。もうこれで終わりかもしれない。一撃を受けるごとに冷や汗を握る。


「総員、全周警戒! 遠江くんの補助も忘れるな!」


 籠城を続けることには価値を見失った粗忽さんだが、まだ次の作戦を考えているようだ。それが思い付くまで、なんとか持てばいいが。

 戦闘糧食のゼリーを口に捩じ込まれて、これが補助かと目を白黒させながら思う。


「あー。あー。遠江さん、聞こえていますね? 司令室を占拠するとは、なかなかです。しかし本隊の居ない今、私の手順が少し遅れる以外になんの意味もありませんよ」


 攻撃を継続しつつ、仙石さんは通信室にでも入ったらしい。全棟アナウンスのマークが、モニターに見える。

 これでは声が届かなかった、という言いわけは通用しない。


「なるべく。あくまで、なるべくです。あなたを傷付けずに捕らえたい。私がその希望を放棄すれば、同行している方々がどうなるか分かりますね?」


 呆れたという態度の声には、苛立ちが多分に含まれていた。

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