第116話:未ダ見エヌ儘ノ決意
――息をするのも、忘れていた。
限界までひしゃげた肺が、新しい空気を求めて心臓を殴りつける。胸が鉛となって、腹の奥に沈みこむ。
這いつくばる僕と、ぐいぐい伸びていく茅呪樹と。互いに見える景色が、どんどん離れていく。
「遠江くん!」
誰かの叫びが聞こえたと思った。それから一拍か二拍ほど経って、激しく突き飛ばされた。
搗割の乗車部から司令室の床まで。僕の腰ほどの高さから落ちたのに、痛みを感じない。突っ伏したまま、動く気力はおろか、動く理由もなかった。
「これは、反坂くんか――」
後ろ回し蹴りの姿勢から、粗忽さんは僕の傍へ飛び降りた。僕を引き起こそうと伸ばされる手。
そこまで持ち上げる腕力も、もうない。見て見ぬふりを決め込んだ。
「そこに居れば、君もこの木に飲まれるぞ」
茅呪樹は目に見えて育ち続けている。てっぺんは既に、天井に達した。
幹の太さも増して、太い根がそこらじゅうへ食い込む。言われたとおり、僕がその範囲に入るのにさほどの時間も必要なさそうだ。
「……そうか。なにがあったか知らんが、好きにするといい」
好きに、なんて。なにをどうしたいという希望も思い付かないのだ。なにか思い付きかけて、それが頭の中に像を結びかけると、焼け付くような苦痛を感じる。
だから空っぽにしておくしかないのだ。
「可能な者、射撃位置確保! 弾装、
迷いとか躊躇いとか、そういう気持ちの一切を感じない声。
もしかして、萌花さんを撃つ気か。
「そ、粗忽さん」
「一斉射、構え!」
非情な指揮官は、忠実な部下たちに送る視線を動かさない。
「
ジュウッ。と小さな火が立て続けに、茅呪樹の表面に立つ。それは樹皮の身震いのような動きで、すぐに消えてしまうが。
「待って――」
「一斉射、てえっ!」
止めたのに。待ってほしいと言ったのに。
粗忽さんも、その部下たちも、僕の声や姿などないみたいだ。ガス抜きの音が際立つ、特徴的なAM11LSの発射音。
それがなんだか含み笑いのようで、ひどく苛立つ。
「連続射撃!」
「待ってくださいと言ってるでしょう!」
額をぶつけるくらいに顔を近付けて怒鳴った。これで聞こえなかったなどとは言わせない。
「なぜ止める?」
「――これは、萌花さんです」
「違う、妖だ」
「そうですけど、中に萌花さんが居るんです!」
部下たちは、粗忽さんの命令がなければきっと撃たない。それでも万が一はある。両腕を広げて、射線に割って入った。
「まだ助けられる見込みがあるのか」
「分かりません。少なくとも僕には出来ません」
「話にならんな」
部下たちはまだ、射撃姿勢で待っている。肩の上まであげられた、粗忽さんの左手が倒されるのを待っている。
彼らの意識は新たに伸びた茅呪樹の新苗と、粗忽さんの指示にだけ向けられている。
「てえっ!」
「ううっ」
その全てが耳もとを通っているみたいな、超音速の壁を突き破る衝撃が伝わってくる。一人あたりで五、六発分だろうか。
式を使えばなんともないのに、僕は身を強張らせて恐怖に耐えた。
「……なぜそうまでする。どうにもならないことは、私以上に分かるのだろう」
「分かりませんよ。僕に分かるのは、僕では分からないということだけです」
射撃がやんで、部下たちは弾を補充する。
僕が腕を広げたままなのは、やはり怖くて動かせなかったからだ。きっとそれは顔にも出ている。脚の震えも止められない。
「誰か他の手練れなら、どうにか出来るかもしれない? そうかもしれんな」
「そうです。荒増さんや四神さんは、近くに居る筈です」
分かってもらえた、と思ったのは一瞬だ。粗忽さんはすぐに「だが」と否定する。
「その新苗とこの部屋の周りとは、明らかに同調している。その新苗だけにしても、あと数分も放っておくことは出来ない」
「それは――」
司令室の中は、粗忽さんたちの施した対霊処理で樹皮が枯れたようになっている。だが壁の外から響く音や衝撃は、明らかにこの司令室をこじ開けようとしているものだ。
「私に出来ることなど数少ない。だがそれでも、いちいち保留などしないんだよ。その時その場で出来る限界を見極めるしか、誰も出来ない。そしてそれが、私の仕事だ」
「どうあってもですか」
粗忽さんの言い分は、とてもよく分かる。きっと集団を率いる人として、正しいのだと思う。
それをどうして僕は、受け入れられないのか。萌花さんが好きだなんて言ってくれたから、僕も彼女に恋をしたのか?
きっと違う。あれは家族や友人として、親愛の意味での好きだ。辞書でも引いたような、そんな理屈でしか僕には分からないものだ。
「くどいな、君も――邪魔だ、排除しろ」
新苗が、また一段と大きくなった。僕の足下に、根の盛り上がりを感じる。
いよいよ待ってはいられないと判断したらしい粗忽さんは、部下二人に僕を移動させるよう命じた。
「相談には応じますよ。でも萌花さんをただ殺そうと言うなら、僕は受け入れられない」
とても久しい気がする。考えてみれば、たった一日かそこらの時間なのだけど。柄に指を添えただけで、紗々も待ち焦がれていたのが伝わってくる。
両脇から押さえ込もうと近寄る二人の衛士を牽制しつつ、僕は愛刀、織南美を抜いた。
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