第115話:脆ク朧ニ消エユ言葉

 司令室ともなれば、この建物の中でも最も耐久性を高くしてある筈だ。

 それが縦横に激しく揺れる。中身を知ろうと揺すられる菓子箱に入ったら、こんな感じだろうか。


「あ、萌花さんが――」


 搗割の可動壁は、開ききったままだ。司令室の天井を覆う樹皮の隙間から、塗膜や埃が落ちる。

 いつもは健康そうな赤が透けて見える、彼女の頬。そうでなくとも、白煙みたいな生気のない色に変わっていた。

 その上に埃で汚すのも偲びなく、車内にあった布を拝借してかけてあげる。

 足の先から頭まで、すっぽり被せられる大きさ。さっとかければ終わりなのに、なんだか時間がかかった。

 僕の動作が、とてものろいのだ。


「――うぅぅ」


 眠っていると思った萌花さんが、声を上げた。早く布をかけて、苦悶の表情になにか――なにをする?

 薬を与えようにも、持っていない。汗をかいていないから、それを拭くことも出来ない。恋人のように撫でる、というのはありえない。

 ――そうだ、冷たい布でも当てたらどうだろうか。

 いやダメだ。僕は温度を管理するような術を使えなかった。


「対霊処理は持つか!」

「今のところは。しかしこれ以上は……!」


 怒鳴り合うような粗忽さんたちの会話が、遠くの滝の音みたいに聞こえる。

 薄い布がやけに重たくて、息が荒くなる。そう思うと、口を覆われている感じがして呼吸がつらい。

 はぁ――はぁ――はぁ――はぁ――。

 吸って吐くというだけが、とても難しい。普段どうやっているのだったか。自分の呼吸が気に障って、耳を塞ぐ。

 僕は、なにをしているんだ。

 僕は、なにをすればいいんだ。

 自分への苛々が、瞬間的に密度を増した。頭が痒い。耳が熱くて、なにが聞こえるのも邪魔くさい。ざりざりごそごそと、雑音を立てるのは誰だ。

 それは僕だ。髪を毟るように、頬を削るように、耳や口を穿り返すように。掻いて、叩いてをしなければ耐えられない。

 痒い、鬱陶しい、痒い、鬱陶しい、痒い、鬱陶しい。

 うわあああああああ。


「久遠さん」


 絶叫していたのは実際に声に出したのか、心の声だったのか。ともかく激流に飲まれたみたいに思えた目の前へ、細い枝が伸びてくる。

 真っ白で滑らかな、萌花さんの腕が。


「萌花さん? 見えるように――」


 彼女の腕は、肘を封じられてあまり動かせない。それをどうにか無理やりに、僕のほうへ伸ばそうとしていた。

 しかし仰向けになった彼女の目は、上を見ていた。それは天井や宙を見ているのでもなく、どこにも焦点が結ばれていないように思える。


「頭、いですが?」

「い、いえ。僕は大丈夫ですよ」

「そいだらえがっだ」


 彼女の声はかすれて、目の粗い紙を擦り合わせたみたいだ。なんだか伽藍堂のそれと同じように聞こえる。

 まさか、もう手遅れなのか。


「おら言われなぐでも、久遠さんみでになりたがっだ」

「えぇ?」

「あんとぎ、任せろて言っでくらさっだがら。反坂の人たづ、助けでくらさっだがら」


 なんのことだ。僕が任せろと言った? 反坂村で、萌花さんに?


「父さんや母さんたち、村の人たづを見守りたぐで居るべ。だがら、おらがやらねばなんねがっだ」


 萌花さんの頭の花びらが、一枚、また一枚と散っていく。

 僕の声を頼りに、こちらへ顔を向けようとしているらしい。動かせない肩や首を、どうにか回そうとしている。


「萌花さん! 僕はここに居ますから、動かないで!」

「あ、あぁ居るべが。声さ聞ごえでねがなと思っで」

「聞こえてます。聞こえてますよ、しっかり」


 震える彼女の手は、なにを求めているのだろう。ふらふらさまよう右手を、僕は両手に包む。


「んだども今は、荒増さんになりてぇな。そいだば久遠さん、しかっと見であげられるべ」

「な、なに言ってるんです。萌花さんなら、色んなことなんでも出来ますよ。でもあの人みたいにだけはなっちゃダメです」


 床を伝わる振動が、萌花さんの身体を揺する。その度に、僕の手から彼女の手が抜け落ちそうだった。

 僕が握っているのは本当に生きた人間の手なのか、と疑うほどに力がない。するすると逃げていくそれを、ぎゅっと力をこめて胸に抱く。

 ほんの少し、彼女が笑ったように見えたのは気のせいか。


「んだすな。おらじゃ、あんなにはなれねな。したら父さんと母さんみでになるのがいいな」

「お父さんとお母さん?」

「村の人さ好ぎだがら、村さ見える丘に居るべ。おらも大っけな木になれば、みんな会いに来でくらさるべが」


 やはりもう無理なのだ。彼女の手には、体温さえ感じられなくなってきた。薄れていく命の気配は、樹人も他の人間も同じだ。


「そんな、そんなこと言っちゃ――」

「久流さんと何南園さん。お互いのごど、久遠さんのごど、大好きだっだねや。大好きだっだがら、寂しぐなっちまっだな」


 僕の声は、届いていないようだ。それどころか、彼女は自分の声に「んだな」と頷いている。自分がなにを話しているのかさえ、無意識らしい。


「おら、もうちっと久遠さんと式士やっでみだがっだな――荒増さんと、三人で……楽し……」

「萌花さん? 萌花さん⁉」


 声が途切れた。なにも見えていなかった目も、静かに閉じる。思わず僕は、花びらがごっそり散るのも構わずに彼女を揺すった。

 もう、その目は開かない。

 けれど最後にもうひと言だけ、こう言った。


「おらは久遠さんのごど、好ぎだがらな……」


 呆然と言葉を失った僕の腕の中で、萌花さんの身体は茅呪樹に取り込まれていく。新しい根がわさわさと生えて、地面を求めて這い伸びる。

 彼女の霊を吸い、地面を抱くついでに搗割も飲み込んだ茅呪樹。いつも精一杯に頑張る彼女のように、見上げるほどの高さに成長した。

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