幕間

第106話:或ル式徨ノ儚キ記憶

 私の名は、絽羅。

 式打ち華やかなりしころ、錦型二番打にしきがたにばんうちとして生まれました。今上きんじょうの代からすれば、四百年ほども前になりましょうか。

 式徨となった者は概ねそうと決まっているようですが、人であった時の名は忘れました。


「あァ、綺麗だなお前は。お取り上げなら、お前を真打しんうちにするとこだ」


 親の言葉は、それしか覚えておりません。後に聞けば、白鸞に式刀を納める職人でも、名高い人であったようです。

 最初に私を買われたのは、高位の貴族のお方でした。私のような荒削りを、随分な高額でお引き取りくださったとか。

 そのお方は、纏式寮てんしきりょうで名を上げつつあった、ご自身のお子さまに私を与えました。


「すまんな絽羅、私はここまでのようだ。人の手の届かぬ場所に、お前を置き去りにすることを許してくれ……」


 しかし最初の主さまは、そう言い残して旅立たれました。私のようにくだらぬ想いを残し、この世に縛られなかったこと。それがせめても、幸いでございます。

 そこは白鸞から遠く南。中央に目を向ける王たちからは、忘れられた土地。

 しかしそこにも、人の営みはございます。中央の人からは、蛮人だの獣人だのと罵られてしまう方々ではございましたが。

 主さまが為さっておいでは、飾らず申せば盗っ人でした。未だ中央の人の知らぬ貴重品や業を、獣人に預けておくは勿体ないと。

 行いの良し悪しを量ることは出来ます。しかし私は、主さまにお仕えする身。主さまに及ぶ害を、討ち滅ぼすが定め。

 ――それから、時が流れました。その間に私の柄を握った者も居りましたが、何れも霊を知らぬ。

 やがて出会ったのが、久流さまです。紛争の鎮圧に参られたとのこと。そのとき私は、その部族の共同倉庫に居りました。

 久流さまは私を見るなり、荒々しく柄を握りました。


「美しいな。それに、落ち着いた霊をしている。年月の分、衰えてはいるようだが――それがまた良い」


 式結しきむすびの儀もせぬのに、その数瞬でそこまで悟られました。

 力量は申し分なく、荒々しくはあっても乱暴でなく。私がお守りするのでは、むしろ申しわけないくらいのお方でございました。

 その後は私を愛刀として、いつも傍に置いてくださいます。久流さまが霊を通されると、私の霊威も何倍に膨れ上がった心地が致しました。

 とても充実した日々でございました。


「そろそろお前も疲れたようだな。その時まで、休むがいい」


 式徨の多くは、本を正せば唹迩でございます。この世に未練を残し、浄化出来ずにいた者。私もその例外ではございません。

 その想いがなんだったかは、私も忘れておりました。しかしどんな想いも、いつか融けて消えるもの。

 式徨としての私の霊は、久流さまのお役になど到底立てぬほど衰えました。

 その後、数年ほど。屋敷に元気な男の子の声を聞きつつ、私は昼寝をさせていただいた。

 やがて主となったのがその子、久園さまでございます。またその後に、久遠さまと改名されましたが。


「絽羅。君は、父上に与えていただいたんだ。ずっと大切にするからね」


 何南園さまを喪った久流さまは、もう別人となっていらっしゃいました。

 久遠さまを切れば、このお方は人でなくなってしまう。私は初めて、主さまに逆らいました。

 それで私はガラクタと、久遠さまに投げつけられたのでございます。

 久流さまは、これ以前に私のことを、自身の打った式刀と久遠さまに仰いました。事実とは異なりますが、そのとき久遠さまは自身の刀を打とうとしていた折。

 なるほどと察して、私はそれを受け入れました。


「絽羅、僕には母上が居ないんだ。僕は男だから、弱いところなんて見せてはいけないと知っている。でもね――」


 久遠さまは時に、私を母と見て甘えてこられました。これはどうするのが主のためか、私は迷います。

 ですが、私もやはり浅はかな存在です。終いには、久遠さまの頭を撫でておりました。

 私の想いのどこかに、名も顔も覚えぬ我が子の姿があったこと。否定は出来ませぬ。

 尋常の人とかけ離れたとはいえ、私の姿は女でございます。年ごろの久遠さまは、恋人としても私を求めました。

 せいぜいが優しい姉程度にはなれるよう、どうにか演じたつもりではございますが。久遠さまが内心でどう思われていたやら、深くは知り得ませぬ。


「父上は――僕に見切りをつけたんだ。僕が不出来だから。父の望むことを、僕が出来なかったから。僕は親不孝者だ」


 久流さまが主さまを傷付けたときには、肝を冷やしました。紗々と二人、久遠さまをどうにか元気付けようと必死にございます。

 久南さまが保養をしてくださり、久遠さまも私たちに問いかけてくださいました。それが不幸中の幸いです。


「私は久流さまの使いとして、最強の式徨と呼ばれました。久遠さまが存分な技を振るえぬのは、私の未熟にございます」


 その説得は、卑怯と謗られるやもしれませぬ。久遠さまが私を溺愛してくださっているのを、利用したからです。

 式徨は、主が赴く先へ共に往く者。そこがどんな荒蕪こうぶの地でも、たとえ煉獄であっても。

 それがあろうことか、生きるよう主に強制したのです。

 その道がどんなものか、私には分かっておりました。それでも私は、そうしたのです。もしもまた同じ決断を迫られれば、同じ答えを出すことでしょう。

 私には未だ若い久遠さまが、主従を越えて愛しく感じられます。


「絽羅。君を持つに相応しい式士にならなくちゃね。それくらいにならないと、父上が死して教えを説いてくださった意味を失くしてしまう」

「それが良うございますね。私も紗々と二人、いついつまでもお供つかまつります」


 纏式士の資格を得る為、久遠さまは旅立たれました。武者修行というものでございましょう。

 その傍らには紗々と私と、二人連れ添わせていただきました。

 生者と同じには歳を語れませんが、しかし私も生まれて四百年。この世に残した想いが融ければ、それが寿命のようなものです。

 久流さまに見限られて、その時点でほとほと弱っておりました。それからこんなにも愛しき主に巡り会えた。私はなんと果報者でございましょう。

 それでも現実には、久遠さまが私の刀、万央を振るってくださる度に私の意は薄くなっていきました。


「てめえ。なにも気付いてねえのか」


 のらの式士としては、それなりに名を上げて。主さまは纏占隊に入ることとなりました。

 まことに喜ばしきその日に、荒増と名乗る男が試験官として現れたのです。

 その男が何についてそう言ったのか、久遠さまには伝わっておらぬようでした。無理もありませぬ。そうなるよう、私は努めて強く振る舞っておりました。

 久遠さまに不要となるその日まで。私の意が尽きるその瞬間まで、私は久遠さまに使っていただくと決めたのです。


「終わらせてやる」


 その男は、またそのようなことを言いました。これは主さまへか、もしや私にか。誰に向けた言葉やら、分かりませぬ。

 その次の、ただの一撃。もちろん相手も式士でありますから、霊の乗った素晴らしき一撃でございます。

 しかしどのような技を持ってすれば、そう出来るのか。過たず目釘が砕かれました。もはや限界を越えていた私の霊は、それにて解けてしまいます。

 浄化して輪廻の輪に戻るべきところを、私が無理に耐えておりました。式徨として、式刀としての命数はとっくに尽きていたのです。

 その男は、密かに「心配するな」とも言ってくれました。滅びる私には、その言葉の真偽を確かめる術はありませぬ。

 しかしどんな道であれ、久遠さまはしかと踏み越えていかれるでしょう。しかと目を見開き、しかと方向を定めれば、その力量は携えた方にございます。

 ――ああ。今度は未練がないのかとなれば、それはございます。久遠さまの行く末を、本当にいついつまでも見守りたかった。

 けれどもそれは、贅沢というものにございましょう。あとを託せる紗々も居りますれば、我が主を信じるのが下僕としての道にございましょう。

 それにこれは、決して主に直接は申せませぬ。


「久遠さま。愛しき主に塵となるまで使っていただけたこと、本望でございますよ。絽羅は久遠さまに出会えて、とても。とても幸せでございましたよ」

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