第105話:其ハ怪人ノ誘フ風景

 絵の具の色を全部溶かしたような、暗い世界。世界という言葉が大きすぎるとすれば、それが見えた景色。

 でも僕という個人からすると、どちらも同じことだ。

 勝手を知っているようで知らない、遠江の家。姉の私設研究室があって、纏占隊の隊舎があって。

 近くだとか隣り合っているとか、そういうことでなく。僕の世界が全て、一度にそこへあった。

 上も、下も、前も、後ろも。見る度に風景が違って、いったい僕はどこへ向いて、どこに足を着けているのか分からなくなる。

 ――知らない道に出た。石畳の床に石壁、石の天井。数歩先は真っ暗な、広くて狭い場所。

 当てもなく出たらめに、こちらだろうと決めて進む。だのに元の場所へ。積まれた石の中の、特徴的なひとつが記憶に残った。

 そこに。その石壁に寄りかかって、子どもが座っている。

 ――あれは男の子? 僕なのか?

 理由もなくそう思ったけど、それは思い違いだ。幼いころの僕に、鏡を見るなんていう習慣はなかった。そんな猶予は、心に持ち合わせがなかった。

 だから僕が僕の姿を知ったのは、つい最近のことだ。

 そこに居る男の子を僕だと思ったのは、僕がそうやって泣いていることが多かったからに過ぎない。


「…………ねえ」


 声をかける理由はない。かけない理由もない。だからどうするか迷うことさえ出来ず、最後に気付いた。

 少なくとも気になるなら、声をかければいい。

 でもそこで、世界は消えた。男の子もろとも。


「目が覚めたかな」


 ざらりと陰気な声が、目を開けさせた。僕は温度のない床に座っていて、居眠りしたあとの気怠い感覚がある。

 僕は眠っていたのか? するとさっきのは、夢だろうか。


「どれ――」


 いくつかテーブルの置かれた、会議室みたいな部屋。その隅に蹲るようにしていた伽藍堂が、立ち上がってこちらへやってくる。


「な、なんです?」


 警戒の声を出したのに、相手は目の前を素通りした。

 無造作なのだけど、とてもゆっくりとした動作。その腕が、机の上に載っているらしい何かをつかみ上げた。


「これを返しておこう」

「僕に?」

「お前さん以外に、誰に返せばいいのかな」


 言われてみれば、馬鹿な返事をしたものだ。差し出されたのは、僕の剣帯なのだから。

 そこにある二本の鞘も無事らしい。受け取ったものの、拉致された状況ですぐに装着して良いものか迷う。


「ひとつ、聞いて良いかな」

「なんでしょう」

「その刀、ひと振りは既に命数が尽きておる。何ゆえに、未だそこへ提げておるのか」


 両手に捧げ持つようにしていたのが、急に重くなった気がする。落とさないよう、剣帯ごと刀を胸に抱き寄せた。


「……これは万央。僕の父が打ち、僕に与えたものです。ある人に砕かれて、封じられていた絽羅は死にました」

「ふん?」

「その後どうするかは考えていませんが、おんを返してからでなければ離せないと。そう思っています」


 伽藍堂はもう一度、「ふん?」と声を漏らした。ガサガサと沼地で枯れ草のざわめくような、陰湿な音だ。


「なにかおかしいですか」

「儂は殻であろうが霊であろうが、そこに在る限り情の注ぐは当然と思う。然るにそれを恥じる理由もない」


 失われたものに拘って、幼稚なことだ。知らない母の姿を絽羅に重ねて、幼子のようだ。

 と。誰かに言われたことはない。

 きっと僕自身がそう思われることを恥じていて、気付かない振りをしているだけだ。


「砕かれて、滅したと?」

「ええ、そうです」

「ふん?」


 また。なにが気に入らないのか、伽藍堂はひしゃげた鼻を鳴らす。


「天下に仇為す怪人が、妙なことを気にするものですね」

「仇為す、か。そのようなつもりは、毛頭ないがの」

「ええ? 何百年も、飛鳥の転覆を謀っているじゃないですか」


 怖ろしいという感覚は、薄かった。高所恐怖症でも高山には登れる、みたいなものかもしれない。


「ふっ、そう思うか。それは手段の結果を誤って見ておるだけよ。儂の目的ではあり得ん」

「他になにか、明確な目的が?」

「知りたいか」


 どうしてそこだけ、念を押して聞くのか。そもそもそちらが刀のことを聞かなければ、この話にはなっていないのに。

 なんと答えるのが正解か、悩んだけれども答えが出なかった。それはそうだ、これにも判断の材料がない。


「それは、まあ」


 どう答えたとしても、伽藍堂の機嫌次第で僕などはどうとでもされてしまう。そう思うと、相手の話には乗っておくべきかな、なんて思って答えた。


「良かろう。儂は儂の手で死にゆく者の願いは、なるべくひとつ聞いてやることにしている」

「ああ――それで知りたいかと聞いたんですね」


 どうやら僕は死ぬらしい。いやでもそれは、詐欺ではないのか。そういうシステムだと知っていれば、他に聞くべきことを考えたのに。


「その前にもう一つ。これは儂が気になったから聞くだけだ。いわばサービスという奴かな」

「それはどうも」

「その刀。砕かれて滅してなどおらん。おそらくその時には、既に滅んだ後だ」


 サービスなんて、似合わない言葉を使う。どんな突飛な話をするかと思えば、僕にはとびきりに耳を疑う話だ。


「……なんです?」

「刀を砕いた者は、式徨を殺してなどおらん。そう言っているが、これも聞くか」

「ぜひ」


 ここで死ぬならと、僕の心に希望は消えかけていた。しかしそこに殺意という名の火が、小さいながら再び灯る。

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