第104話:対面セシ稀代の怪人

 霊の質や限界を、自分以外の誰かが完全に理解するのは困難だ。たぶん不可能と言ってもいいのだと思う。

 だから強烈な霊を隠しもしない床下の何者かが、実はそれが最大限なのか、それさえもこぼれ落ちた欠片に過ぎないのかは分からない。


「まあそれでも、一つくらいはやってみるさ」


 僕の考えを読んだわけでもあるまいに、荒増さんは大太刀を斜め上段に構える。まさか床や地面ごと、新手の誰かを抉りとろうとでも言うつもりか。


「ふぅんっ!」


 刃に霊を乗せて、ただ。切る。

 式刀を代名詞とする僕たちには、基本中の基本。纏式士なら誰にでも出来るそれを、誰にも出来ない威力にまで昇華させた斬撃。

 向けられたのは床でなく、茅呪樹へ。


「切れ、た?」


 まさに渾身の一撃だったらしい。荒増さんが残心を示すなんて初めて見た。

 いつもの叩きつけるような荒々しい一撃でなく、ただそこに道があって通しただけのような、静かな動き。

 それは茅呪樹の根元近くを断ち切った。

 こちらから向こうまで、三十歩以上もある太さ。その幹が僕の背丈ほども切り取られて、反対の壁が見えている。

 その切り取られた部分は、すぐさま真っ黒な煤みたいになって崩れ落ちた。


「ほほ。無体なことをしおる」

「――来たなジジイ」


 床に赤黒い染みのような色が広がる。その声はそこから聞こえたらしい。

 声に触感を覚えるというのも妙な話だけど、ざらざらと粗い砂みたいに思った。触れてしまうと即座に洗い流したくなるような、嫌な感触。


「ふむ、誰かと思えば――名はなんと言ったかな小僧」

「俺が仲良く、てめえと語らう気になると思うのか」


 染みからはまず、人の頭が見えた。汚れた泥の色はすぐに消えて、禿げた老人の頭だと分かる。

 あの染みのところだけ、泥のプールにでもなっていただろうか。それにしたって、跳ねるでなく這い上がるでなく、老人の動きは物理的な法則に反しているけれども。


「あれは――?」


 荒増さんは何者かを知っているようだ。それに、ただならぬ因縁もあるらしい。誰にだって横柄な態度を取る人だけれど、最初からこんな殺気を見せることはない。

 十歩以上も離れているのに、こちらが顔を顰めなければならないような殺気を。


「伽藍堂、弥勒――だよ」


 四神さんは、どう感じているのか。今までになく、緊張しているのだけは分かる。


「あれが⁉」


 土を煮詰めたような、着物。いや肩から羽織って前で縛ってあるのだけど、あれを着物と呼んでいいものか。

 すっかり全身を見せた足下は、衣と同じ色の地下足袋のような物を履いている。

 噂も含めてなら、どれほどの逸話を聞いたか分からない。偶然に撮れたという写真なんかも、たくさん見た。

 でも、どれとも違う。ただひとつ合っていると思えるのは、枯れ果てた印象の老人ということだけ。


「返せ」

「うん? はて、なにをかな」

「何もかもだ!」


 さっきの会心の一刀が嘘みたいな、雑な振り。伽藍堂はゆっくりと、それこそ凝った首をほぐしているくらいの動作しかしていないのに、当たらない。


「てめえ、返せ! ぶっ殺してやる! 返せ!」

「まあまあ、そう焦るでない」


 どうしたというんだ。荒増さんは、一瞬ごとに冷静さを失っていく。返せというのは、なんのことだ。どうも遺骨とかのことではないように聞こえるけども。


「ようも見事に茅呪樹を切ったものよな。既に用を終えたとて、生半では切れぬぞ、これは」


 あれ――。

 まばたきさえしていないのに、伽藍堂を見失った。声がするほうを見ると、茅呪樹の切り口をしゃがんで撫でている。

 おかしい。さっきはとてつもなく強い霊を感じたのに、いまは臨終間近の病人のようだ。

 いや? 今度は人の気配でさえなくなった。狼のようであり、ウサギのようであり――違う、枯木だ。

 ダメだ。霊を感じようとしても、定まらない。虫どころか莫乃よりも儚げになったかと思えば、荒増さんを鼻息で飛ばしそうな域にも達する。

 普通に目で追うしかないけど、それさえなんだかぼんやりして見えてくる。


「用を、終えた?」

「そうだ。この幹は、だがのう」

「すると元の根は捨てて、この建物そのものが茅呪樹として生きていると?」


 なにを思ったか、四神さんは小太刀を二本とも納めた。普通は誰かと話すのに武器を持つなんて失礼だろうけど、相手はあの伽藍堂なのだ。


「ちと違うが、まあそのようなものだ」

「無精は良くないですよ」

「年寄りの長話は嫌われるでな」


 また、姿がぼやけて見失う。どこだ、と見回す僕のすぐ頭上で声がした。


「代わりに、力の使い方というのを見せてやろう。いつまでもここで暴れられるのも、迷惑といえば迷惑でな」


 すぐ後ろ。顎を僕の脳天に載せるかどうかというくらいで、伽藍堂は喋った。それが呼気の音なのか、すきま風みたいな音が何重にも聞こえる。

 伽藍堂は両腕を広げて、僕を抱き締める。長く垂れた袖のような布が、僕を覆い隠す。


「久遠くん!」

「てめえ真白露ましろだけじゃなく、そいつも持っていくつもりか!」


 四神さんと荒増さんが、僕を呼んだように思う。でももう、遠い世界のことだ。

 なんだろう。なにか懐かしい匂いがする。

 ああ、そうか。これはあの匂いだ。もう帰ることなどない、遠江の家の匂いだ。

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