第59話:静カニ這イ寄ル危機

「ただそれは、まだ申請の段階だった。手続きに不足はなくて、放っておけば通る。久遠が異論を出せば、通らない。そういう状況だった」

「止めながっだだな」

「そうだよ。それがなぜなのか、そこんとこはあたしも知らない」


 これから答えようとしている内容を、姉には前に話している。だから知らないってことはないのだけど、僕の口から言わせたいのか、改めて聞きたいというのか。この人の頭脳で、忘れたとは考えられない。


「そのあと少しの間は、呆然としてそれどころじゃなかったですよ」

「そうだね、でも十日ほどだ。手続き差し止めの期限には、まだ半月以上もあった」

「それが父の望みだからです。父がそうしたいと考えたから、手続きが申請された。それ以上に意思が明確なものも、なかなかない」


 父の教え。父の指示。僕が指針とするものは、ずっとそれだけだった。気持ちを安らげることなら他にもあったけど、それさえ父が与えてくれた。

 僕がその意志を曲げる理由など、どんなものであれば出来るのか、想像もつかない。


「……わやだなや」

「なんだか分からないだろう?」


 なんだ、二人で頷き合って。僕がよほどおかしなことを言っているみたいじゃないか。

 そのあと少しの間、二人はカップの飲み物を静かに飲んでいた。萌花さんはなんとか理解しようとしてくれていたのだろうし、姉はそれを待っていたのだと思う。

 けれども最終的に萌花さんは、温まった息をぷはぁっと吐き出して、その上で首を傾げた。その目は間違いなく、僕を見ていた。


「どういうことか考えてくれるだけ、ありがたいよ。まあ話を戻すと、腕を切られた久遠を助けたのは四神だ。試合のあとから、どうもよろしくない風だと監視していたらしい」

「はあぁ、すんげな」

「そうだね。弟にいいところを見せる機会を奪われたあたしは、ほとんど終わったあとに駆け付けた。この子たちを連れて着いた時には、久遠は病院に向かったあとだったし、久流も連れて行かれたあとだ。


 すぐ後ろで控えていた静歌と鈴歌に、姉はそれぞれ手を伸ばした。二人は猫がじゃれるみたいに、その手を愛おしむ。ただその顔に、表情はない。


「多いんだよ、この子が自分に纏わせた厄介ごとは。歳を抜きにしたって、多すぎる。しかもよせばいいのに纏式士なんて、余計に増やす仕事を選んじまった」


 纏わせた、と聞いて。そうなのか? と疑問に思う。

 僕の感覚としては、父がくれた宿命みたいに感じている。言葉を合わせるなら、父が纏わせてくれた、だ。自分で纏ったわけじゃない。


「そっただいっぺごど、纏わっでるべが」

「うじゃうじゃとね」


 海藻。いや、濡れた髪が纏わりつく様。姉は両手の指をうねうねと動かし、そんな光景を連想させた。萌花さんはどう感じたのだか、ほんの少し眉根が寄せられた。


「そうだねぇ。じゃあ次は、久遠の母親の話でもしようか。ああもちろん、あたしの母親でもある」


 母親のことは、僕もあまり知らない。父に切られたあと、姉が僕の面倒をみてくれていた期間に聞かされただけだ。それと同じ話をするのか、それともまた別のなにかがあるのか、傍に居ながら聞き耳を立てるような気持ちになった。


「う、うわああああ!」


 その叫びは、唐突だった。離れているので声は遠いけど、はっきりと聞こえた。

 分かりやすい、危機の合図。多少のことには無視を決め込む姉も、「なんだろうね」と首を向ける。


「おら、行っでみるす」

「あ、ぼ、僕も」


 塞護から、ほとんどの小火器は射程外の距離。つまり射程内の火器もあるし、距離を詰めれば届く。さらに敵の首魁とその周辺は、纏式士だ。いつ、どこから、なにをしてきたって驚くには値しない。

 そんな中で上がった悲鳴だから、高を括って放置することは出来ない。だが同時に、そんな中で姉を一人にして良いものか。


「ああ。あたしは平気だから、様子を見てきな」


 足を止めかけた僕の背中に、緊張感のない姉の声。荷物は見てるから遊んできなと、子どもを見送る砂浜の親のように。

 静歌と鈴歌も居るし、すぐ近くに他の纏式士も居る。僕が居たところで、それほど変わらないか。そう思って、先に行く萌花さんを追いかけた。


「くそっ、いてえ!」


 駆けつけた場所は、纏式士が集まってテントを張った真ん中。既に医療セットを持った人が、治療を始めている。

 倒れているのは、最年少の僕が言うのもなんだけど、若い纏式士。左の手首から、結構な出血があるようだ。止血に当てた布が、もう真っ赤に染まっている。

 場所が場所だけに、僕も義手の付け根を思わず押さえてしまう。

 周囲の人たちを見ると、心配そうにはしていても、深刻そうではない。刃物の扱いを誤りでもしたのだろうか。そんな雰囲気だ。

 まあ異変でないなら良かった。


「あえ、マシナリでねが?」

「えっ?」


 萌花さんの指した人は、たしかにマシナリらしき物を摘み上げていた。腕輪状のそれからは血が滴り落ちて、どうも怪我の原因と見える。


「マシナリの誤動作? いや、そんなまさか」


 本当にそうだとしたら、出血そのものはあり得ない話でない。でもあれほど大量に?

 そういう話は荒増さんが詳しいのに、肝心な時に居ない。姉は専門でないはずだが、聞いたら分かるだろうか。

 そんなことを悠長に考えていられたのは、僅かな間だった。

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