第一幕:前程万里

第1話:帰隊スルハ遠江久遠

「そり――反坂萌花そりさかほのかか。十八歳で入隊って、最近なかったんじゃないかな。しかも女性なんて」


 左の親指と人さし指を鉤型に開いて、その宙に映し出される明日の資料を眺めつつ歩いていた。

 もう一つ言うと、今日はいつにも増して人通りが多すぎた。多すぎる音に気を取られていたというのが正確なのだけれど、そこはどちらでもさほど変わりがない。

 なにかと言えば、要は正面から歩いて来た人物をうまくかわせずに、危うくぶつかりそうになってしまった。


「すみませんっ!」

「いいのよ。こちらがよそ見をしてたのだし」


 きっと若いのだろう。人猫じんびょう族の女性の視線と表情は、三度動く。

 まず僕を見て。詳しく言えば僕の着ている服を眺めて、理解しかねると言いたげな怪訝な表情。

 そのうちに視線は僕の腰の辺りに動いて、そこにある刀を認めたらしく、ぎょっとした表情を瞬間的に浮かべた。

 それから最後に僕の右手を見て、くすりと笑った。その途端、自分の顔がさっと赤くなるのが分かる。


「いいわね。おいしいんですってね」

「はあ、そうらしいです。はは……」


 猫らしく舌をぺろりとして、きさくに手を振りながら去って行く女性の背中に、僕は乾いた笑いを返すしかできなかった。

 僕の服装が浮いているのは自覚している。分かっていて、あえて着ているのは僕の意思だ。父の言いつけではあっても、背くことは容易なのだから。そこに驚かれるのは誰を責められるものでもない、受け入れよう。

 しかし僕が持っている保冷容器。女性に人気だという菓子店で、一番の人気の品なのだそうだ。容器には一目でその店の物と分かるパッケージングがされていて、女性好みのそのデザインは男性が持ち歩くには相当の抵抗がある。

 しかもそれを四段重ねだなんて、昔やった女装劇の写真を見つけられたくらいに恥ずかしい。いや、やったことはないけれども。

 ともかくこれを持っているのは、僕の意思でない。先輩に命じられて仕方なくだ。苦情を言って、次回は自分で行ってもらおう。

 ――と思いはするものの、まず間違いなく散々にバカにされた挙句、意見は通らないのだ。やめておこう。

 それはともかくと、おもむろに周囲を見回してみた。

 頭の上に耳が生えている人、口元から牙がのぞく人、顔やら手足やら獣そのままの人。わざわざ探さなくとも何人かがすぐに目についた。


「やっぱり増えてるのかな。獣じ、じゃなくて複人ふくじんは」


 いまこの国を統べる愚王ぐおうが即位してすぐに、それまで獣人と呼ばれ迫害されていた人々は、僕たちと同じ権利を手に入れた。

 その際に獣人という総称は蔑称という判断がされ、複数の種族が交じり合った外見を持つ人間ということで、複人と呼ばれるようになった。

 もちろん最初は色々な問題が続出したらしいけれど、街中で見かけることが珍しくなくなるのにそれほどの時間は必要としなかったそうだ。

 田舎の村で育った僕などは、首都に来て初めて複人を目にすることになった。だからそういったことがあった、起こったというのは実感として全くないし、やはりまだ慣れない部分が気持ちのどこかにはある。

 しかし公平な国を目指すという愚王の政治は、うまくいっていると喜ぶべきことなのだろう。

 でもこの場で目にする数が多いのは、視界の人口密度がそもそも高いからだ。それと政治とは関係がない。

 どこか近くで、催し物でもやっているのだろうか。


「っと。ぐずぐずしてたら怒られる」


 政治も大切だろうけれど、今はこの荷物を無事に届けることのほうが大切だ。

 たしかにつまらない用事ではある。しかしそんなことさえも満足にこなせなくて、他のことが出来るのかと言われてしまえば、何も言えない。こんなことを理由に黙らされてしまうほうがつまらない事態だと思う。

 それは正しくないまでも間違っていないはずだと自分に言い聞かせることで、保冷容器を投げ捨ててしまいたい衝動を必死に抑えていたというのは否定しない。

 喧騒の只中、突然にそびえ立つ石垣の壁。僕はそこにある分厚い鉄の門をくぐった。門扉を閉じると、周囲を静寂が支配する。とまで言ってしまうと、さすがに言い過ぎか。

 分厚い門と分厚い石垣の向こうに隔離されて、まだなお届く喧騒の切れ端。建物と人の谷間をすり抜けて辿り着いた、目の前に広がる広大な庭と巨大な建物。ここに立つと、実際に無音というよりも強く静けさを感じる気がする。

 挨拶と、もしかしたら荷物を持とうとしてくれたのかもしれない。給仕服姿の女性、かえでがこちらへ駆け寄りかけたのを手で制して、あらためて歩き始めた。

 庭と言っても、赤みの強い土が硬く硬く引き締められた、いわゆるグラウンド。巨大と言っても、縦より横方向に広がりを見せる纏占隊てんせんたいの隊舎。

 どちらもそこに人が居ないわけではないのだけれど、大洋に浮かぶ小さなボートのように見えてしまう対比が、むしろこの施設全体の威容を雄弁に物語る。

 ここが僕の家であり勤め先なのだけれど、いまだ明確な実感はないままだ。


「おや遠江とおえさん、昼食ですか?」


 グラウンドの端を通って、隊舎の通用口に至る。そこで横合いから、声をかけられた。

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