第五編 謝肉祭

 スナック菓子の包装が踏み付けられて破裂し、腐敗した菓子が異臭を放っている。だが、周囲に蔓延する臭いに紛れ込み、それは異臭にすらならない。男は素足で菓子を踏んづけたことにも気が付かない様子で、ごみの山に出来た道に歩を進め続ける。男の頭髪は伸び放題で肩まで垂れ下がり、脂ぎって固まっている。無精髭に覆われた顔には生気がなく、虚ろなまなこはどこを見るでもなくただ眼窩に納まっているだけだ。襤褸ぼろ切れのような衣服は、もう何の汚れかも分からない汚れで黒ずみ、所々が破れて肌が露出している。垢で褐色になった肌には、角張った骨が浮き出ていた。

 どぽん、という音が静まり返った掃き溜めに響く。男は音の方へゆったりと顔を傾け、その方向へ徐に方向転換し、ごみの山を掻き分け、登り始める。山の向こう側には、黒く水底も見えない湖──というよりも、水溜まりがあった。水面にゆらゆらと波紋が浮かんでいたかと思うと、その中心からすぐに飛び出すものがあった。その少年はじたじたと犬掻きのように泳ぎ、溺れないように必死な様子だった。男は少年に視線を定めると、ずんずんと山を下り、水溜まりに近づいていく。それに気が付いた少年は、両の手をぶんぶん振りながら、

「おーい!」

 と叫び、岸へ向かって泳ぎ出した。


「勘違いなんです! 僕はじゃありません、信じてください!」

 少年の悲痛な叫び声は地下中に反響し、鳴り渡っていた。だが、それに応じる声は皆無だった。少年の両脇にいる大柄の男たちは、それでも頑なに押し黙り、冷たい無表情を貫いたままだ。少年はその男たちに両腕を堅く掴まれ、ほとんど引きずるようにして歩かされている。

 やがて、地面に大穴が出現する。ホールと呼ばれるその穴は、本来、上空都市エクラから吐き出される廃棄物を処理するためのものだった。それを目にした途端、少年は激しく抵抗を始める。両足をばたつかせ、ホールから離れようと必死だった。しかし、両脇の男たちはびくともしない。男たちはホールに向かって歩み出すと、少年の身体を軽々と持ち上げる。少年は声にならない悲鳴を上げる。ふわ、と中空に浮いたかと思うと、少年の身体は真っ逆さまに落ちていた。

 エクラがぐんぐん遠くなり、ひゅるる、と風を切る音が耳元で通り過ぎていく。少年の頭には、走馬灯のようにエクラでの日々が蘇っていた。少年はエクラでも、どこにも味方はいなかった。どこに行ってもどこに居ても迫害され、除け者にしかなれなかった。その終極が、これなのだった。少年は深い絶望に打ちひしがれ、涙の滴が宙に舞った。

 じゃばん、と世界が反転し、その瞬間視界は暗闇に陥った。少年は混乱した頭で暗闇をもがいた。それは、水の中だった。手や足に得体のしれないものがたくさんぶつかり、口内に水が入り込む。その途端、嘔吐感が込み上げる。少年は懸命に水を掻き、水面へ上がろうと闇を泳いだ。

 ようやく空気を吸い込むと、すぐに口内の水を吐き出した。少年が浮いていたのは湖のようだったが、真っ黒に濁った水面にはごみや汚物が至るところに浮遊し、鼻を突くひどい悪臭が立ち込めていた。すると、岸辺にこちらへ歩いてくる人影が見えた。人がいるとは思ってもみなかったため、少年は吃驚した。だがすぐに持ち直し、

「おーい!」

 と、大きく手を振った。少年は岸へ上がろうと、ごみの中を掻き分けて泳ぎ出した。ようやく岸へ到達すると、汚水を吸い込んで重くなった衣服からはひどい臭いがした。少年は吐き気を抑えながら、服を絞る。気が付くと、先ほどの人が少年の目前に立っていた。湖と負けず劣らずのひどい恰好だったので一瞬面食らったが、こんなところで人と出会えたのは不幸中の幸いだ、と、少年はその男に気さくに話しかけた。

「よかった! 人と会えて! 実は僕、エクラから落ちてきて──」

 少年はエクラを指さそうとして、言葉を飲み込んだ。男の眼は、まるで夢の中にでもいるように虚ろで、焦点が定まっていない。少年を見ているようで何をも見てはいないようだった。

「……あの、大丈夫ですか?」

 少年の呼びかけに、男はゆっくりと首を傾いだ。そうかと思うと、目にも留まらぬ速さで少年の首元に飛び付き、咬み付いた。少年には、躱そうと意思する暇さえなかった。男は幾度も少年の首を咬み、その度に血が勢いよく噴出した。ばき、と鈍い音を鳴らすと、少年の首はかくりとバランスを失った。身体は力なく項垂れていき、地面にへたり込んだ。男は尚も少年に咬み付いたままで、肉を食い千切ろうと首を左右に振っている。

 男が人を喰っているのを嗅ぎ付け、他の人喰いたちもぞろぞろと周囲に集まってきた。やがて人喰いたちは少年の肉に群がり、少年は跡形もなく人喰いたちの胃袋へと納まってしまった。

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【短編集】メランコリー 山原倫 @logos

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