第四編 悪童

 どれほど目を凝らそうとも、視界の景色は変わらなかった。塗り潰されたように真っ黒な闇。縁となるものは何一つなく、まるで陸も水平線の彼方に沈んだ夜の沖合に、ただ独り取り残されたように彼は感じていた。手を伸ばすと、案に相違してひたりと行く手を遮られた。無機質な温度を保つ壁が彼の目前に聳え立っていた。掌を壁に沿わせてみると、ちょうど彼の肩幅を少し過ぎた辺りで両の掌の側面にまた別な壁がぶち当たった。今度は九十度下の方向へ冷たい側壁が続き、彼の横たわる硬い床へと到達した。彼が背伸びをする要領でつま先を伸ばすと、同じようにひやりとした硬い感触があった。その足で壁を押すと、ごつと頭頂を打った。彼はやっと置かれた状況を把握することができた。彼は長方形の鉄の箱に閉じ込められていたのだ。

 彼は握り拳を壁へ打ち付けてみたが、があんがあんと音が響き渡るだけで、箱の中は相変わらずの沈黙が守られていた。彼はすぐに疲れてしまい、殴るのを止めた。荒い呼吸で肩を上下し、狭い箱の中で呼吸が整うのを待った。しかし、冷温の箱で全裸であることもあり、体力の消耗は激しかった。

 世界が根底ごと揺さぶられたような揺れに襲われ、がぎん、という強い衝撃を最後にして、それはすぐに収まった。彼は驚き、呆然として、しばらく動けずにいたが、やがて暗順応の眼で箱の中から出られたことが分かった。箱から這い出し、彼は冷たい床に足をついて立ち上がった。部屋は箱の中同様ひどく冷え切っていた。その部屋の壁には、まるでロッカールームのように正方形の蓋がいくつも並んでおり、そのうち一つだけが開け放たれ、そこからステンレス製の担架のようなものが伸びていた。先ほどまで彼がいた場所だった。

 彼は、白い息を吐き、自身の体を抱きながら部屋の出口へと向かった。しかし、取っ手はうんともすんとも言わず、鍵でも掛かっているのか、どうしても開けることができなかった。彼は扉を勢い良く蹴りつけたが、足に鈍痛が走るだけだった。八つ当たりにか、彼は手当たり次第に遺体を弄び始めた。眼窩に人差し指を突っ込んでぐるぐると回してみたり、睾丸を踏み潰してみたりもした。だが、死んだ人間相手では彼には面白くも何とも感じられなかった。彼はそのうち、若い女の遺体を見つけた。男よりかは暇潰しになるかと思い、彼はその女に跨り、皺くちゃの手で乳房を揉んだ。

 彼はぎょっとして回頭した。ぎぎぎ、と軋む音をたて、扉が開いていた。彼はすぐに安心して、女の方へと向き直った。だが、この寒さで彼の陰茎は縮み上がり、勃たせることはできなかった。彼は女の上から立ち上がると、凍える体を抱きながら、霊安室から出て行ってしまった。

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