共生

 彼女は同じ部屋では眠らなかった。日が落ちるころになると挨拶のように言葉を組み、消える。他の建物に寝所があるのだろう。ひとりの夜は気楽でありながら朝を迎えるまでに幾度も目を覚ました。動物の気配は乏しかった。夜行性の鳥の低い声か、野ねずみらしきごくささやかな足音がまれにある程度。日ごとに耳は冴えるようで、脳裏に描かれる情景はしだいに豊かになっていった。

 怪我は深刻ではなく、すぐに動き回れるようになった。彼女はわたしを外に案内してくれ、住人たちに引き合わせた。相変わらず名無しのよそ者であるけれど、かれらは敵意を見せることもなく穏やかだった。


 ひとの集まる場所に出れば生活の様式もわかってくるというものだ。かれらの主な資材は竹と糸、それから芭蕉の葉。竹は周囲一帯にいくらでも生えていたし、気候や植生を考えれば芭蕉も手に入りやすいだろう。糸の出どころは不明ながら、綿状の繊維を紡いでいる人があった。

 畑作などは、居住地周辺ではみられなかった。鳴き声もないのだから動物の飼育にも縁がなさそうだ。食物に火を入れるときは地面に掘った穴に埋火をして葉に包んだ食材を蒸し焼きにする。芋のほかには魚が食され、薄く加工した竹で器用に捌いた。

 総じて言えば生活音の乏しい集落だった。赤ん坊を抱いた母親も見かけたが夜泣きのひとつも聞いたことがない。静かに指で交わされる会話、強い風が吹けば全員が耳を澄ませる。音に神でも見出しているのだろうか。かれらの行動には音に対する畏れを感じた。


 またかれらはよく編み物をした。道具を用いず、太い糸を指で編んでゆく。彼女の指の皮膚が硬かったのはおそらくこのためだ。出来上がるのは決まって用途などなさそうな円盤状の布で、ときにほどいて再利用されている。住人どうしで手渡しされることも多い。思うにこれは手紙なのではないか。かれらの言葉は編み物に通じる雰囲気がある。組みあわせ、交わり、続いていくもの。

 じっくりと観察していると、ひとりの老婆が糸を分けてくれた。どうやら最初の日に部屋を訪ねてきた人物である。よく見れば彼女と似通った顔立ちをしている。親族かもしれない。老婆は集団のなかで力のある存在のようで、さまざまな人物と熱心に話し込んでいるところによく行きあった。


 わたしが編み文字を気にしていることはすぐに彼女に伝わった。言葉を教えてくれる時に対応する編み方も実演するようになった。お手本を保存しておいて見せれば簡単な意思表示ができそうだと考えもしたが、難しそうだった。糸は編みなおすのが普通らしい。鋏もなく、短い言葉であっても糸端は長く残ったまま。彼女は一度編んだ文字をすぐにほどいてしまう。糸自体も貴重な資源ではあろう。かれらの誰も、決して粗末に扱うことはしなかった。

 とはいえ動かずじっと観察できるだけ、編み文字のほうが理解しやすい。自分で編むほうはともかく、簡単な言葉は読めるようになってきた。指と糸は深く関係している。その通じ方が飲みこめてくればこちらのものだ。生活において重要な部分から語彙は増え、かれらの会話の中から単語を拾ってみたりもした。


 傷が癒えれば集落の仕事を手伝った。居候の身なのだから当然のことだ。義務感よりは好奇心が勝って、かれらの暮らしを知るのは楽しかった。畑は家の並ぶ区域よりだいぶ離れた場所にあった。植えられた芋は生命力が強いとみえて、大ぶりの葉を青々と茂らせている。山に自生していたのを栽培するようになったのだろう、その種類の葉は畑以外の場所でも度々見かけた。芋の世話をするのは男ばかりだ。女は糸のもとになる植物でも育てているのだろうか。

 ときには沢へ魚を捕りに行った。竹を細く裂いた籠を仕掛けとしている。餌は主に熟しきった果実だ。魚は引き上げるときに水面を、籠を激しく叩く。音がやけに鮮やかに耳を打って驚いた。かつてのわたしだったら、眉のひとつも動かさず聞き流すだけだっただろう。聴覚そのものが強くなったわけではあるまい。静けさが音への注意を生んで、重要なものとして扱われるようになる。風を聞く、雨を聞く、鳥の声を聞く。ここでは音こそが次に来る環境の変化を教えてくれた。湿った匂いよりも先に、竹林のざわめきが夕立を知らせる。日が差す前に、鳴き交わす小鳥が朝を教えてくれる。


 長いこと口をきいていない。はじめのうちはふいに声をこぼしそうになったものだが、もはやそれもない。

 どこか修行のようだった。感覚が塗り替わり、生活は飾り気も無駄もなかった。彼女はどこまでも導いてくれた。言葉を教え、ともに文字を綴り、食事をともにした。帰るあてはない。故郷を思えば恋しい夜もあったけれど、彼女と指の温かさを交わせばずっとこのままでもいいとさえ思うことが多くなった。仲間はわたしを探しただろうか。さすがに死んだと思われているだろう。調査に出るときに部屋に隠した遺書のことを考えて苦笑が漏れる。危険があることを認識して出発したはずなのに、どこか真剣さが欠けてはいなかったか。


 柔らかい土を踏み分けて集落に戻る。足の裏はずいぶん丈夫になって、石を踏んでもさほど痛くない。わたしがうっかり蹴った石に全員が注意を向けるのもいつものことだった。一瞬の緊張が走り、音のゆくえを確かめて弛緩する。日は傾いており帰りを待つ人々はもう火を焚いていた。

 彼女は魚が好きだった。ふかふかに蒸しあがった白い身を頬張るときのひと口が大きい。わたしも真似て、芭蕉の葉の香りが染みた身を齧る。調味料もない環境では、魚のほのかな塩気は最上の滋味とも言えた。湯気の立つ焚火のあとを囲めば、彼ら全員が家族と思えた。芋はとろりと腹を満たし、明日も確かに生きるのだという確信が湧く。食べ物で遊びだす子どもを手でたしなめている母親、ひとつの包みを分け合う老夫婦。音こそなくとも、わたしのよく知る団らんがここにはあった。

 風はなくただ和やかな時間が過ぎていく。今日はよく眠れそうだった。幸せと呼んでもいいかもしれない。意味もなく彼女の名を指に表そうとした瞬間、だった。

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