遭遇
瞼を開くとおびえた顔の若い女が視界の端に現れた。竹を組んだ天井を見ると、意識のない間に助けられたらしい。ゆっくりと身を起こすと、痛みこそあったが一応の自由はきく。壁も床も竹材を使った粗いつくりで屋内ながら弱く風を感じる。簡素な造りの室内とともに、彼女の全体像が目に入った。白く清潔な衣服を着ているが、意匠は見慣れないものだ。模様を編み込んだ一枚の布で上半身から膝までを覆い、首には小指ほどの管状の飾りを下げている。距離を取って耳をふさいでいる様子から、叫んだのは夢の中だけで済まなかったことが知れた。わたしはつとめて静かな声で話しかける。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ありません。助けてくださったようで、ありがとうございます」
しかし彼女はなおも後ずさりながら、耳を強く押さえている。瞳は震えながらもこちらの様子を捉えているようだ。喋るだけで怯えさせてしまうのか。見慣れぬ衣装といい、文化の違いは顕著なようだ。通じない言葉ではわかりあえないばかりか、恐怖を与えるのも無理はないだろう。口を閉じる。軽く力を抜いて無抵抗を示すように控えめな笑顔を作った。
ようやく彼女は手のひらを耳から外す。胸の前に両手の指でしきりに何かの模様を組んだ。手話の類だろうか。と、すれば彼女は口がきけないのか。おそらくは問いかけだろうが、いっさいの手がかりもなく読み解けるわけもない。答えあぐねているうちに背後から光がさした。振り返れば扉がわりの掛け布を翻して、老人の影が立っている。いでたちは彼女と変わりない。目が慣れてくれば女とわかる。やはり声は発さず、胸の前に言葉を躍らせる。幾度か二人がやりとりをしているうちに、外から覗き込んでくる顔が複数あった。わたしの声は集落じゅうに響き渡ってしまったに違いなかった。
もしかすると。風の音がやけに耳につくなかで考える。ここでは誰も音声による意思疎通をしないのではないか。ひとりとして声をかけてこず、視線だけが入れ替わりに室内を確かめる。危険のないことを信じられたのか、その数は次第に減っていった。
彼女たちの手話は強く掌や甲を打ち合わせることもなく、きわめてなめらかに静かに紡がれた。指どうしの重なりや交わりが印象的であるいはそこに意味があるのかもしれなかった。彼女は老婆と共に出て行き、わたしは取り残される。外には人も多いだろうに、生活にまつわる音さえ聞こえなかった。たとえば煮炊きや狩りや子どもの声。鍛冶や建築の音。家はさほど加工の入っていない竹を組んだものだし、衣服も編み物だから織機のように打ちこんだりはしない。先ほどの彼女の、過剰ともいえる反応を思い出す。音に対して恐怖さえ抱いているとしたら、わたしは口に布を詰めて眠らなくてはならない。寝言にまで責任は持てないから。
しばらくして彼女が戻ってきた。自覚していた以上に心細かったのか、詰まり気味だった呼吸が深くなる。彼女は手にした籠から親指大の赤い果実を出し、手ずから種を抜いて渡してくれた。果肉は柔らかく甘く、汁気を多く含んでいた。やっと喉の渇きに意識が向いて、瑞々しい舌触りがたまらなく快かった。
彼女は微動だにせず座っていた。おとなしく食べているのに安心したのか、表情も和らいでいる。果実が尽きれば白い布で手を拭ってくれ、竹筒に入った水を与えてくれ、と甲斐甲斐しいことこの上なかった。布はやはり編み物だった。ごわごわと乾いた手触りは、植物の繊維を思わせる。色はあくまで白く、漂白していないとすればかなり便利な素材だろう。この集落に染色技術が存在しているかは不明だが。
食べ終わってしまえば手持ち無沙汰で、彼女とわたしは長く見つめ合った。ほかにどうしようもなかったのだ。彼女はこちらをじっと観察してくるし、わたしとて彼女の動きは気になった。
先に耐えかねたのは彼女のほうだった。右掌でおのれの胸を示し、続いて言葉を綴る。わたしの感覚をもってすれば名前を教えられているのだと思う。見よう見まねで指を組んでみるが、彼女は困ったように同じ動きを繰り返すばかりだ。これでは埒があかない。諦めてわたしは彼女の眼前に両手を差し出す。正解のかたちを作ってくれ。彼女はためらいながらも手をとってくれた。意外にも指の皮膚は硬い。よく働く者の手だった。
力を抜いてされるがままになる。わたしの指が何度も彼女の名を示す。指を重ねるときの順番や角度にも細かく決まりがあるようで、やってみるとすぐに直されてしまう。彼女が手を出してこなくなるまでにすっかり疲れ果ててしまった。これは思った以上に難儀かもしれない。こちらからは名乗ることすらできないではないか。帰りたいと伝えられるのはどれほど先か。滑落した距離もわからないまま、どちらに町があるのか不明なまま出て行くことは無謀でしかない。
彼女はといえば、わたしに名を呼ばせて調子がついたのか別の言葉を綴りはじめた。いや無理だ。次を覚えたら二度と、彼女の名前を形にできないに違いない。しかたなく両手で目を覆う。これなら拒否していることだけは伝わるはずだ。ひと呼吸おいて指の間からうかがうと、しょんぼりと肩を落としている。ぶしつけではあったので申し訳ない気分にもなって、教わったばかりの名を指で呼ぶ。
笑みで返された。屈託のかけらもない明るさだった。さっきまで怯えていたはずなのに。どこの誰とも知れぬ、名前も言葉もわからない人間を相手にどうしてこんな顔ができるのか。たった数文字の名前をやっと綴れただけで。きっとわたしの表情はぎこちなかった。どうやって頬を緩めればいいのか、見当もつかなくなってしまって。
また静けさが訪れる。遠く葉擦れが聞こえた。唐突に彼女が入り口を向く。小動物だったら耳をぴんと立てているだろう。わたしには聞こえない音をじっと検分したのち、指で何かを言い置いて行ってしまった。簡単な挨拶というか、待っていてくれとかそんなところだろう。ぼんやりと寝床に転がっているうちに眠ってしまった。浅く漂う意識の中で、焚火の夢を見た。
次に気づいたときには彼女が傍らに座っていた。つややかな緑の葉を広げてみせてくれる。中で湯気を立てているのは穀物か芋か、澱粉質を練った主食と思しきものだった。彼女も食事はまだだったようで、もう一つの葉包みを広げている。葉を端から剥いで手に持ち、齧る。粘度は高く、垂れ落ちてしまうことはなかった。温かでほのかに甘い。舌触りはなめらかで固いところはない。山に自生する芋類の味に似ていた。
思い立って彼女の名を呼ぶ。ついで、持っている食べ物をかかげてみる。いったん置いて手を差し出した。彼女はいちど自分で指を組んでみせ、わたしの手でそれを再現する。よしとされる頃にはすっかり冷めてしまっていたが、少なくともこれで食べ物を要求することは可能になる。たった二つの単語でも、指に馴染みきってはいない。たとえば音声で意思の疎通ができたなら、もっと早く覚えられたのだろうか。逆にわたしが元々手話に堪能だったら。いや、仮定のなかで悩むことはすまい。もういちど教わった動きを頭の中でなぞった。
入り口に掛かる布のあいだから入る光に赤みが帯びて、夕暮れが近いとわかる。竹を組んだ壁からも点々と明るさが漏れている。体感では初めての、この村の夜を迎えようとしていた。
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